第六十七話






人を殺した後に見る笑顔というのは、仕事終わりのビールのような、浮気がばれた瞬間のような、両極端にある。ある日、仕事から帰宅した櫃本臙脂が見た物はプリクラだった。そこには自分の娘と女の子二人が映っていて、満面の笑みを浮かべている姿があった。
きらきらと目が眩むような色彩と光が凝縮され、『ズッ友!』『マジヤベー』と、らくがきもされていた。若々しさに溢れた写真に、臙脂は黙って見つめた。
父が帰宅したことに気が付いた千歳が出迎えたが、机の上の置き忘れに気が付き、慌ててそれをバッとかるたを取るように奪い、そして後ろへ隠した。
「お、お帰りなさい! お父さん!」
目の前で一から全ての犯行を見ていたにも関わらず、臙脂は何も言わずにネクタイを緩めた。
「ああ、ただいま、千歳」
そのまま風呂に向かった臙脂に、千歳はホッと胸を撫で下ろした。すぐにプリクラをしまった。
風呂から上がった臙脂はリビングで酒を飲んでいた。キッチンには妻が立っており、千歳は目の前に座っている。
何でもない会話が終わった時、臙脂がまた、何でもない話題に触れるように千歳に尋ねた。
「ところで、ズッ友とは一体どういう意味なんだ?」
「えっ」
ビクッ、と反応した千歳は視線を泳がせたあと、だらだらと汗を流した。そして、この場を切り抜けるいい方便が浮かばないので、おずおずと正直に言った。
「……えっと、その、ずっと、友達、の略称、だと、思います」
改めて言うと恥ずかしいなと照れている千歳を、父は冷淡な目で見据えていた。
「そうか」
食事を終えて母が食器を洗う音を聞きながら、千歳は目の前に座る父をちらりと見た。顎には小さな傷があり、コップを持つ手を見ると、指の先は丸々としている。指先が一回り大きく見えるのは、爪が小さくなっているからだ。
以前、爪をはがされたせいだと言っていた。想像しただけで顔が歪む。
『トイレで指挟んじゃってさー、ほら、見て、赤くなってるでしょ?』
『マジヤベー』
『本当だ、痛そう』
その時、学校で授業の合間の会話を思い出した。その時の千歳は眉を顰めて、友人の細い指を見て心の底からそう言ったのだ。
ハッ、とした。痛そうだ、確かにそうだった。同情もする。だが、あの場面を父が見ていたらどうだろう。顔を上げて父を見る。背骨が氷で出来ているかのように、身体の芯から冷える。
軽々しい言葉は、父には使わない様にと常に心掛けている。
出来るだけ簡潔に、シンプルに。余計な事は言わずに。
父がコップを置いて千歳を見据えた。
「もし、先ほどの写真を捨てろと言ったら、捨てられるか? 千歳」
突然のビンタのような言葉に、暫く言葉を失った。
「……どういう、事でしょうか」
「イエスかノーかで答えなさい」
息をつめた。膝の上に置いた手を、ぎゅっと握りしめた。
「……捨てます」
楽しい思い出の一部。単なる思い出の一つでしかない。目障りなら捨てよう。心の底から納得してゴミ箱に投げ入れる事は出来ないが、捨てられるだろうと思った。
臙脂は千歳に立ち上がるように促した。もしかして、これからそうするつもりなのだろうかと腰を上げた。
「お前は」
スッ、と、千歳のポケットからプリクラを、そして服の隙間に忍ばせていたナイフを簡単に抜き取った父が、目の前で千歳に見せた後、机に置く。
「どちらかを捨てるべきだ」
こつん、と、ナイフの柄が机に当たる音がする。ぺらり、と、プリクラが軽く机の上で滑っている。
千歳の瞳が揺れた。ごくりと唾を飲み、ナイフとプリクラの運命を握っている父に、緊張で汗がにじむ。
「千歳、殺し屋になりたいか」
「はい」
小さなころから何度か聞かれた質問に、詰まる事なく答えることが出来た。
静かな声は、どんな意味があるのか、昔から分からない。
そんな調子で、初めての質問だった。
「友達が欲しいか」
「………は、い」
カッ、と羞恥で頬が赤く染まった。
この父の前で嘘をつく事は出来ない。プライドにも似た素直さだった。今までの質問に対する侮辱のような本音は、父をも蔑んでいるようだった。
「私は、お前に殺し屋になるための条件を、ヒントをやってきたつもりだ。ただ愚直に殺し屋を目指して歩いてきたお前を、誇らしく、尊敬していた」
緊張と、羞恥と、父の言葉に涙が出そうになった。後ろめたさよりも、あの父が自分に向かってそんな言葉を送ってくれたことに対する感動が大きかった。生まれて初めて感じる高揚感に似た何かが、千歳の全身を支配した。
身体が一気に軽くなり、毛穴という毛穴から熱が噴き出てしまいそうになる。
今、一人になったら部屋中を走り回り喜びを噛みしめるだろう。
だが、今は一人ではない。父の言葉も顔面通りに受け止める事は出来ない。
その言葉の奥にある、氷のような冷たさを感じて、千歳の身体は一気に冷たくなり、ぶるりと震えた。
「今まで、犠牲を払ってお前はここまでのレベルに達した。並大抵の事ではない」
ギラリ、と、机の上のサバイバルナイフが光る。そのナイフを自分の手足のように動かせるようになるまで、一体どれくらいの時間がかかったのだろう。長い時間触り続けて思うように動かせるようになるまで、一体何を犠牲にしてきたのだろう。
ナイフを握る事で何を手放してきたのだろう。そんな疑問も湧かなかった。だが、今その疑問に答えることができる。二人の女の子の顔が浮かぶ。
「だが、お前は欲張りになった。そう言う年頃だ。何でも欲しがる。昔からそうだった……お前は掴めると言うのか?」
キッチンでは母が皿を洗っている。二人の会話に入ってくる気はないようだ。父の厳重な檻のような言葉を前に、千歳は黙ってしまった。
燐灰町に越してきてから、ナイフを持つ回数より、ペンを持つ回数の方が多くなかっただろうか。
殺気を飛ばす回数より、笑顔の方が多くなかったか。
喧嘩する回数よりも、友人と出掛けることが多くなったんじゃないのか。
父にいつの間にか追いつめられている事に気が付いた。事実を突きつけるのではなく、きっかけを与えただけだ。千歳が父との会話で霧が晴れるように、今まで隠していた事実が晒されている。
「千歳、彼女たちはお前の武器にはならない」
ぐっ、と下唇を噛みしめた。
今すぐに切り捨てなければ。
だが、それは千歳にとって、自分の手首を切り落とすほどの気力と覚悟がいる事だった。
「だが、彼女たちの友人として生きていくこともできる」
だが、父の言葉に千歳はハッと顔をあげた。そこにはいつもの憮然とした父の顔があった。
手首を切り落とすよりも深い傷が千歳の心の奥に刻まれた。
「欲張ったお前には、道が二つ出来ている」
「……そ、それは……嫌です」
「何がだ?」
「……殺し屋になれないなんて、絶対に、嫌です」
今まで、何を犠牲にしてきたのか。それを父は知っている。今までずっと見守ってくれていたはずだ。だからこそ、どうしてそんな酷い事を言うのか千歳には分からなかった。
殺し屋になるのは当たり前の事だ。父の背中を見て、それを目指して歩んできた。心の奥底にある机の引き出しの拳銃を手にする時を、どんな気持ちで待っているか知っているはずだ。
屈辱感に顔を歪め、睨むようにそう言う娘に、臙脂ははっきりと言った。
「ならば捨てろ。友人を切り捨てろ」
父がナイフを渡してくる。見えないナイフだ。今、この場で手首を落とせと言ってくる。
グッ、と千歳は恐怖に身を固めた。
「……無駄な、事なのでしょうか」
「ほう?」
「……普通の人間と接する事も、殺し屋にとって、必要な事ではないでしょうか。潜入するにも、必要な演技にも、役立つかもしれな……」
拳銃の発砲音かと思った。
耳元でパンッ、と、頬を叩かれた衝撃に、千歳は固まった。呆気にとられた後、すぐに理解して謝った。
「……ごめんなさい」
地を這う声だった。己の愚かさに恥じた声音に、父はすっと手を下ろした。
頭を下げ、父の足先を見た。そして自分の足元を見た。大きさの違う足。場数の違う足だ。くだらない言い訳で、くだらない延命だ。こんな事をしても何の為にもならない。
「千歳、お前の腕では耐え切れない。どちらかを切り捨てなさい」
じんじんと痛む頬が熱を帯びてきた。そうだ、私には耐え切れない。こんな馬鹿な真似をして、頬に一撃を許される私には、器用にどちらも、なんてできるはずもない。
分かっていたことだ。それなのにどうして忘れてしまったのだろう。
あの時、新橋透に、殺し屋として研磨してきた時間を切り捨てられたからなのだろうか。
「……はい」
千歳は顔をあげて、静かに返事をした。
今度はもう迷わない。
手首を切り落とす。



「あっ」
そんな声が台所から聞こえてきたので、透は視線を上げた。天気予報を見ている父も後ろを振り返って様子を伺う。そこにはフライパンを前に硬直している母がいた。じゅうう、と、焼ける音がし続けているので、透は不安に思って腰をあげた。
「母さん、どうしたの?」
「あ、ごめんねー、なんでもないの」
振り返ってニコニコと笑いながら、卵の殻をぽいっと捨てた。もしかして指でも切ったのかと心配したが杞憂だったようだ。
父は暫く母を見ていた後、またゆっくり元の位置に戻って珈琲を飲み、ふぅ、と息を吐いた。
「そういえば透、お前最近どうなんだ?」
「どうって、別に、うん……」
「はは、なんだそりゃ」
がさ、と新聞紙を閉じて机の上に置いた。濁す言葉になったのは、いなしたわけではない。色々ありすぎて、一言でまとめることができなかった。最近どうなんだ、という言葉で引き出されたクラスメイトや日長山にいる人などが駆け巡り、正しく説明できる自信が無くなったのだ。
何よりその先頭にいる光の本当の姿を知らない父にうまくかわしながら説明できるとは思えなかった。父と母にとって光は、周りの人間と同じように優等生の評価を下している。
変に墓穴を掘って光の正体を知られた後の事を思うと、やはり笑うしかない。何を言われるか、されるか、させられるか。
そんな恐怖の妹は不在だ。毎回思うが、たった一人いないだけで、こんなに空間を感じるものなのだろうか。良くも悪くも光の存在は強烈だ。今も、朝ごはんにいないだけで、ほっとしているような、寂しいような。
――出て行ったって、清々してたのにな。
最初は喜び、徐々に空虚になっていく。苛烈な妹の印象は、時間が経つにつれ徐々に薄まり、やがて一人の家族が不在というシンプルな寂しさに襲われる。
酷い目にあわされている透がこんな風に感じているのに、両親はどう思っているのだろうか。優等生で、喧嘩などしないと思っている両親は、そんな娘が不在だという事に何と思っているのか。
今回、師匠に会いに行くと透に告げて出て行ったが、両親には自分探しの旅と称して出かけている。その理由をどう咀嚼すれば、そんな風に笑顔で朝食が取れるのか。
「……あのさ」
「ん?」
朝からするには重い話だなと思いつつも、透は思わず聞いてみた。
「父さんはさ、俺達がいなかったりして、怒らないの?」
「……ふむ」
少し唇を突き出し、父は顎を触って背もたれに身体を全て預けた。透はその間に、聞くべきじゃなかったかと冷や汗を流した。
朝から、そうだ、いままでずっとどうかと思っていたんだと、親からの叱責の切り口を作ってしまったのではないかと思った。子供が勝手に、と、正論の説教にぐっと耐える事が出来るか不安だった。
父は目を閉じて、机の上に両手を置いた。
キッチンからじゅうじゅうと、焼ける音が響いてくる。
「信じているからな、父さんは」
最初の一言の声音で、透は肩の力が抜けた。ほっとした。そして呆気にとられた。
「父さんも母さんも信じてるからな。自分の子供だ。世界で一番信頼している」
こんな風に、面と向かって信頼としていると言われるのは初めてではないだろうか。普通に照れる。
「喧嘩も、まあ、悪い事……なのかもしれないが、母さんはあんまり……アレだけど、父さんは別にいいと思ってる。喧嘩の仕方くらい知っておいて損はない。将来役立つかもしれない」
「はは……」
喧嘩のレベルをとうに超えてしまっているのだが、透は苦笑いで濁した。
「それに、父さんのお父さん……つまり、おじいちゃんがいなかったから、お前くらいの時はずっと働いてたんだよ。それもいい経験だったけど、学校に行って、馬鹿な事もやりたかったなって思うよ。友達も皆学校行ってたし、あんまり都合あわなくてな」
その言葉に、透は少し俯いた。透と光にとっての祖父は、父が物心つく前にもう死んでいたらしく、女手一つで息子を育てるのは無理だった為、中学を卒業したら父が働いていたらしい。
だが、父が18の時に祖母が再婚し、新しい家族が増えた。
思春期真っ只中の父は新たな家族と共に住むことも嫌がり、そのまま一人暮らしをする事になった。そして母と出会い結婚し、透と光が生まれた。
「兄妹仲もいいし、何も問題ないと思ってるよ」
「えっ、どこが!?」
思わず立ち上がって叫んでしまった。あの暴力を生きる術としている光と、全く普通の自分が何処をどう見たら仲がいいと言えるのか。
実情を知らなくても、仲がいいとは思えない溝があると透は思っている。
「えー、だってよく一緒に並んで座ってるし、テレビ見てるし、会話してるし」
「いやいや! 普通だって! よくないって! しかも最後のは必要最低限の事だし」
ムキになって叫んだ後、ハッとした。
祖母の再婚相手の男には、連れ子がいた。
父より4歳年上の息子がおり、結果的に血の繋がらない兄がいる。
父にとって兄弟とは、ぎくしゃくとした関係が普通なのかもしれない。一緒に住んでいなかったとも言っていたし。
その基準からみれば、確かに血が繋がっていて、あまつ双子の自分たちは、いくら溝があろうとも、血の繋がりという見えない糸の強靭さが父には見えているのかもしれない。
「……そりゃ、双子だし、年も一緒でクラスも一緒だし、色々話すことはあるけどさ」
「子供たちが仲がいいと、嬉しいんだ。見てて癒される」
「はは……そういうもん?」
光が笑顔で他校の不良を殴っている姿を見て、怯えている透の姿を見ても同じことを言えるのだろうか。
「まあ、いんだ。光も透も元気に育ってくれれば。学校だって休めばいい。行きたくなければ行かなくていい。今やりたいことがあるなら、その方が学校よりも大切だと思ってるから、父さんは何も言わない」
「……でもさ、父さんは学校に行きたかったんだろ? だったら嫌じゃない?」
「それは、父さんがそうだったってだけで、お前たちに押し付けるのは違うだろ。人形じゃないんだから。光は今いないけど、家にいるよりも大切なことがあるんだろう。心配はするけど、強制はしないつもりだ。勉強よりも大切なことがあるって、知ってるよ」
「えっ、知ってるって……光の事……?」
今まで落ち着いて話していた父のバックに、光の秘密というものがあったのだろうか。だとすると、透はまた言葉を反芻して飲み込まなければならない。
「別にそこまで知らないけどさ、友情とか、あとは……なんだろ、自分探しの旅とかしてるんじゃないかって思ってるけど」
「ああ、そういう……」
どうやら違っていたらしい。光がそんな、真面目に学校をサボっているはずもない。喧嘩に強くなるために師匠の所へ行ってるなど、父が知っている筈もない。
知っていれば是が非でも連れ戻そうとするだろう。女子高生が喧嘩に強くなってどうするんだと。
「お前も、何処か旅をしたいって言うなら許すよ。でも、最低限の勉強はしておけよ。もうすぐ中間テストなんだろ? 光がいなくて大丈夫か?」
「あー、うん、まあ、ね。うん、大丈夫、だと、思うけどね」
毎回、試験の時になると光がつきっきりで透の勉強を見るのが習慣になっていた。
理由としては「私の兄が赤点をとるなんて恥ずかしくって死んじゃう」という、自分基準のものだったのだが、おかげで透は毎回赤点を回避する事に成功している。
今回は光不在の為、その勉強会もないわけだが。
――まあ、古代さんの所で勉強もしてるし……
塾のようなものではなく、勉強時間を設けられているだけだが、いつもよりも勉強していると透は思っている。
勉強よりも働きたい欲求が強いエンブリオは、あまり成績がよろしくないようで、透の学力よりも下だという事が判明した。
「殺しに学校の勉強など必要ない!」
「お前、ワシが学生の時と同じこと言うとるで!」
『彼みたいになってもいいの?』
「さて、やるか」
「おい! どういう意味や!」
と、中々騒がしい日長山で静かな時間が生まれていた。
「……光はいつ帰ってくるかな」
思わずぽつりと呟いた言葉に、父が苦笑して答えた。
「さすがにテスト前には帰ってくると思うけどなぁ。まあ、光も大丈夫だろう」
光はテスト週間の事を把握して出て行ったのだろうか。メールくらいは入れておいた方がいいのか、と、悩んでいると、母が透と父の前に朝食の皿を出した。
「あれ?」
ぱっと皿を見ると、いつもは一つある黄身が二つある事に気が付いた。
「これ、どうしたの? なんで二個?」
「ああ、癖だろ。光がいないから」
そう透と父が言うと、母はくすくすと笑い、自慢げに言った。
「違うわよ、一つの卵から出てきたの。双子よ双子! 光がいないの勿体ない!」
へー、ラッキーだな。と、父が言う。
目玉焼きを見た。二つだ。光がいれば半分ずつになっていただろう双子の黄身は、光がいないために透の前に一つの皿の上に、こちらを監視する眼球のように並んでいる。
黄身の上の透明な膜がきらりと光る。透は箸で割った。程よい弾力の後、ぶつりと膜が切れた。どろりと血のように半熟の黄身が流れ出した。
もう片方もそうすると、まるで泣いているように見えた。














20160924



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