第六十五話






そよそよと心地よい風が、森の中を駆け抜けている。心地よい自然の香水を纏った風は木々を抜けて、開けた場所に顔を出すと、一気にスピードを上げて空に舞い上がっていく。五月の風は透の髪の毛を擽って逃げていく。日長山の古代の道場兼家の前で、透は何度目か分からないこよりを鼻の中につっこんで、誘うように動かしている。
そんな透の前には、真顔で腕を組んでそんな姿を黙って見ているエンブリオ。
透は顔をくしゃくしゃに歪め、
「……ぶえっくしょん!」
ただのくしゃみを吐き出した。
エンブリオはそのくしゃみを見て、諦めたように溜息を吐いた。傍らに置かれている大仰な自分の武器を手に取る必要もない状況にいい加減うんざりしてきた。
「いい加減にしろよ! いつ出るんだ、殺人くしゃみは。待ってる俺が馬鹿みたいじゃないか」
「そ、そんな事言われても……こっちもそれなりに必死だよ。特に鼻」
何度も無理矢理くしゃみをしているせいで、鼻の穴には違和感があるし、鼻の頭も僅かに赤くなっている。無意味にくしゃみを連発するのも、意外と体力を使う。
「アホ! あんなものっそいくしゃみしといて、覚えとらんとはなんやねん! ワシは見たし聞いたんやで! お前、犬の耳のデリケートさ分かるんか!? 死ぬかと思ったわ! 鼓膜破れた思ったわ! あのくしゃみ、満員電車のオッサンの爆音くしゃみより凄かったわ! あの姉ちゃんぶわーって吹っ飛ばしといてよくもまぁ、いけしゃあしゃあと! 絞り出せ! 絞り出して面白人間でテレビ出て賞金貰ってがっぽがっぽやで!」
「いや、それはコチニールの方がなれるよ」
けたたましい犬の鳴き声よりも煩い、酒焼けのしゃがれた声を上げているコチニールに、古代はメモをさっとコチニールの目の前に出した。それを円らな瞳で睨んだ後、また吠えるように声を荒げた。
「古代のおっさん、もうええ言うとるけど、もっとやったほうがええで! もっと頑張れ! 努力や努力! 若いんやから多少鼻にいろんなもん突っ込んでもかまへんやろ! のほほんとこんなええ日にお茶飲んでだらだらしてても、何の意味もないわ! な! 古代のオッサン!」
『僕は休憩しようって言ってるんだけど』
「そんなんええねん! ええねんて! こんな学生なんてな、体力お化けやで! ナンボでも馬鹿な事やろう思えばやれんねん! 徹夜も夕日に向かって走る事も、なんでもできるんや! ワシらみたいに疲れんねん! な! 透!」
「いや、普通に疲れたから休憩するよ……」
「なんでやねん! なんでくしゃみしただけで休憩いるねん! お嬢様か! 箱入り娘か! 箸より重たいもの持った事ないのーってか! やかましわ!」
「お前の方がやかましいぞ犬!」
『煩いのが二匹になって辛いなぁ……』
「あはは……」
すでに日長山に住んでいる子犬のタマは、自分の犬小屋で煩さを気にしつつ、横たわって眠りかけていた。
その犬小屋の隣には、つい最近作ったばっかりのコチニール専用の犬小屋が並んで建っている。
いくら犬とはいえ、元人間、こんな人権侵害を建設してもいいものかと、透がちらりと、犬小屋を建てている古代の横で犬の顔色を伺ったが、
『ま、しょうがないわな。今、ワシ犬やし? 小ささも罪やんな? 古代のオッサンなんて巨人やで、サッカーボールみたいに蹴られても怖いしな。犬は犬らしく生きる事にするわ……』
全てを悟ったような物言いに、透はコチニールを憐れに思った。突然こんな姿になり、そして犬小屋の中で生活するなんてどれほどの苦痛だろうか。
小さな体に大きな決意を感じ取った透は、心の奥底で様々な感情が蠢いたが、全て飲み込んだ。
「やだー! かわいいー!」
「本当だ! 触らせてー!」
だが、古代がコチニールを連れて散歩に出ると、必ず女子高生が笑顔でしゃがみ込み、コチニールの身体を撫でまわす。腹を見せてだらしなく舌を出して寝転がる姿を、古代はただ見下ろすしかできない。
――透君、この犬、何?
コチニールを連れてこられた時、古代はシンプルに思った。
どこから来たのか、どういった経緯で透の隣にいるのか。そして何故、リードもつけずに、まるで人間のようにしっかりとした足取りでここまできているのか。
だが、その疑問をメモに書く事はなかった。家に上げ、お茶を入れて透に出した途端、透と同じように座布団に座っているコチニールのマシンガントークで、筆を取るのも面倒になった身体。
『ワシなぁ、元々人間やってん。こんなかわいらしいけど、二足歩行やってん。ほら、あそこの病院あるやん? しらん? 透輝大学病院。あそこの地下で、事故ったワシは運び込まれてな……』
つらつらと、ぺらぺらと、まるで口が動いていないと死んでしまうというような勢いで、時計の針がぐるぐると周り、太陽もあちらからこちらへ移動するほどにしゃべりつづけた。
入れたお茶もすっかり冷え込んでしまったが、コチニールの口は温まったようにひっきりなしに動いている。
『――せやからなぁ、そこでなんで安パイ持っとかんねんって話になってな。ドラが危ないなんて小学生でもわかるやろってな、いや、小学生麻雀よく知らんやろ! っておもっくそ突っ込まれてん。おいおい、そこでキレんのかいってワシは、』
透輝大学病院からコチニールがきて数日、古代は押されっぱなしだった。
――どうして、こう我の強い人間が……いや、犬だけど、集まってくるんだろう……
古代は森を見つめてそう思った。こんな木々が生い茂るように、人が犇めく都会にいるならいざ知れず、こんな閑静な田舎の山の頂上に集うのか。
その中で透は苦笑するばかりで、特別煩い事はない。
――我関せず。それもどうか、って話なんだけど……
自分を押すこともなく、ただ状況を眺めて抵抗することなく流れに身を任せている。
そういう性なのだろう。昔から流れに逆らう事も、煽られても耐える事に慣れている。その土台を作ってしまったのだろう。
――我慢強いと言うべきか、怠惰と取るべきか……
そんな思考に陥った古代は、休憩に戻って来た透にメモを渡した。
『そういえば、光ちゃんはどうしてるの?』
「あー、アイツは師匠に会いに行ってくるって言って、出て行きましたよ」
「師匠? そんなのいたのか、アイツ」
「うん、俺は会った事ないけど」
エンブリオが、ふーんと、興味があるのかどうなのか、よくわからない反応をする。古代はそんな様子をちらりと見て、見なかったように視線を逸らす。
「浅紫は師匠とかいないの?」
「いるぞ、そこの縁側で茶を飲んでるジジイがな」
古代は更に顔を背け、全く関係ございません。という意思表示をするが、エンブリオは気にせず、その隣に腰をどさりと下ろす。
「ふん、殺人くしゃみだろうがなんだろうが関係ない。俺の方が強いんだからな。一番弟子も俺だろう」
くしゃみを鼻で笑うエンブリオに、透は困ったように笑った後、靴を脱ぎながら言った。
「古代さん、上がらせてもたいますね。ちょっと水飲みたくて」
よいしょー、と、慣れたように家の中に足を踏み入れる透のあとを、小さな体でぴょん、と、コチニールも飛び乗っておいかけた。
「ワシもなんか喉乾いたわ! 透二人分や!」
「叫びすぎなんだって」
のそのそと二人は奥へ消えて行った。縁側には古代とエンブリオが残された。
ざぁ、と風が吹き、木々が騒めく。エンブリオが口を動かす。古代はメモに文字を残す事もなく、口を動かす事もなく黙って聞いていた。そんな音に掻き消える会話は誰にも届く事はなくかわされた。






その日、店内は荒れていた。合えていうなら昨日も荒れていた。その前も、その前も。常に荒れ続けているのが日常のその店は、薄暗い店内の中で、煌々と不規則に輝くライトで照らされている。点滅し、視界を深く遮り、そして明るく照らす。
そこはスナックだった。今は丁度ショータイムの時間で、余計に騒がしかった。ボーイが酒をあっちへこっちへ忙しそうに運ぶ中、角の席に一人の男が酒を飲んでいた。
スーツ姿の坊主頭の老人だった。顔はきつめの顔をしていたが、よく口を開いて、隣に座っている店員たちと会話を楽しんでいた。
「あらあ、それぼったくりよ? ありえない金額だわ」
真っ赤に塗られた肉厚な唇が、甘えたような声で老人、椿に言った。
「それ、全然適正価格じゃないわよぉ?」
「ねぇ?」
椿の横に座った店員二人が、顔を見合わせて頷きあった。
「だとしても、その値段に釣り合う女だったのさ。それくらい払っても文句はなかったからな」
「やっだぁ! なら、この店は安すぎじゃない? アタシたちそんなに安いかしら?」
身体をくねらせ、拗ねたように唇を尖らせるホステスに、椿は喉の奥でくっ、くっ、と笑った。
「俺に何を言わせたいんだ。まったく、いつだってそうだ、女ってのはズルい生き物だと常々思うよ」
「あらぁ、私達ならそんな酷い事しないわぁ?」
「そうよ椿さん! 今まで女とずっといたんでしょ? なら残りの人生はアタシたちと楽しみましょうよ!」
「いやあ、俺は生涯ズルい女につぎ込むって決めてんのさ。この先もびっしりとね」
「まぁ、椿さんこそズルいわ!」
「ここに来たのだって、私達をからかうため?」
「いやいや、たまには小娘より、人生の酸いも甘いもかみ分けてる女と飲みたくなるのさ」
「酸いも甘いもですってー! やだもー! 苦味と辛味も追加して!」
「じゃあ、ついでにシャンパンでも追加するか」
「もー! そういう所かっこいいんだから! 椿さんってばっ!」
どんっ! と、頬に手を当て、照れたように椿の肩を丸太のような腕でどつかれたが、椿はびくともせず、酒を飲んで笑う。
「無駄にかっこつけて酒は継がなくていいぜ。一滴も無駄にせずに気分よく飲もう」
そう言ってグラスに残っていた酒を口に含んだ瞬間、煩く騒がしくカオスな店内に見慣れた姿を捕らえた。
椿が脳でそれが誰なのか判断する前に、身体が反応していた。
飲み込もうとしていた酒が気管に入り込み、思い切り噴き出した。
「やだ! 椿さん大丈夫!?」
「おしぼり持ってきてぇー」
背中を摩る大きな手もお構いなしに、咽た椿は口を手で押さえながら、ギロリと睨み上げるようにそちらを見た。
ネオン輝く店内には、これまたミラーボールのような服装をした性別不明の人間が蠢いている。そんな中に落ち着いた色彩を放つ人間がいた。
長いロングヘアーは淡い栗色で、スカートから覗く足は太過ぎず細過ぎず。
だが、あの足から放たれる蹴りの威力は相当の物だ。椿がそう育てたのだ。
黒いセーラー服は薄暗い店内に溶け込んでしまいそうになっているが、その素朴な制服が、逆に店内の暗さから浮かび上がっていた。
彼女は堂々と椿だけを見据えて近づいて来た。ローファーの爪先は、椿に向いている。
焦香椿は、ぽたぽたと口の端から酒をしたたらせたまま、黙って光を見た。
新橋光だと確認した後、額に手を滑らせ項垂れた。
騒がしい店内が鎮まる気配は何処にもないが、その席にいる人間は全員沈黙していた。
「……師匠」
「言うな、何も言うな」
顔を伏せたまま片手だけを上げて光を制した。黙って立ち尽くす女子高生に、ホステスたちは顔を見合わせ戸惑いながらも笑顔を見せた。
「ちょっとお嬢ちゃん? なんでこんな所にいるのよ?」
「夜遊びは駄目よー、好奇心は分かるけど、危ないわよぉ?」
二人の声も虚しく、光は黙ってじっと椿を見つめていた。そして椿も項垂れたまま動かない。無理に盛り上げようとした二人だったが、その沈黙に長い睫毛を瞬かせた。
「……もしかして、椿さんのお孫さん?」
「あらやだ、おじいちゃんがこんな店にいるの見ちゃって、ショックなのねぇ」
「息子のこんな姿を見た母親より、ショックは薄いんじゃない?」
「ヤーダ! あっはははははは!」
沈黙を打破する笑い声が響くが、無理矢理の声も虚しく、未だ光と椿の間には重苦しい沈黙がある。困ったように目を見合わせるが、これ以上どうすればいいのか。
椿はやっと言葉を見つけたらしく、ゆっくりと顔を上げて呟いた。
「……そう、たまには、な。毎日白米って言うのもアレだろ? たまにはパンとか、パスタとか……そういうスパイスが欲しくなっただけで、俺自身がスパイシーになったわけじゃねぇんだ。何が言いたいのかっていうと、誤解だ。ただの五階だ」
光はまだ黙ったままである。店員が二人が慌てて立ち上がり光の肩を叩いて困ったように笑った。
「そうよー、男にはたまにはそういう時があるのよ! 深い意味なくね!」
「女には分からない事も、アタシたちは分かったりとか、ね? そういうタイミングなのよっ! ほら、こっち座りなさいよ。オレンジジュース奢ったげるから!」
ぽんぽんと、椿の隣の席を叩く。肩を抱いて促すが、光は頑なにその場から動かなかった。先ほどから、椿や店員二人の言葉に全く反応を示さない。ずっと一点だけを、椿だけを見据えたまま直立不動だ。
椿が発言しても何も反応していない。ずっと、息絶える間際の動物を見ているような神妙な表情で佇んでいる。
もしかして、原因は椿にはないのでは、と思い始めた時、するりと肩を掴む手から抜け出した光に、全員が目を丸くした。
「えっ?」
光はその場で膝をつき、地面に額を押し付けた。
喧騒のオカマバーの中で、土下座が一輪の花のように綺麗に咲いた。



ふぅー、と、夜の公園に煙草の煙が広がり消えて行く。この町の人間のようだった。
燐灰町とは違い、都会の真ん中にある公園は、木々が眠る森のように生えているビルの隙間にあった。ちらほらと電気がついているが、店の並ぶ場所から少し離れると、田舎とは違った陰鬱な暗さがあった。
猫の額ほどの公園の小さなブランコに腰掛け、がっくりと頭を下げて大きなため息を吐いた。
「あぁ、まったく、お前って女は……いや少女か? いや、女だ、ああいう事をするズルい考え方は女だぜ。あのオカマたちめ……俺がお前にそういう事を強要する性癖を持っていると思い込みやがって……いつだってそうだ、そう考える人間の方が実は卑しいんだ。わかるだろう? 光」
くいっ、と煙草を挟んだまま光に指を向ける。
「俺達は強いから、敵の動きが予想できる。俺達が強いから、敵の思考を読める。つまり、土下座プレイをさせてる、って思ったあの連中こそが、土下座プレイの化身ってわけなんだよ。わかるだろう?」
ブランコから数メートル離れた場所で、光は直立のまま動かない。
あの明るく煩い場所から逃れ、暗く静かな場所に移動しても、光の反応は変わらない。一体何に話しかけているのだろうか。ちゃんと人間か? もしかして、新橋光ではなく案山子か? と、椿は眉を跳ねさせ煙草を吸う。
やるせない手ごたえに、椿は胸ポケットから携帯灰皿を取り出し、短くなった煙草を消した。
「それで? こんな夜中に、こんな場所で何の用だ? 遊びに来たわけでもあるまいに。何の用だ? 何が言いたい? 何がしたいんだ? いつだってそうだ、お前は貫き通さないと気が済まない奴だったからな。どうせまた、頑固に決めつけてやってきたんだろう」
俺に弟子入りした時もそうだったろう。と、椿が続ける前に、光はまた公園の真ん中で土下座した。
椿は何度目か分からない溜息を吐いた。もう、周りには土下座プレイだと騒ぎ、罵り、女子高生に変な事を教えるなと店から追い出すオカマたちはいない。酒を楽しむことも、ソファーもない。錆びついたブランコの鎖を鳴らしながら立ち上がる。
「だが、珍しいな。お前がそうするなんてな。どこで覚えた? 聞くのが怖いぜ」
「人を殺す方法を教えてください」
「何?」
「人を殺せる力が欲しいんです」
ざぁぁ、と、ビルの隙間風が生温く椿の頬を撫でた。光の髪の毛も揺れた。暫く立ち尽くした後、ゆっくり光の前に立ち、地面に片膝をついてしゃがみ込んだ。
「顔を上げろ」
素直に顔を上げた。
「ふざけんじゃねぇ!!」
パァンッ! と、左頬を手を振りかぶり叩いた。光は簡単に吹き飛んでいった。ゴミ箱に頭をぶつけ、倒れた。
「言うに事書いて、わざわざそんなくだらねぇ事を言いに来たのか! くだらねぇ! 時間を割いて損したぜ! 二度とその面見せんじゃねぇ!」
激怒した椿は、スーツの襟を正しながら光に背を向け歩き出した。ガラガラ、と、ゴミ箱の中の空き缶が転がる音がした後、光の焦った声が夜の公園に響き割った。
「師匠!」
「煩ぇ! 呼ぶな! 喧嘩が強くなって何を思ったのか……馬鹿としか言いようがねぇ! ガキの戯言に付き合ってる暇は俺にはねぇんだよ!」
「本気です!」
「尚更意味が分からねぇ! お前は、人殺しがしたくて俺に弟子入りしてきたのか!?」
怒りの表情をこれでもかと顔に出して振り返った。どれほどの圧力を与えているのか自覚しつつも、それを光に向けざる負えなかった。
そこにはゴミ箱に投げ飛ばされ、少し汚れた光がいた。真剣な目をしていた。その目は昔見た。
七歳の女の子が、強面の椿に弟子にしてほしいと嘆願する姿があった。つい昨日の出来事のように思い出せる。あんなに小さかった女の子が、今ではすくすくと成長し、今では人を殺したいと言うようになった。
椿はギリッ、と奥歯を噛みしめた。
「言っておくが、やめておけ。人を殺しても何の意味もねぇ。虚しさや罪悪感、最悪なものしか残らない。何もいい事なんてありはしねぇよ」
人の死を見てきた椿の濁った目は、一瞬伏せられた。
仕事でも、私怨でも、事故でも、食事でも、どんな光景も見るべきではない。
「家族がいて、学校にも行けて、平和な町で、女で、何を考えてるんだ、お前は」
「反抗じゃなくて、成長です」
「んな事はどうでもいい。人を殺す? 殺したいのか? 最初から人殺しがしたいがために、俺に弟子入りして、強さを学んだのか?」
「はい」
「そうか、なら俺が責任を取ろう」
間髪入れない返事に、椿は襟を正して一歩、光に近づいた。
「今、ここで殺してやろう」
ブワッ、と殺気を飛ばす椿に、光は汗を一滴地面に落とした。だが、ここで引くわけにはいかない。予想していた言葉が吐かれただけだ。予想以上の殺気に身体が震えているだけだ。敵わないと思う相手が一歩一歩近づいてくるだけだ。何も恐れる事などない。
光はじっと静かに待っていた。
言葉の齟齬があると、椿もきっと理解しているだろう。なら、このまま殺す事はないだろう。
「快楽殺人者の弟子はいらねぇ」
だから、こうして分かりやすく、椿は言い訳する会話の切り口を見せてくれた。光はほっと息を吐いて口を開いた。
「それは違います」
「お前は人を殺したいんだろう?」
「いいえ」
ゆっくりと首を横に振った光に、椿は鋭い眼光を緩ませず問い掛ける。
「お前は強くなりたいと言って、俺に弟子入りした。ほぼ無理矢理な」
「はい」
「俺は受け入れた。喧嘩に強くなりたいと言っていたし、お前は実際強かった」
「はい」
「何故、人を殺したいだなんて言ったんだ?」
まるで尋問のようだなと思いながら、光は答える。
「人を殺したいのではなく、人を殺せる力が欲しいのです」
「どうして今のままで満足しないんだ。普通の人間よりも普通に強いぜ、お前は」
肩を軽く竦め、軽い言葉で紡いだ椿に、腹を割って話そうぜ、と、言われていると光は思った。だが、まだ緊張を緩めるわけにはいかない。ごくりと唾を飲み、身体の奥底に沈ませていた、常にある感覚を言葉にする事に怯んだ。
初めてこの感情を言葉にして、人に伝える。
まるで告白のようだと、光は震える声で呟いた。
「カーニバルが怖いんです」



ビル風が止み、喧騒が遠くに消えて行ったかのようだった。椿の思考が停止した。そしてゆっくりと口を開いた。
「……知っていたのか」
「はい」
ぎゅっ、と、手を握りしめ、唇を噛みしめ、俯く光は、まるで親に怒られている子供のようだった。呆気にとられた椿が胸を大きく膨らませ、深呼吸した。
「どこで知った」
「……見ました」
「……いつ」
「七歳の、時に」
弟子入りしたのもその頃だ。椿は片手で顔を覆った。眉を顰め、夜空を見上げた。
全く気が付かなかった。よく考えればわかる事だ。七歳の女の子が、喧嘩が好きだからと言って、こんな男に弟子入りするなんておかしな話だ。その原因が何なのか、十年経ってやっと知ることが出来た。
「その時から、恐ろしくてたまりませんでした」
光の声に、椿は視線を下ろした。光はまだ俯いたまま、ぽつりぽつりと呟いた。
「……師匠、カーニバルを殺せる手段を教えてください。師匠なら、知ってるはずだって、思っていました……」
「……知ってるも何も、俺は殺し屋だからな……お前は、知らなかっただろうが」
光の告白に、こちらも告白しなければと、絞り出した答えだったのだが、
「いえ、知ってました」
「何!? いつ!? なんでだ!?」
「顔つきで」
「偏見もいいところだな!」
強面全員殺し屋だと思って生きているのかコイツは! と、椿が眉を顰め、また煙草に火をつけていると、光が更に続けた。
「師匠は、カーニバルの怖さを知ってる人だって、思いました。だから……」
「お前の言いたい事は分かった。だが、別に今のままでも十分だと思うぜ。ちゃんと自衛できる。カーニバルっつってもピンからキリまでいるからな」
「私一人じゃ駄目なんです」
ぴくり、と椿が眉を跳ねさせた。
「双子のか」
「はい」
「光、お前はいつだってそうだ、兄だったか弟だったかの事を、過保護というか、舐めきっているというか……お前が一生面倒見るわけじゃあるまいに」
「それでは困ります」
それでは駄目なんです。と、続ける光のつむじを見下ろして椿は眉を寄せて煙草を吸う。
「まさか、そうするつもりなのか? それはどうなんだ? いくら双子と言っても、どっちの為にもならんだろう。お前が強くなるより、もう片方を鍛えた方がいいんじゃないのか?」
「私は透に老衰死してもらいたいんです」
「は?」
女子高生から出た言葉に、椿は呆気にとられた。今、何て言ったこのガキは。
「普通に結婚して、子供を作って、会社に入って、年を取って、孫も出来たら嬉しい。病気もせず、事故もせず、食べられず、何も知らないまま死んでほしい」
「……そ……」
「幸せな世界を信じたまま、生きて死んでほしい」
不良ばかりのあの田舎町で、わけのわからない人間とかかわり合いながらも、楽しんで成長し、そしてそのまま何も知らず、眠ったように死んで欲しい。死んだことすら知らないように。
大荒れの波などいらない。難破船など必要ない。凪状態の海のあの静けさが、彼の人生であればいい。少しの風は自分が起こそう。理不尽で破天荒な双子の妹がいることがコンプレックスで、自分の唯一の困りごとだと思ってくれればいい。
その為ならば、先に進んで、石橋を叩いて叩いて叩いて叩きまくり、荒地を舗装し、泥道を足で踏みつけ頑丈にし、蜘蛛の巣を取り払い、猛獣がいるならば全力で戦って殺す。そうして、光が選び、手入れして安全が確保された道を、出来るだけ踏み外さない様に歩いて欲しい。
光が透の姿をして暴れ回るのを見て、その姿に怒り、共に強くなる道を選んでほしかった。光はいつだって、透と喧嘩がしたかった。
光はずっとやきもきしていた。光が選んだ道を透は中々歩まない。
警戒する猫のように、太った猫のように歩こうとしない。
無理矢理その道に引きずりこもうと、つい最近まで躍起になっていた。
だが、その道に乗せたとしても、心が伴わなければ、透が歩こうと思わなければ意味がない。その道をまっすぐ歩こうと思わなければ。
透のやる気が大事だった。光は透のやる気を待っていた。
本来ならば、高校に入るまでにその道を歩かせる予定だったのだが、透は高校に入っても光を怯え、放置し、怒りどころか諦めていた。
光が透の立場なら、迷う事なく強くなって殴り飛ばすはずなのにと、激怒した。
高校に入ってその怒りがマックスになり、日々酷く当たった。それにも関わらず、のんべんだらりと一ヶ月が経とうとしていた。
どうするべきかと悩んでいた矢先だった。
透が古代紫に弟子入りした後、あの透輝大学病院の地下で見た力に、光は安堵した。
本当は肉体ももっと強靭になってほしかったが、多くは望まない。
あの石竹霙を退かせたのは、僥倖以外の何物でもなかった。
やっと、透が、光の望んだ道を歩き始めたのだ。
安全は確保された。ならば、次の、もっと先の道を舗装しなければならない時期に差し掛かっている。
だから光は椿の元へやってきた。
「……カーニバルってのは、雨みたいなもんだ。全員が敵ってわけじゃねぇよ……」
煙草の香りがする。目を閉じてもこの声と香りで、椿が傍にいると分かる。
「無理に殺す必要なんてねぇよ。奴らも、人間みたいなもんだ。お前が知ったのも通り雨にあったみたいなもんで、事故みたいなもんで……だから、双子のもう片方に当たるとは限らねぇよ。この世には、カーニバルを知らずに死んでく人間が大勢いる。あんまり気にしすぎるのも、」
「もう、私が見た……」
ぎゅう、と目を閉じ、眉根に力を込めて、絞り出すように言った。
「それだけで、もう、決まったような、ものなんです……!」
あの時の光景を憶えている。カーニバルとは、カーニバルは、
脳裏で過去の映像が流れ、ぎゅう、と身体の奥底がねじれるように痛みだす。
「師匠……!」
双子とは、デジャブの塊だ。片方が欠伸をしたらもう片方も欠伸をする。まったく違う場所で同じものを食べていたり、遠くにいても相手が何処にいるのかなんとなく分かったり、そんな見えない繋がった糸を感じている光は、確信していた。
いずれ透も知るときがくる。それまでに、出来るだけの準備を整えておきたい。
双子の妹である自分がこれだけの強さを手に入れる事が出来たのだから、透にもできるはずだと思っていた。だが、そんな悠長なことは言っていられない。
奇しくもあの透輝大学病院で、カーニバルの気配を感じた。
透はもう関わっている。ほんのわずかな世界の違和感を感じているかもしれない。
それからしばらくすると、ザッザッ、と、椿の革靴が遠ざかる音がした。光が思わず顔を上げると、椿はくいっ、と、指を曲げて光についてくるように促した。
その背中に光はついて行った。毒々しい花のようなネオンの中を歩いていくと、マンションにたどり着いた。どうやら椿の住居らしい。お互い何も言わずに部屋まで歩いていく。3LDKの部屋だった。リビングは広く、部屋の状態も真新しい。必要最低限の家具しかなく、生活感はない。
椿が寝室に入り、光もそれに続いた。大きなベッドと巨大なクローゼットがあった。中を見なくとも、スーツの大群がひしめき合っているのだろうと光は思った。
寝室のさらに奥にもう一つ部屋があった。その部屋に椿が入り、木の細長い箱を持って出てきた。
それを光に差し出した。
「……これ、は?」
戸惑いながらも箱を受け取った光は、椿に促され箱を開けた。そこには綺麗な柄に収まっている、日本刀があった。
光が顔をあげ、椿を見た。
椿は決まりが悪そうに視線を反らし、頭をぽりぽりと掻きながら言った。
「まあ、お前がいつか、くだらねぇ事を言ってきたらやろうって思ってたんだよ。まさか、人殺したいなんて言うとは、思わなかったが」
椿はいつも気ままにふらふらと出歩く男だ。昔から、一定の場所にとどまる性分じゃないと言っていた。
色々な場所に家を持っていて、ホテルに泊まり、時には公園で寝る時もある。気まぐれな男だ。持ち歩くのは金と煙草とスーツくらいだ。
だが、この刀はすぐ近くの、今住んでいるマンションの部屋にあった。綺麗な箱だが、年月を感じる。
いつ買ったのかは分からない。だが、光は箱を持ったまま俯いていた。
「……師匠……」
「使い方は俺が教えてやる。山に入るぞ、人目に付いたらまずいからな。……っと、ああ、しょうがねぇ、なんか氷でも当てとくか? 一応女の子だしなぁ、お前も」
そう言ってリビングに向かう椿に、光は思わず言った。
言いたくなかったし、言われたくもない事だ。だが、それでも言葉が波だと共にあふれ出た。
「私を、本気で殴って怒ってくれるのは、師匠だけです」
間違った道に踏み込んだとき、叩いてでも、暴言を吐いてでも止めてくれる人間は、焦香椿しかいない。
殴る力も、怒る権利も、止まれるのも、焦香椿ではないとできない事だ。
ぐすっ、と鼻水を啜る音が、静かな寝室に響いた。椿はがしがしと掻き毟るように頭を掻いたあと、氷と、今日の夜、風呂上りに食べようと思っていたハーゲンダッツを持って光の元へ戻って行った。














20160708/20160729



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