第六十三話





「いやいや、もしかして、あれは幻だったのかもしれないぜ」
「だよねだよね! そんな、あんな事……ねぇ? もしかしたら隠れてるだけかもしれないし!」
パトカーの中でぶるぶると震えていた桔流黄丹と椎名真赭は、そんな会話をした後、それぞれ上さんの腕につかまりながら、先ほどの場所に戻って行った。
だが、そこには閑散とした沈黙があるだけで、人影は何処にもなかった。
「……や、やっぱり、いない……」
「……で、でも俺たち見たんスよ、ちゃんと! いたんだよ上さん!」
「分かった分かった。とりあえず、お前ら夜も遅い。さっさと寝よう」
上さんはくるりと振り返り、溜息を吐きながらパトカーへ戻っていく。
取り残された二人は、慌ててその後ろ姿を追いかける。
だが、その瞬間、何もなかった背後で何か、ガチャリ、という音がした。二人ともしっかり鼓膜に届いたようで、くるり、と同時に振り返ると、そこには不審な影が数体あり、ザッ、ザッと、闇に溶け込む程のスピードで、フェンスの向こうの森の中へ飛んでいった。
不気味な影が、突然現れ、突然動き、突然消えた。
さぁぁ……と、更に顔色を悪くした
「ぎゃあああああ!!」
「やっぱりいるぅぅううう!」
「夜中だっていうのに、元気すぎるぞお前ら……」
またもやパトカーに逃げ去る二人を追いかける上さんは、大きなため息を吐いて暫くそこに立っていた。だが、二人が見たような影も音も聞こえず、首を捻ってパトカーへ戻っていく。怖がりには何が見え、何が聞こえるのだろうか。
三人消えた後、闇夜に溶けて隠れていた木朽が静かに現れ、珊瑚が眠りかけた出口の壁を叩く。



月明りが照らす道を、とぼとぼと歩いていく影が二つ。小さな影はコチニールで、もう一つの大きな影は透を背負った光だった。
「気持ちは、まあわかるで」
コチニールは小さな身体で、ゆっくりと光の歩幅に合わせて歩いていた。コンクリートは冷たく、夜は冷たい風が吹く。人の影は何処にもなく、たった一匹と一人だけの影があるだけで、街灯もおざなりに、点滅している。
「そりゃあな、色々あったからな」
そう言って、足元ばかり見ていたコチニールは、ちらりと光を見上げた。
真顔でぼろぼろと、涙を流し続ける光に、これ以上どう慰めればいいのか悩むくらいには様々な言葉を投げかけた。
だが、光は動じることはなく、ずっと涙を流し続けている。どこか痛いのか、苦しいのか、コチニールには分からない。
ただ、泣いている女の子を放っておくには、非情にはなれない。
放っておくことも出来ず、行く当てもなく、ただ光の隣をついて歩いていく。
光の目は前を見据えていた。月明りにきらきらと、濡れた目が輝いている。
感情が、涙となってあふれ出しているだけだった。笑顔も何もない表情に、喜びの涙が家に帰るまで流れつづけた。
コチニールはとぼとぼと足元を見つめて歩いた。短い四肢、もう二足歩行はできない。悲しい身体だ。ふと、コチニールは隣を見た。そこには誰もいない。
「……あれ、そういえば、あの猫どこ行ったんやったっけ?」



丑三つ時、遠慮ない電話のコール音で忍は目が覚めた。暗い部屋の中で、携帯の明かりがさっさと出ろと言わんばかりに点滅している。何度も携帯は震える。出るまで鳴り続ける勢いだ。
「もしもし?」
『今から家に来て、透の傍にいて』
「やっぱりお前か……」
もしかしたら、海外にでも旅行に行った師匠が、時差も関係なく電話でもしてきたのかと思ったが、すぐ近くの遠慮のない弟弟子からだった。
寝ぼけ眼と頭で、一体どこからどう突っ込めばいいのか。今更、一般常識云々と言っても、馬の耳に念仏だ。
「こんな夜中に、何をしていたんだい?」
『私、またでなくちゃいけないから。危ないから、だから来て』
「答えない気だなー、よーしよしよし。じゃあ僕も行かないぞー」
ぼふん、と起こしていた上半身をベッドに投げる。その音が聞こえたのか、光はムッとした声音で忍を咎めた。
『冗談じゃないのよ、危ないんだから』
「危険はいつだってお前が連れてきてるんだろー、一人で守れないなら、危ない事はするんじゃない」
『今回のは不可抗力よ』
「日頃の行いのせいじゃない?」
『…………』
電話の向こうで、図星を突かれた光の沈黙に、忍は徐々に眠気を削がれていった。
「光がそういう事をしなければ、そんな事にはならないんじゃない?」
『……アンタには関係ないわよ』
「ならもう切って寝てもいい? 関係ない人間に睡眠妨害されたくないなー」
『あぁ! もう! 忍!』
痺れを切らした光の声に、忍は渋々起き上がった。着替え、家を出て行く。玄関に鍵を閉めながら、一体何があるのか、何があったのか。
詳しい事は全く教えてくれなかったが、まあ、仕方がない。
「光はともかく、透は何もできないからね」
身を守るすべのない透の為、忍は夜道を歩き出した。



忍が来ていると知った光は、透輝大学病院へとんぼ返りした。ザッ、ザッ、と、大股で歩いていく光の後ろには、夜に消え失せてしまいそうな影しかなかった。月明りのおかげで、あまり寂しくはなかった。
涙はもう流れていなかった。ずんずんと、夜道、監禁された場所へ向かうにしては、とても大きく、軽やかな足取りだった。
透を家に残し、コチニールを家に残し、忍を家に呼び、もうやる事はやった。後は、あそこへ残してきた、透のほんの少し繋がっている餌を、引きずり出す為だ。
何も怖くなかった。また霙と会う事になったとしても、負けるとは思わなかった。今なら、どんな敵にだって勝てるはず。
不意を突いて夜道を襲う不良の軍団だろうと、霙だろうと、藤黄北斗だろうと、カーニバルだろうと、おばけだろうと、光には勝つイメージしか浮かばなかった。
――透が
思わず笑みがこぼれた。満面の笑みだ。夜道を大股で歩いていた光は、走り出していた。
――透がやっと、自分を守る術を憶えた!
何年も何年も、発破をかけてきたにもかかわらず、空振りばかりで終わっていた。だが、ここ最近の燻りを見て、どうか炎よ燃え上がれと、指を絡めて見つめていたが、先ほど、透の炎を確認した。
虚を突かれ、あまり現実味がなかったが、一人歩く暗い道を眺めていると、現実だと教えてくれる。
飛び跳ね、踊りだす勢いの光は、長い長い坂を駆け上り、病院へとたどり着く。夜の病院の不穏な空気は、意に返さない。
そんな中、一台のパトカーが病院の前に止まっているのが見えた。
慌てて角を曲がって身を隠し、そっと覗き込んで見る。
先ほどは、フェンスを乗り越え、道をたどって出て行ったわけではない。警察を警戒しての事だった。喜んでいて情報が抜け落ちていた。
「まったく、こんな真夜中まで真面目にすることないでしょう……」
そっと他人の家の玄関の前に陣取った光だったが、家主がガラリ、と、引き戸を開けて外に出てきた。
「……あれ、また女の子だ……」
寝ぼけ眼のパジャマ姿の老人に、光はにっこりと笑って頭を下げた。
「すみません、ちょっとお邪魔してます」
「こんな夜中に危ないよ。そこに警察の人まだいるの? さっきから叫び声が煩いんだけどねぇ……まったく、屋根の上では猫が暴れるし……」
ぶつぶつと呟く声に、光は愛想笑いを浮かべる。
「さっきも、女の子が女の子おぶって歩いていたしねぇ、最近の子はどうなってんの? こんな時間まで、不良だ、不良。君も早く家に帰りなさいよ」
欠伸を噛み殺しながら、また我が家へと戻っていく老人の言葉に、数秒、思考が停止した。
「ま、待ってください」
手を伸ばして声を発すると、老人はくるりと振り返った。
「何だい?」
「……女の子って……まさか、その、黒い服を着て、長い髪をした……」
「うん? そうだけど?」
「背負っていたのは、もしかして、髪の短い……?」
「うん、そうそう。妹だって言ってたね。警察の車で送ってもらいなさいって言ったんだけど、行っちゃってさ」
「歩いて……?」
「うん、あっちへ」
そう指差したのは、今光が歩いてきた道だった。

『帰宅する。帰ってもいいし、泊まっていってもいいわよ』
「あのねー」
新橋家の前についたとたん、そんな電話をうけた忍は、笑えばいいのか怒ればいいのか、分からなかった。
『そっちにやっかいな女が行ってるみたいなの』
「へえ、透もやるなぁ」
『そういうんじゃなくてね』
光が珍しく焦ったような声を出していて、忍は面白がった。電話を耳につけて、坂道を走る光に、月明りが影を作っていた。両手をふり、慌てたその様子を、コンクリートの道路に嘲笑うようにうつしていた。
だが、光は下を向く事はなく、前を見たまま走り続けた。燐灰町へ向かう光の背後からはまだ、太陽が昇る気配はなかった。



ガタリ、と屋根の上が煩い事に気が付いたのは、妻の方だった。布団から微動だにせず、暫く音を聞いた後、隣に眠る夫を揺さぶって起こした。
「貴方、貴方」
面倒くさそうに顔を歪め、身体を起こした。
「上が煩くて……誰かがいるんじゃありません?」
不安そうな声に、耳を澄ませることもなく、夫は面倒くさそうにまた布団へ倒れた。
「猫の喧嘩だろう。ほら、宮崎さんとこのミミ。よく他の猫とも喧嘩しとるって、愚痴っていたよ」
その言葉に、妻はそっと天井を見上げた。しん、としているが、少しギシッ、と音がした後、猫の鳴き声が聞こえ、ほっと胸を撫で下ろして、布団に入って眠った。
屋根の上には、モモタロウが立っていた。両手両足で高い場所から町を見下ろしている。
「ミャオ」
その声に反応するように風が吹いた。ばさばさと、白衣がたなびく。
ポケットに手をいれ、堂々と裸で立つラセットに、モモタロウは何かを求めるように見上げた。
「ん? なんだ、怖いのか? 別にとって食やしねぇよ。すきなとこいきな」
屈託なく笑うラセットに、モモタロウはくるりと踵を返し、屋根を伝って離れていった。
一人残されたラセットは、高台のこの場所から、ほんの僅かに顔を覗かせる海を見下ろした。
黒々とした夜の海も眠っているように静かで、何の輝きも見せない。
「さて……懐かしいな……」
自らの身体、足の裏の固い感触。呼吸、腕を伸ばして身体を強張らせる。そして力を抜いて弛緩する。すべて、霊の時には味わえなかった、人間だと自覚できる感覚。
「生き返ったんだな、俺……」
血はめぐり、呼吸をする。身体が生きている。心も蘇ったように思える。
――あれからどれくらいの時間が経ったんだ……仲間はどうした? オペラは今生きているのか。俺がいなくて泣いてないか……
記憶の中の妹は、小さくて弱くて、守るべき対象だ。
その妹が、今どうやって息をしているのか。シャトルーズはどうしたのだろう。ミッド・ナイトは傍にいるか。
他にも新しい仲間や繋がりを得ているのか。とにかく、無事なのか、生きているのか、何をしているのか、どこにいるのか。
疑問は尽きない。蘇った喜びも、妹への心配でかき消えそうだった。
「……ま、とりあえずは祝杯だな! ヤキニクノタレで!」
カッカッカ! と、軽やかな笑い声をその場に残して、ラセットも燐灰町の闇に溶け込み、白衣の白さも夜に塗りつぶされた後、燐灰町からも消えた。



朝が来た。だが、新橋家の近くに霙はいなかった。光は一晩中外に出て、ずっと見回っていたが、朝日が昇っても何も起こらないので、光は自室のベッドに寝転がり、眠った。
その様子を見た忍は、光の部屋のドアをこっそりと閉じて、がっつり睡眠をとった透の部屋に戻って行った。
「で、何があったの?」
端的な質問に、透も上半身を起こしたまま、引き攣った笑みを浮かべ、端的に答えた。
「……いつもどおりの事、かな」



ベッドに寝転がり、瞼を上げた。そこには見慣れた天井が広がっており、昨夜の別れの言葉を思い出す。
『ごめんね、小雪』
意識が朦朧とする中、頭を撫でる姉の顔を見ようとしたが、手のひらで目を覆われ、見る事は叶わなかった。
『エリカをお願いね』
声も手のひらも全てが優しくて、どこにも明確な言葉などなかったのに、そのすべてが、別れの言葉に聞こえた。小雪は小さく頷いた。
そしてまた眠りにつき、夜から朝に変わった時、姉は家にいなかった。そして、ラセットを追いかけていった霙は、もう家に戻ってこない事を感じ取り、小雪は腕で目を隠し、静かに泣いた。














20150614



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