第六十四話





薄らぼんやりとした世界に気が付いたのは、鏡を覗き込んだ時だった。いつも見えていた薄い黒子が見えなくなっていたのだ。その時、菫は自らの視力低下に気が付き、親に伝えた。
あらあら、と、少し困ったような顔をした母に、簡単な視力検査をされた。
指が何本、遠くにある文字など、適当なものだったが、母はそれで菫の視力の状況を知り、更に困った顔をした。
「まだ小学生になったばかりなのに……」
こんな小さなころから眼鏡を向き合わねばならないなんて、と、呟いた声に、菫はぱちりと瞬かせた。
少し熱が出たような軽さで伝えたのだが、どうやら事態は深刻なようだ。微熱と視力低下は割に合わないらしい。哀れむ母に感化されたように、菫もどんよりと身体が重くなってきた。
眼鏡屋に赴く際、遊びに来た鉛も、何故か一緒についてくことになった。どうせつまらないから、と言っても鉛は大して意に返さない。眼鏡屋なんて一度も行ったことがないのだから、楽しいに決まっている。そんな風に考えているに違いない。
視力低下に伴って、テンションも落ちている菫の横で、鉛は楽しそうに付き添った。
店内で店員に、菫は視力を調べられ、さらに消沈した。どんどん沈んでいく菫とは裏腹に、鉛は展示されている眼鏡をかけて楽しそうに笑っていた。
どこぞの映画俳優がかけるようなダンディなサングラスをして菫に見せた。
「どう? これどう!?」
ケタケタと笑っている。菫はちらりと鉛を見た。腰に手をあてて満足げである。
「あのね、邦弘君。私、嫌なの」
「何が?」
こそこそと、母が店員と話している隙に、サングラスを外しかけた鉛に吐露した。
「眼鏡」
「なんで?」
「だって、なんか……野暮ったいじゃない」
「やぼったいって何?」
「あー、もう、なんていうか……ダサイって事よ」
「ふーん、そう? そうでもなくね?」
あっけらかんとしたものである。自分がかけないから、そう言っているんだ。鉛はサングラスを摘まんでそう呟いた。その手にある物体とずっと付き合っていかなくてはならない。
黒板の白い文字や、遠い人の顔、見にくい小さな紙に記された文字、数字、画面、サングラスの向こうの瞳も碌に見えやしないのに。
スカートの裾を握りしめている菫に、母がどのフレームにするか選びなさいと言われ、そちらへ行った。
鉛が背中を見つめているのを感じる。視線が棘のように背中に突き刺さった。わかる。私にはわかる。邦弘君が今どこを見ているのか分かる。
それがどうしてなのかもわかる。胸が締め付けられる。母と店員が、色々なフレームを見せつける。柔らかそうな黒い台の上に、色んなフレームを乗せていく。
利便性のいいもの、デザインのいいもの、重いもの、重くないもの。
赤色、黄色、緑色、青色、紫色。
「どう? どれがいい?」
「……どれも……」
「どれも?」
「選べないって事?」
陳列されたフレームは、確かに多種多様だ。色んな種類や色だ。そこに見えやすくするためのガラスを嵌めて、耳にかければ楽だろう。生活もしやすいだろう。
色々なものが見えやすくなるだろう。視力の弱い人間が、眼鏡をかけることが普通なのだ。
女の子がスカートを履くのも、男の子がズボンを履くのも。
店員をちらりと見た。眼鏡をかけていた。でも、それはファッションなのか本当なのか菫には分からなかった。見えなかったからだ。
ぼんやりとした表情は分かるが、それでも、はっきりと見えない。
サングラスがいい。
そう言ったらどうなるだろうか。きっと、軽く笑われる。そしてまた、さあ、どれがいいの? と、サングラスではないものを選ばされる。
こんな眼鏡かけたくない。
どうせなら、サングラスがいい。
どうせ見えないのならサングラスがいい。
「ねぇ、邦弘君はどれがいいと思う?」
母の声に、視界が一気に開けた。後ろから鉛が近づいて、眼鏡のフレームを覗き込む。
「んー」
鉛を見た。もうサングラスをかけていない。近くにある顔を見た。その目を見た。眼鏡のフレームを見るその目を見た。
ふ、と、菫は息を吐いた。
身体の緊張が解けて、もう、どの眼鏡でもいいやと思った。
鉛が指差して、これがいいんじゃない? なんとなく。と、言ったものを、一生かけようと決めた。
菫はどれでもよかったので、早く決めてくれないかなぁ、と、ぼんやりと台の上に陳列されたフレームを見ていた。
だが、そんな視界に突如異物が現れた。
「わっ!」
驚いた菫は目元に手をやった。背後から、鉛の悪戯成功の笑い声が聞こえた。
「うひひ! これ、これがいい!」
「ちょ、ちょっと邦弘君これは……」
「うーん、これは……どう、かなぁ?」
母も店員も芳しくない反応である。菫は近くの鏡を覗き込んだ。度も何も合っていないが、手触りとぼんやりとした視界でそれがどんな眼鏡か確かめる事が出来た。
触った印象では、とにかく大きく丸い。トンボの瞳のように見えそうなほど緩やかなカーブを描いているという事。
そして、指で挟んでみると、とてもガラスが厚い。
「いいじゃん、それで。ダッセーかもしんねーけど、なんか、それ好きだな」
まるで嫌がらせだと、母が眉を顰める。だが、菫の口は弧を描いていく。菫の心は決まっていた。
「じゃあ、これにする」
ぎょっ、と、大人二人が驚く中、鉛はぽかんとした顔をしたあと、大きな声で笑った。
度の合わない眼鏡の向こうには、白い歯を見せて笑う鉛の顔があった。
菫もニコニコと笑っているので、牛乳瓶の底のような眼鏡に決まってしまった。母はもっとおしゃれなものを、と、店内を見渡していたが、今日はきっと、この眼鏡以外選ばないだろうという事を察していた。
後日また冷静になって新しい眼鏡を買いに行こうと思っていたのだが、それから十年ほど、その牛乳瓶の底を、高校生になった四季菫は拭いていた。
表面に埃がついていないか、少し傾けてしっかりと見る。
そして菫の前に立っている一人の男子生徒は、そんな菫の仕草をじっと見下ろす。ごくり、と生唾を飲み込んで、明け透けのない言葉を選んで言った。
「……えっと、それじゃあ、鉛さんが選んだんスね、その眼鏡……」
「選んだというか、目に入ったというか。まあ、他意はなかったと思うわ」
小さく笑いながら、他意もなく選ばれた眼鏡をかけた。その分厚いガラスの向こうにある瞳に、その眼鏡を使い続ける他意を覗こうとした男子生徒は残念そうに息を吐いた。
菫と男子生徒から少し離れた場所から、こっそりと耳を向けて盗み聞きしているのは、針入高校の不良たちである。
長い間グレーゾーンにあった番長とその右腕の関係性を、白黒はっきりさせたいと思っている。
「でも、つまりそれってアレだろ?」
「エンゲージリングならぬエンゲージ眼鏡か……」
「薬指じゃなくて、薬耳にかけてんのかな?」
「いや、何にかけてんだよ」
「いや、耳に」
「そっちのかけるじゃなくてよ」
ざわざわとする出歯亀たちなど意に返さぬように、菫は立ち上がり歩き出した。
立ち去る菫に、最後に一つだけ問い掛けた。
「ど、どうなんスか? 実際」
「何が? 眼鏡の付け心地? 意外といいのよ、コレ」
「いや、そっちじゃなくて。鉛さんと……その、アレなんですか? 付き合ってるとかなんですか?」
「あら、どうして?」
「いや、だって……」
言いよどむ男子生徒に、菫は腕を組んで皮肉でも何でもなく、純粋な疑問をぶつけた。
「それって、そんなに重要な事かしら?」
「いや、まあ、たんなる好奇心ですけど……でも、もしそうなら、俺達にも接し方は変わってきますし」
「成程、それもそうね」
純粋な疑問に純粋な答えを投げ返され、菫は純粋に納得した。
上の立場の人間が、そんな事どうでもいいだろう、お前たちには関係ないと、あっさり一蹴してしまうような関係になれば、この針入高校は崩壊する。
良くも悪くも、不良たちは鉛を慕い、支え、心配する。この疑問も心配からなのだろう。
菫は少し睫毛を伏せた。
「付き合ってなんてないわよ。幼馴染で、鉛君の右腕」
「そ、そうですか……」
付き合っているならば、それなりにぎこちなくなるだろうが、付き合っていないというのも、中々拍子抜けだ。
ざわめいていた盗み聞き組は残念そうな溜息を吐いていた。面白い話題が一つ菫の手によって潰されてしまった。
白黒はっきりつけてしまい、話題の一つをわざわざ消してしまったのは惜しかったかもしれない。全員が撤収しようとしていた背に、菫はお返しとばかりに大きな話題の種を放り投げた。
「そうよ。だって、鉛君婚約者いるのよ? 付き合うなんてできないわ」
数秒の沈黙の跡、針入高校の不良たちは号外片手に走り出した。
菫は一人、息を吐いた。




広い事務所の部屋には親子以外の人間は誰もいない。応接の為のソファーには、娘が足を組んで座り、自分の爪をチェックしている。
日中だと言うのに日当たりの悪いこの部屋には、外からの光はあまり期待できない。だから常に電気をつけっぱなしが殆どだったのだが、今日に限っては、電気を消したまま、二人は沈黙を守っていた。
机の上に置かれた湯呑は、長い話し合いに水分が必要だと思い置いていたのだが、もうすでに熱いお湯は冷めきっており、沈黙のようにしんとしている。
事務所の机に肘をつき、頭を抱え懊悩する父に、娘はちらりと横目で見た後、足を組み替えた。
「……つまり、だ」
頭を抱えたまま、声だけやっと絞り出したように、片倉組の組長は言った。
「お前は、お前……菖蒲には、恋人がいると……?」
「うん! ちょー素敵な!」
「……だから、婚約には反対だと」
「うん、だって意味ないでしょ? 私好きな人いるのに」
心の中で組長は絶叫した。あっけらかんとした娘の反応に、奥歯をギリギリと噛みしめ、なんとかうめき声を我慢した。
別に恋人がいる事に対して驚きはなかった。常に爪を磨いている姿を見れば、男の一つや二つ、影は見える。
父は少し顔をあげ、眉根を寄せて娘を見た。薄暗い事務所に不釣合いなおしゃれをした格好だ。
「たった一人の人の為に生きるのよ。女の子の夢、私、お嫁さんになる」
「……ああ、だから、それは宝野組の次期組長の彼とね」
「そんな名前嫌! 私は松葉菖蒲になるのよ……ね、いい名前でしょ?」
うっとり、と頬に手をあてて夢見心地に言う娘に、組長は額を抑えたまま言った。
「ああ、いい名前だな……鉛菖蒲の次にな」
その瞬間、親子の間に火花が飛び散った。沈黙の中に、お互い譲歩する気は全くないと、相手を威嚇するような張りつめた空気が流れた。
そして時間も流れ、今日はこれ以上話し合っても進展はないだろうと、同じタイミングで立ち上がり、事務所を後にした。
後日、また同じように事務所に親子二人が顔を合わせ、菖蒲が机をバンッと叩く音が、戦いのゴングとなった。
「婚約なんて、死んでも嫌!」
「なら死ぬか?」
「死んでも嫌!」
「会話になってないぞ!」
「政略結婚なんてそんなの聞いてない!」
「ああ、言ってなかったからな!」
「知っていたら家出したのに!」
「させないために黙っていたからな! お前の性格なんて全てお見通しだ!」
「ムキー!」
「嫁の貰い手があるだけよかっただろ?」
「アタシは! 結婚する相手が! いるの! すでに! 決めているの!」
「その相手は宝野組よりもいいものを与えてくれるのか!?」
「私の幸せには不可欠な人よ! その人が一緒にいなきゃ、生きてる意味ないわ!」
片倉菖蒲にとって、片倉組というのは父の秘密基地のようなものだと思っている。そこで何をしていようが関係はないが、そこで生み出された人間関係や出来事は、こちらに無遠慮に関係してくる。
父が大切にしているのもわかるし、他の男たちも楽しそうに秘密基地に入り浸っている。だが、女にはよくわからない。母もきっとそうなのだろう。菖蒲もそうだった。
片倉組に対して、菖蒲は恩義も義理も敬意もなかった。父お気に入りの秘密基地の手入れなんて興味が無かった。ネイルの調子の方が大切だった。
「もう信じられない……まあ、でもいいわ。今日はパパに紹介する。私の結婚相手よ、彼以外にはありえないから」
「ほう……いいだろう、連れてきなさい」
どんな相手が来ても蹴散らしてやると意気込む組長と、どんな事があっても彼氏を援護するつもりの娘の戦いが切って落とされた。
一体どこの馬の骨だと言うのか。第一印象を良くしようとして、服もスーツだったとして、土産も高級菓子だったとして、背筋を伸ばし、綺麗なお辞儀をしたとして、重箱の隅をつつくようにいくらでも叩き潰せることはできる。大人げないと言われても仕方がないが、片倉組の未来がかかっているのだ。そこらのつまらない青年など、片手であしらってくれよう。
もしかしたら、こんな場所に来るのさえ臆して、作り笑顔もままならず、膝が馬鹿みたいに笑ってしまっているかもしれない。くすりと笑った組長は、娘が連れてきた男を見て眉根を顰めた。
まずその服装は至って普通だった。気張ったスーツでも、だらしないスエットでもない。
かといっておしゃれでもない。普通のズボンに普通のシャツ。身体も鍛えている様子ではない。何処にでもいる普通の若者と言った感じだ。
そして次に気になったのが、その青年の表情だ。
彼女の父親に紹介されると言うのに、緊張も焦りも何もなく、ただそこには不愉快そうな表情があった。まるで家の中に虫が入って来たかのような表情で、片倉組の事務所に足を踏み入れている。
反抗的な娘は彼氏が隣にいると、今までの小生意気な態度を豹変させ、うっとりと恋する目で父親などいないように彼氏に目が釘付けだ。
――なるほど、もうすでに骨抜きにしているわけだな。
娘と彼氏の力関係、もとい、どちらが強く惚れているのか見て取れた父親は肘をついて指をからめ、神妙に息を吐いた。
「ごめんね? 外でずっと待たせちゃって」
「ああ、ずっと聞こえてたよ」
――なるほど、聞いていたなら丁度いい。自分が付き合っている女の子が、どんな立場の子なのか。手を出すべき相手ではなかったな。
ふん、と鼻で笑った組長は、自分が口を開かなくとも、事態が収束すると確信した。平謝りして逃げ帰るがいい、若者よ。そんな挑戦的な視線を向けている青年は、面倒くさそうに大きなため息を吐いて、見下すように、彼女の父親に視線を向けた。
「とんでもなく煩かった。猿じゃないんだから、もう少し静かに会話をした方がいいですよ」
「はいっ! 大輔君!」
絶句する父親を他所に、娘は目をハートにして素直に返事をしていた。
言葉を出せない父親に、眼鏡の位置を指で治して話し始めた。
「初めまして、松葉大輔と言います。娘さんとは恋人という立場に無理矢理なっただけで、別に彼女の事は好きではないのであしからず」
淀みなく吐き出された言葉に、父親はまた絶句し、言葉が出せなかった。ぱくぱくと陸地に上げられた魚のような反応をしばらくした後、ガタッと立ち上がり、叫んだ。
「菖蒲! 今すぐ別れなさい! さもなくば殺すぞ!」
「死んでも嫌!!」
「菖蒲、お前の命にそんな価値はない。無駄死にだからやめとけ」
「はいっ! 大輔君っ!」
「貴様! 人の可愛い娘の命を何だと思っているんだ!」
「そっちこそ! 可愛い娘を変な男に嫁がせようだなんて、よく言えたわね!」
「ふざけるな! 小さいころから気に入らない相手がいると、いつも殺し屋に依頼して、片倉組に迷惑をかけてきたのを忘れたのか! 一体どれだけの殺し屋を止めて来たか! 恩義を感じないのかお前は!」
「死んでもない!」
「だったらもう死ね」
「はいっ! 大輔君っ!」
「貴様は黙ってろ! これは家族の問題だ!」
そう怒鳴られると、松葉大輔は黙って近くにあるソファーに足を組んで座った。事務所の中というよりも、家族喧嘩の渦中にいるというのになんとも豪胆な態度だが、そんな姿にも菖蒲は頬に手をあて、目をハートにして見つめている。
父親は大きく溜息を吐いた。
「はぁ……いいか、菖蒲。これは昔から決まっていたことだ。私がここまで上り詰められたのはただの才能だけなんだ。これ以上は一人だけでは駄目なんだよ。なあ、片倉組が潰れたら嫌だろう?」
「死ぬほどどうでもいい」
松葉大輔の隣に座り、彼の腕に抱き付いて菖蒲は言った。
「そう、嫌だよな。パパが頑張って守って来た片倉組だ。鉄が継ぐのは決まっているし……弟の為にも、そう思うだろう?」
「死んでも思わない!」
「なら死ね」
「はいっ! 大輔君っ!」
「いい加減にしろ貴様ー!」


菖蒲は泣いた。ベッドに横たわってしくしくと泣いた。好きな人と結婚する。こんな当たり前の幸せがかなえられないなんて、おかしい。やはり我が家は普通ではないんだ。父の部下のいかつさや、刺青や、傷跡や、強面や、怒声や罵声など、普通の家にはないものばかりだ。
ないものを求めるのは勝手だが、普通を求めて何が悪いのか。
父と彼氏を会わせるという、普通の女子がドキドキするイベントも悲しい結果に終わってしまった。父は彼氏を気に入らず、彼氏はいつも通りの反応だったが、そこは関係ない。
父が何を大事にしようが関係ない。自分の幸せを邪魔するのは許せない。
自分の幸せは自分で決める。結婚相手を決めたように、そうして人生を歩んでいく。ヤグザの事情なんて、毛ほどもどうでもいい。明日あの事務所が爆破されていても、菖蒲にとって些末な問題だ。
それよりも、どうすればいいのだろうか。
パパもママも大好きだし、家業を継ぐという弟も大好きだ。だからといって、松葉以外の男と結婚するなど死んでも御免だ。
どうすればいい? 事務所を爆破すればいい? パパを傷つけず、怒らせず、この分厚い障害の壁を乗り越える方法は……
「あっ!」
バッ、と、涙と鼻水で濡れた顔をあげた。答えはいつも近くにあった。父と彼氏が会ったその日の夜、五月に入ってすぐのとある夜だ。
菖蒲は自分の部屋にある、鍵のついた引き出しを開けた。そこには小さな鍵が入っている。
それを持って、部屋のクローゼットの中にある金庫の中にあるもう一つの鍵を取り出し、今度は本棚の奥に隠してある鍵のついた箱をあけた。そこには、菖蒲が小さなころから作った、手作りの殺し屋名簿があった。
「そうだ、殺せばいいんだ」
ぱらぱらとページをめくりながら呟いた。パパでも彼氏でもない、まだ見ぬ婚約者を思って。
宝野組の鉛邦弘がこの世からいなくなれば、政略結婚も何もないだろう。相手が死んでも尚、結婚しろと言って来たら、その時は松葉大輔と大手を振って駆け落ちしよう。
明るい未来が待っている。先ほどまで涙に濡らしていた頬を紅潮させ、ふんふんと鼻歌を歌いながら、まるでファッション雑誌を読むようにベッドに寝転がってページをめくる。
「ど、れ、に、し、よ、う、か、なーっと!」
指を弾ませ、色んな名前を指差していく。
菖蒲は殺し屋に嬉々として依頼した。だが、鉛を殺したという報告を受けることなく、依頼した殺し屋は宝野組によって潰されていった。ミッション成功の知らせを聞くことなく、菖蒲は眉根を顰め、殺し屋名簿に目を落とした。一体どうしてうまくいかないのだろう。たかが高校生を殺すのに。と、菖蒲は諦めず、また次の殺し屋に依頼した。
丁度その頃、片倉組の組長は、宝野組、もとい鉛に怪しげな殺し屋が幾度も接近している事を知り、まさか、と、娘の事を訝しんでいた。
もしそうだとしたら大変な事だ。宝野組はこちらに対して何も言ってこないが、もし娘の仕業なら、もし、それがバレてしまったら。
「ええい! これでどうだ!」
あまりにもリストにある殺し屋がダメダメだったため、菖蒲は新しくリストを作り、目を手で覆って適当に指差した殺し屋に何とかコンタクトを取って依頼した。
父親がやってきたのはその後の事だった。
「だからね、全然頼りない殺し屋ばっかりだったから、もうなんでもいいから、貴方達に全て任せるから、とにかく殺してちょうだい! って言ったの」
「じゃあ、一体、いつ、どこで、殺るのか、分からないのか!?」
青ざめ、肩を掴んで尋ねる父親に、娘は唇を尖らせ、顔をこてん、と横に倒した。
「ごめんね、パパぁ」
顔を手で覆い、空を仰いだ。なんて事だ。娘の悪い癖が、ここにきて最悪の一手を打った。
ヤグザである事を自慢して育てた結果だろうか。小学生の時から、強面の部下たちを引きつれ、自分の気に入らない友達を怯えさせて笑っていた菖蒲は、どんどんと裏社会の土を踏む事に、何の抵抗もなくなってしまった。
甘やかしてしまった自覚はある。
だが、そんな反省をしている場合ではない。どうにかして揉み消さなければ、宝野組とのパイプなどと言っていられない。消される。片倉組が無くなってしまう。
もしそうなればどうなるのか。父親は途方に暮れ、絶望する。そして娘は、意気揚々と松葉大輔と逃げるように駆け落ちするのだろう。なんという事だ。腹立たしい事この上ない。
懊悩した組長は、八歳の息子の鉄に助けを求めるほど追いつめられていた。
鉄はよく虐められるが、それを誰にも言わない優しく強い子だった。こんな子供にすがる父の姿の醜さに、呆れられるのではと危惧したが、父の助けに息子はとある人物を紹介してくれた。
なんでも、鉄が虐められている現場を目撃した片倉組の組員が、いじめっ子たちに襲い掛かった。子供に大人が襲い掛かるというとてつもない状況で鉄は焦った。このままでは人聞きの悪さが独り歩きし、彼らが責められる。
殴られ、虐められてもここまで焦らなかった鉄が、いじめっ子たちに襲い掛かる組員をどうにかしなければと、一歩足を踏み出した瞬間、素手で屈強な男たちを殴り飛ばした人がいると言うのだ。
「パパ、その人に頼んでみたら? とっても強いんだよ。それに仕事が欲しいって言ってたし、僕、連れて来ようか?」













20160623



Back/Top/Next