第六十二話





ぺちぺちぺちと、強弱をつけてくるので致し方ないというように、意識はどんどん浮上して、光の瞼がぴくりと動き、目を覚ました。
「ああ! よかった、大丈夫か光! ごっつい音したで!」
「……ここは、どこ? 私は、誰?」
「ここは間の巣窟! ワシ率いる魔王討伐軍で、サタンに仕えるルシファー将軍にあっさり負けたお前にかわって倒してやったところやで!」
「適当な事言うんじゃないわよ犬」
「覚えとったかー!」
ぽむ、と、先ほどまで光に往復ビンタを決め込んでいた肉球を、自分の額に押し付けるコチニールを他所に、光はゆっくり起き上がった。
案の定、まだ全員地下の廊下にいるようで、透はまだ目を回したまま目覚めない。
「安心しい、あの姉ちゃんどっかいったで」
「みたいね」
「なあ、まだ行くん? 透このままじゃ出て行かれんで、ワシらが引っ張ろうにも、絶対無理やろ、このか弱さでは」
「……みたいね」
鞄も着替えも、さくらも小雪も、全てがそのままだ。何も成功してないが、光にとって、その損すら払しょくできる大きなものを手に入れた。もう、今死んでもいいとすら思える高揚感。
「……とりあえず、一時退却するわ。アンタ達の言う通り、このままにしておけないし」
立ち上がろうとした途端、曲がり角から何かが動いているのが見えたので、光はぴたりと動きを止め、そちらを見た。
裸の女が歩いている。携帯電話があればすぐに警察に通報したいものなのだが、生憎携帯を携帯していないし、電波も届かない。
「ハロー」
裸の女が、笑顔で外国式あいさつを仕掛けてきた。
「……あろー」
少し格好をつけて返した言葉は、想像していた以上に間抜けなものだった。
「それ、大丈夫か?」
ぴっ、と、落ちているゴミを指差すように透を指差した。
「……まあ、大丈夫かと聞かれれば……どうかしらね」
「よかったら手伝おうか? 今、すげぇ機嫌がいいんだ」
「はあ……それじゃあ、この二匹つれてくれる?」
ぴっ、と、落ちているゴミを指差すようにコチニールとモモタロウを指差した。
「はあ!? ワシら荷物か! おい猫、こりゃ戦争やぞ。ワシら愛玩動物を舐めきっとるで! って、もう抱かれとる! 裸のねーちゃんに抱かれとる! 早っ! 動け! せやからそんなデブなんやぞわかっとんのか!」
「行先は地上だろ? ならお前含めて全員担いで上がってあげてもいいぜ!」
「いや、それは結構です」
「そうか? カッカッカ! んじゃあ朝日を拝むとするかぁ!」
「朝でも夜でも、その格好だとすぐに暗い所にぶち込まれると思うけど」
透を背中に背負った光が、目を眇めてそう言うと、ラセットは確かに。と一つ頷いた。
出口へ行く間に、仮眠室のドアをまた開けた。そこではまだ孔雀は意識を飛ばしており、その孔雀の白衣を奪い、ラセットに渡した。
「おー、ありがとう」
「その格好も十分酷いけど……まあ、無いよりかはいいでしょ」
「だな。この身体にも悪いしなー」
ボタンをとめながら呟いた言葉に、光は首を傾げた。
モモタロウとコチニールを両脇に抱え、透をおぶった光とラセットは、出口の階段を上った。
その足音にもちろん、珊瑚は気が付き、そちらを見た。
見事に全員、職場の人間ではなかった。
「嘘でしょ……」
怒りなどない、ただの疲弊した声だった。あの連中、とんでもないミスをしでかしたなという気持ちと、そのメンバーにさくらがいない事に落胆したのだ。
「ここが出口ね……」
光が一番最初に上までたどり着き、珊瑚を見下ろした。お互いに苦味を感じたような表情をしたが、どちらも、もう戦う気力はない。
後ろからやって来た白衣に驚いたが、裸足だ。ここに居る全員、靴を履いているし、何よりその足は女のものだった。
見上げるとそこには知っているようで何も知らない顔が合った。霙が蘇らせようとした少女だ。
――嘘、本当に蘇ったの……?
「ああ、子持ち子供か。喧嘩してたんじゃなかったのか?」
「誰が子持ち子供よ! ししゃもじゃないんだから!」
何と言う失礼な少女だろうか。石竹霙はこんな子を蘇らせたかったのか、よくわからない女だ。と、霙に対する評価も変わりつつある中、ラセットが珊瑚の足を跨いで出口へ手を伸ばした。
「そういや、外に警察いたけど、どうすんだ? 助けてもらうのか?」
「正面突破、攫わぬ警察に厄介なし」
「成程、じゃあ俺と同じだな」
ニヤリ、と笑うラセットを見上げた珊瑚は、眉根を寄せて黙っていた。そして口を開いた瞬間、光がギロリと珊瑚を睨んだ。
「悪いけど、またすぐに来るから、ここ、あけなさいよ」
「……は?」
「私の服、鞄、コイツの荷物、あと捕まってる他の人間、もろもろ出させるから。アンタが案内しなさい」
「…………しょ、しょうがない、わね。こんなつよいおんなのこにそういわれちゃ、きょうりょくするしか、ないわ、ね!」
壊れたロボットのようにおぼつかないしゃべり方をする珊瑚を、光は訝しんだが、よくわからぬまま出口を開け、外に出ていった。
――あ、危ない! ラッキーって思っちゃったわ! 建前はうまく建てられたかしら!
ドキドキと心臓が鳴り、ずきずきと胸が痛む。
――今日はやりすぎた……
一人残された珊瑚は、敵が全員出て行った、外からは開けられぬドアの前の壁に座り込み、ほっと息を吐いた。
そして光が戻ってくるまでの間、少しだけ休もうと、瞼をおろし、眠った。



ドンドン!
そんなドアを叩く音で目が覚めた。眠りについた珊瑚は、寝ぼけ眼で出口を見上げた。
――……あら、なんだか、全然眠ってないような気がするわ……
だが、ドアは叩かれている。珊瑚が開けるのを待っている。光が戻ってきたのだ。さくらを連れ出してくれる免罪符が、ドアを開けろと急かしている。
骨が痛むのを我慢して、腕を伸ばして出口を開ける。
外はまだ暗闇で、先ほどまで戦っていた病院の裏側の、眠った木々の寝息のような臭いが入り込む。
少しだけ開いたドアに、ガッと手を入れてきた。
そして更にドアは開いていく。月明りの下で、黒いスーツが夜闇に溶けずに主張していた。
「あぁ、よかった。開けてもらえなかったらどうしようかと」
光たちが出て行ってからすぐ後、木朽星が研究室にするりと蛇のように入り込んだ。珊瑚はただそれをぱちくりと見送るしかなかった。
木朽はキョロキョロと様々な部屋を見た。会議室、研究員室、仮眠室に眠る孔雀を見て、眠っているのを叩き起こすのは申し訳ないと出て行き、トイレ、研究室、そして、外から中が覗き込めるドアの前、さくらがいる部屋の前にたどり着いた。
さくらはすでに眠っていた。子供は寝る時間なのだから当然と言えば当然だ。木朽はドアノブを回した。
「あ、いた」
だが、部屋には鍵がかかっていた。鍵は何処にあるのだろうと、また職員を探す。もし本当に分からなければ、出口で座り込んでいる珊瑚に聞けばいい。
そして研究室の一番奥、小雪と霙が気を失っている部屋にたどり着いた。
中は暗く、白を基調とした他の場所とは空気が違ったが、木朽は意に返さず中に声をかけた。
「誰かいませんか?」
その声に赤丹ががさごそと、小さな冷蔵庫から顔をあげて答えた。
「いるよー! 誰?」
「君はここで働いてる人?」
「まあ、そうですけど……」
木朽を見て、赤丹は少し警戒した。ほんのわずかな警戒だ。今は小雪も霙も意識が無い状態で、木朽の傍の台で眠っている。
タオルもかけてやり、応急処置をと色々と物色している最中の木朽に、警戒するしかない。
「責任者は?」
「いまいないんですよね」
「そっか、連絡は取れる?」
「電波が届かない所に行ってて……俺達も早く連絡とりたいんですけどね」
「大変だね。責任者の名前は?」
別の方向から連絡しようと、携帯を取り出す。だが、電波が遮断されているのを見て、またポケットに入れ直した。
「木村白緑です」
その名前を聞いて、木朽の動きは止まった。ふふ、と笑った。心からの笑顔だった。
「安心した。彼なら全然問題なかった。とりあえず、私は木村さんの知り合いだ。松平さくらを連れ戻しに来たんだ。鍵は何処にあるか知ってるかい? ああ、よかった、話が早いよ」



木朽星には親が居た。父と母だった。木朽の記憶の一番初めは、古い四畳半のアパートで、いつも不潔だった。その不潔さは部屋のせいではなく、住んでいる人間のせいでもあったと思う。父は風呂に入る事を嫌がる。脂ぎった身体はいつもてかてかと光っていて、ゴキブリよりも不潔に見えた。
母は夜の商売をしていて化粧を塗りたくっていた。酒の匂いと化粧と香水の匂いは、狭くて不潔な部屋に嫌な臭いを染みつけていく。
父は常にパチンコをしていて、碌に働いている姿を見たことが無い。
母も父も、木朽に目をかける事はなかった。みすぼらしく、ボサボサの髪、ボロボロの服、ガリガリの身体をした木朽の性別を判断できる人間など、いなかった。
幼稚園までは何度も近所や警察やらが気にかけ、両親に発破をかけた。
小学校に上がると、母が珍しく木朽を気にかけるようになった。最低限の身だしなみを、母が躾けてくれた。
「ほら、スカート履いて。貴方は綺麗な女の子なんだから」
そう言って髪の毛をすいてくれた。ゴミ捨て場で拾った黒いランドセルを背負って、木朽は学校へ行った。
「適当にしたくしなさい。男の子なんだから、好きにしなさいよ」
次の日、そう言ってズボンを投げつけられた。汚らしいものを見るような目つきの母に見送られ、木朽は学校へ行った。
母は、男が嫌いなのだと思う。幼いながらに、そういった仕事とあの父を見ていれば、嫌いにもなってしまうなと納得していた。
母は病気なのだ。ウイルスとか、身体が悪いとかではなく、環境が悪く壊れてしまったのだ。
想像できないような金の流れは、母からあの狭い四畳半に入って来たと思ったら、借金返済と、父のパチンコに流出していった。体の一部だと言わんばかりにつねに持ち歩いている酒瓶と煙草と銀色の玉。
歯は数本抜けてだらしなく、くちゃくちゃと音を立てて食事を食べる。
「まったく、そこらの豚の方がもっといい餌食ってるぜ」
母の手料理を食べながらそう言っていたのを憶えている。その時の母の目は、食べられる為に生きる家畜の怒りを視線だけで父に表現していた。
父は、木朽をいないものとして扱っていた。小学校から戻ると、家には誰もおらず、それから日が落ちる少し前に父が帰宅し、一言も会話せずに、がさごそと母が隠した酒の瓶を探し出し、飲み漁り、涎を垂らしながら大の字になって眠りだす。
それまで木朽は、部屋の隅でじっと、母が戻ってくるまでその様子を眺めていた。他の事をしている時に父が起きると、寝ぼけるように殴ってきたりもたれ掛ってきたりするので、見張っておかないといけなかった。
だが、それは意識的にされる事ではなく、酔っ払いのじゃれあいだったと知るのは、小学三年生の時だった。父は、薄汚い自分とは違い、出来るだけ綺麗にされた木朽の頬を叩いた。それまでは、適当に自分の家に出入りする鼠のように思っていた木朽が、まるで人間のようになっていくのが腹立たしかったのだろう。
次の日は殴り、次の日は蹴った。必然的に木朽は逃げた。だが、畳の隅から、押し入れに変わっただけで、薄いふすま一つの最終到達点は、とても脆く、心細いものだった。
見えなくなる時が済むのか、父が帰る前に押し入れに隠れていると、父は酒を飲み、大きな鼾を立てて眠る日々が続いた。
そんなある日、押し入れでいつのものように母の帰りを待っていた時だった。膝を抱え、うとうととしながら、母が古びた蝶番が悲鳴をあげるような音を立ててドアを開ける音で目が覚めた。ふすまを開けようとしたが、その時だけは躊躇した。
ふすまの向こう側は、まるで氷のように冷たく、静かだった。父の大鼾だけが聞こえ、母の吐息が聞こえてこない。
ふすまの隙間を覗き込んだ。光があった。ほんの僅かな隙間の、その目の前を母が静かに横切った。
「……フーッ……フーッ……!」
目は血走り肩をいからせていた。青白く、やせ細り、よく木朽をつねる指は骨のようになっていた。だが、ここまで酷いのは始めていた。
仕事帰りの母は、まるで高熱が出ている時にするような荒々しい呼吸をしていた。朦朧とするその音に、ごくりと生唾を飲み、少しだけふすまを開けてみようと思ったが、すぐに後ろへ飛びのいた。
「ぐぇぇええ!」
蛙を潰したような声がした。父の声だった。
「アンタがアンタがアンタがアンタがアンタがァァアアアア!!」
「やめろ! やめろ」
ずちゃ、と生々しい音がした。木朽は思わず後ずさりをし、壁に背中がぶつかった。狭い押し入れの中に距離を開ける物はない。
父のうめき声と、母の奇声が夜の古アパートに響き渡った。どたどたと争う音がする。父は急所を刺されたわけではないようで、暴れ回っていた。
遮るものは薄いふすまだけだった。見ない様に、聞こえない様にする優しい手は何処にもなかった。大丈夫だと、安心するような温かい手と胸は何処にもなかった。
木朽は布団をかぶって丸まり、身体を震わせながら隣人が呼んだ警察が来るまで耳を塞いで隠れていた。
次に明るいものを見た時、警官が立っていた。木朽は抱き上げられ、そのまま警察に連れていかれた。
「大丈夫よ、お腹空いてない?」
優しい婦警に顔を覗き込まれながら、優しい言葉をかけられて木朽は静かに泣いた。
花びらが落ちるように、瞬きをするたびに涙がこぼれた。
悲しくもなかったし苦しくもないが、意図せず涙が溢れた。それを見た婦警が涙を滲ませ優しく抱きしめてくれた。
子供にはっきりとした事は警察は言わなかったが、それなりの噂話で、精神病にかかった母が、酒浸りの父を包丁で刺したという事だった。
原因は借金など、色々と当たっている噂が流れていた。
何度も刺された父は今入院しており、母は警察に保護され、精神病院へ隔離されるらしい。
木朽の親権は、暴力的なアルコール依存症の父にも精神を病んだ母にも渡されることはないと誰もが思っていた。木朽もそう思っていた。木朽は施設に預けられた。
木朽は親を失った。だが、最初からアレは親ではなかった。
「どういうわけか、彼らの戸籍はあるが、あの子の戸籍は何処にもない」
「じゃあ、あの子は一体誰なの?」
「あの母親も出産経験が無いようで、おそらくあの人の子供ではない」
DNA検査を行った。木朽はどちらのDNAも入っていなかった。血のつながりは全くなかった。
じゃあ、一体自分は何なのだろう。どこから来たのだろう。どうしてあの四畳半の不潔なアパートに流れ着いたのだろう。
施設に入れられた木朽は、そればかり考えていた。
翌年、木朽を引き取ってくれる夫婦が現れた。どちらも子供ができない身体で、夫は芸術家、母はダンサーだった。
子供を養子にしたいと施設に何度か訪れた時、初日は男の格好をしていた木朽が、次の日には女の子の姿になっておままごとをしている姿を見て決めたらしい。
「面白い! 彼女にしよう!」
「いいわね! フリーダムって感じで! 彼がいいわ! あれ、彼女? どっち?」
「どちらでもいいさ! 君には芸術的なものを感じる!」
持ち上げられ、くるくると回るテンションの高い夫婦に、木朽は人形のように固まり、されるがままになっていた。あの父と母とは違った、嵐のような大人だった。
その後、養子縁組をし、木朽は引越した。燐灰町である。
「私はこれからいろいろな事がしたいと思っている。貴方達の手を、煩わせるかもしれない……それでも、いいんですか?」
引越しトラックに揺られた荷物が置かれた、空っぽの新居の部屋の中で、ぽつりと問い掛けた。
夫妻は顔を見合わせた後、親指をグッと立てた。
「私達も迷惑をかけるから! かけまくりなさい!」
「循環型社会万歳!」
木朽は新しい部屋を持った。自分の部屋だ。あの部屋よりも広い部屋に、ベッドと勉強机とランドセルが置かれた。
その広さに時折一抹の不安を感じた。
この場所なら、あの父と母だった人が大の字になっても簡単に眠れるなと思った。そういう日は眠りにつくことができなかった。
別に行きたい高校もなかった木朽は、引っ越した先の一番近い学校、燐灰高校に入学しようと決めていた。
「ちょっと出かけて来る」
「分かったー」
「あら、貴方、鼻に絵具ついてるわよ」
「全てがキャンパス。これも芸術だ!」
踊り、描き、楽しそうに笑う両親は木朽を軽く見送った。木朽も軽く出て行った。帰る家はここだと思っていたし、少し出かけるつもりでいた。過去の家から伸びている根を、パチン、と切るためだった。
遠いと思っていたアパートは電車に乗り継げば案外すぐにたどり着いた。すでに売地になっていて何もなかったが、近所の人たちの話から、父の足取りを掴むことが出来た。
母はいまだ病院にいるらしく、所在は分かっている。だが、父の事は何も知らなかった。
思い出せば、不潔な服、足、殴られ蹴られ、暴言に飛び散る唾、酒臭い息、上下する機嫌。ぶくぶくと太った醜い身体。
父を思い出すと、殴られたばかりのように身体のどこかに痛みがじんわりと広がっていく。
根は深い。断ち切りたい。その方法は分からないが、今、父がどうなっているのか知っておかねばならない。
父へ向かって歩いた。隣の県のとある一軒家に父はいた。閑静な住宅街の中の一軒だけ、表札は全く知らない苗字だった。
そこで張り込んで様子を見てみると、妙齢の女と小さな子供が手を繋いで買い物から帰ってきていた。
日が落ちてあたりが暗くなり始めると、男が家に入った。父だった。
身ぎれいな格好をして分からなかったが、確かに父だった。
少しやせていたが、髭を剃って、スーツを着て、普通の男だった。遠目から見てもはっきり、歯が生えている事が分かった。
ふらふらと家に帰り、また別の日に聞き込んでみると、どうやら父は木朽と住んでいた時から浮気を繰り返していたらしい。それなりの家の女性で、父を更生させる手立てを家から出したという。
あの母にしてもこの再婚相手にしても、何故あんなどうしようもない男を救おうと、傍にいようと思うのか分からないが、結果的に父は改心し、スーツを着て働いていた。
根は断ち切られた。あの暴虐な父は何処にもいないのだ。
新しい家の、新しい主として、泣かせてきた妻と娘を幸せにしている。
木朽は自分の部屋のベッドに寝転がり、天上を見続けた。外は暗く、全員眠っていた。だが、木朽は眠れなかった。ぱちん、と確かな手ごたえを持って切り落としたのに、依然として眠れないでいた。瞼は持ち上がり、何ともなく天上を見続けている。
夜が深まり、空が白み、何度目かの朝が来た。眠れぬ夜が終わった。実行の朝が来た。高校一年になったばかりの、春の事であった。


また電車を乗り継いで父のいる家へ向かった。幸せな空気で満ち溢れていた。あの息苦しい、酸素の薄い、身体の芯がぐずぐずに腐ってしまうようなアパートの一室で生活していたとは信じられないような健康な生活を送っている父が、仕事から戻ってきて、家に入った。
木朽は友達の家に泊まると両親に言って、夜も深まり、日付が変わりかけていた頃まで、父の家の傍にいた。
家の電気が消え、全員が寝静まった時、木朽は両手にポリタンクを持って、その家に侵入した。全員一緒の部屋で寝ているようで、なるほど、暗闇の中だが綺麗に整頓された広いリビングを見て、ここなら品位を保てるなと、たぽたぽと灯油を静かにまき散らしながら思った。
小さな机、冷蔵庫に貼られた子供の描いた絵。
人数分ある食器棚、子供用の食器。木朽にはゴミ捨て場から拾ってきたビールジョッキにご飯も味噌汁も全て入れて渡されたというのに。
階段も全て濡らし、ボッと、ライターの火を点火した。優しい光と熱を感じた。
「おやすみ、お父さん」



燃え上がったすべてが燃えた。隣の家も燃えた。
木朽は燃え行く家を眺めていた。熱気が頬をなぞる。暫くすると近所の人間が野次馬に来て、消防車の音が響き渡った。
誰も出てこなかった。一つの家族が燃え上がり、そして消えた。
木朽は今でもその光景が焼き付いて離れない。鮮烈な印象を持って、人生に干渉した。
父が火に包まれ、天に昇って行った。それでもやはり、木朽を縛り続けたままだった。だがその瞬間だけは父から逃げられた気がした。
そしてすぐ後に、母のいる精神病院が燃えた。梅雨の季節の為、火が広がる前に鎮火した。
死者は少なかったが、その中に木朽の母がいた。母を燃やした日は、芸術は爆発だと叫び、梅雨に花火をしようと父が言った。いくら火をつけても、湿気て燃えないと頭を抱えていた。
「大丈夫、燃えるよ」
「いいや! 燃えない! こんな炎じゃ俺の芸術は表現できない!!」
 聞けば一昨年の花火で、しかも重苦しい雲が頭上を漂っていて、今にも雨が降りそうな中で、しかも昼前に庭でそんな事をしていたら、煙って近所から文句が来るだろう。
「貴方! そんな事より踊りましょう!」
「いいや! 燃えない! そんなんじゃ俺の芸術は表現できない!!」
 ただでさえ煩いと評判なのに、と、木朽は縁側に腰を下ろして頭を抱える父を眺めていた。
「星はどう思う? 踊った方がいいと思うわよね?」
「うーん、とりあえず、お昼ご飯を食べた方がいいと思う」
「……そう?」
「確かに腹が減った……! 爆発できない!」
「星、何が食べたい?」
母が目を細めて尋ねる。木朽はいまだに慣れないそう言った言葉に、少し悩んで答えた。
「爆発しそうな辛いカレーかな」
「あら、いいわねそれ! 我慢大会燃える!」
騒がしい両親に、木朽は思わず笑っていた。
父と母がこの世にいないと分かって眠ると、今度は自分の肉体に矛先が向かった。自分は誰から、何でできているのだろう。
眠れぬ日々に楔を打つため、今度は生みの親を探し始めた。
高校一年の春の事で、あと少ししたら二年になる時期だった。
だが、あまりにも当てがない。保護された時、警察でも戸籍が無い、分からないと言っていたのにどうやって探そうか。
あの両親が自分を連れてきたのは何の為か、おそらく大きくなった時に働かせる為、保険だろう。出産するにしてもリスクが高いし、何より不満のはけ口として自分を選んだはずだ。
誘拐したとしたら、身代金なり要求してもおかしくないだろうと思うのは、記憶の改ざんだろうか。木朽はまず孤児院や施設を片っ端から訪ね歩いた。
丁度春休みで暇は十分あった。友達と遊びに行ってくると言って出てくれば、どこにでも行けた。
そんな事をしているある日、見知らぬ街である孤児院に向かっていると、肩を叩かれた。
「お前か? 探し物をしているのは」
振り返ると、そこには白スーツを着た若い男がいた。
「探し物は?」
「……生みの親」
「そうか、人探しならばいい人を知っている。よければ紹介しよう」
「……知らない人について行っては駄目だと、両親に言われているので」
「そうか、僕は木村白緑。これで知った人間だろう」
見知らぬ情報を求めていると、見知らぬ人間が助け舟を出してきた。伸るか反るかいったところだが、木朽は乗る事に決めた。沈んでも構わなかった。
斡旋された相手は片倉組というらしく、なんとも物騒な文字が見えたが、まあ見なかったことにして、表面上の付き合いにとどまった。生んだ親は呆気なく見つかった。
父親は政治家で、その母親は愛人だった。
お遊びの愛人に、父は堕ろせと言っていたそうだが、母はどうしても生みたかったという。手切れ金を叩きつけられ、遠い地で産み落としたが、それでも父も母が惜しいようで、生んだ後、子供を捨てるならまた戻って来いという誘いに、我が子を放り投げて母は母になりきれず、女に戻っていった。
未だに両親は関係が続いているらしい。木朽はその報告書を見て、自分の父と母の顔写真を見た。確かに似ている顔をしている。
そして、彼らには子供はもういないらしい。それを見て、興味は失った。
「会いに行くのか?」
「いや、ただ生きているのか死んでいるのか、どんな人間か気になっただけですから」
「そうか……所で、卒業後は何か目標があるのか?」
「いえ、特に」
「ならここに行くといい。お前ならうまくいくだろう」
木村は木朽にとある名刺を渡した。その人物は外国にいるらしく、それを見て木朽はビビッと来た。
――そうだ、外国なら……
そして脳裏に、今の両親の姿が浮かび上がった。彼らから逃げるのではなく、一度離れたかった。愛しているし、恩義も感じていたが、距離を取らねばならないと思っていた。
――遠くに就職するか、進学しようと思っていたが……
外国という発想はなかった。不思議と、視野が広がった。
高校を卒業後、木朽は名刺を頼りにそこへたどり着いた。木村の知り合いが運営しているレストランで料理の腕を高めていると、他の仕事を斡旋された。相手はカーニバルだった。
「君が思う料理を施してくれないか」
カーニバルという存在を知り、その食材である人間を調理する方法を考えて、木朽はこれしかないと、生きた食材を丸焼きにした。
そこには一家がいた。丁度母と父と子供だった。燃やすべきだと思い、燃やし、カーニバルに献上した。
食べ終わり、満足げに頷いた。
「君は本能的に分かっているんだね。死ぬ間際の感情で、味が変化するという事を」
木朽の丸焼きは気に入られ、専属コックとして雇われた。
「それにしても、おもしろい、おもしろいぞ! 家ごと丸焼きにするとはいいアイデアだ! 家畜を買って家に住まわせよう。どこでもいい、土地と家と人間がいればいい! ぶくぶくに太らせてから焼け! 幸せの絶頂から燃え盛る炎……! まるで芸術だな!」
広く、見える範囲に人の住んでいない田舎の土地に、家のない人間、ホームレス数人を連れてきて住まわせた。お金はいらない。ただここに住み続けてくれという約束を、彼らは守り続けた。ニコニコと笑顔の絶えない、見事に肥えた彼らに、木朽は炎を放てなかった。
「何故だ、情が移ったのか?」
ナイフとフォークを持ったカーニバルが木朽に問い掛ける。静かに首を振って否定した。
「いいえ、違います。これは、私個人の問題です。火をつけるのは他の人間でもいいでしょう。睡眠薬を与えた夕食後、燃やした方がいい。炎がよく映える。私は手を下しません」
誰にも通報されること無く火は放たれた。轟々と燃え盛る炎に、カーニバルは目で楽しんだ後、さあ、食事だと意気揚々とし、ナイフとフォークをかちん、かちんとぶつけて急かした。
だが、燃え尽きた家から出てきた肉体は火葬した後のようにボロボロで、殆どが骨だった。
「どうやら焼き過ぎたようで……」
火を放った男が頭を下げながら言うと、カーニバルは木朽を呼んだ。
「他のものでは駄目だ、どうしたらお前はまた焼くんだ!」
木朽は暫く考えたのち答えた。
「……おそらく、家族、父、母、子供が一人の家。その家しか焼いてきませんでしたから……」
「分かった。ならば用意しよう」
全面的に木朽を支持するカーニバルに、少し不安になった。
気に入ったあの時の丸焼きは、奇跡だったのかもしれない。あまり乗り気ではなく、火加減も適当で、いつもより弱かった。木朽は休暇を取って日本に戻った。23歳の時だった。
燐灰町に戻り、家族に会った。父は相も変わらず芸術を爆発させており、ダンサーの母は外で踊り、家の中では父を支えていた。
木朽にもベタベタ接する事もなく、一定の、本当に血のつながった家族のような距離感で家に迎えてくれた。
「イタリアといえばピザだな! パスタだな! 旨いものだな!」
と、木朽がイタリアでコックになると言った時に言った言葉を放った父が笑顔で両手を広げて向かいいれた。
「イタリアはどうだった! ピサだな! ピエトロだな! サン・マルコだろ!?」
「残念ながらどれも行ってないよ。忙しかったから」
「えっ、じゃあ星は何しにイタリアへ!?」
「えっ、仕事だけど」
がっくりしたように落胆する父に、木朽は慌てて土産を取り出した。
「これ、ワインとオリーブオイル。いつも買ってるから、きっと気に入るよ」
「ワイン!」
「オリーブオイル? よかった、丁度無くなってたのよー」
それぞれ別の瓶をひょいっ、と取り、ご機嫌になった両親を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
両親が喜ぶ姿を見て、木朽は心の底から喜んだ。温かい食卓、堪えぬ会話、笑顔。家庭というものが持つ善良なものが全てそこにあった。
だが、ふらりと町を歩き、父と母と子供一人が、手を繋いで仲睦まじく歩いているのを見ると、身体の中がミキサーにかけられたかのようなぐちゃぐちゃな感情が渦巻くのだ。
ふらふらと、その後をついて行って家を確認すると、その家庭を全て燃やし尽くしたい衝動に駆られた。
家も人も関係も、全て燃やして削除してしまいたい。その感情に従って、木朽は父、母、子供一人の家を燃やして歩いた。
燐灰町で放火魔が出ていると噂される中、何件も同時に燃やして家路についていると、自分が燃やした家が目に入った。
つい先ほど燃やしたはずなのに、もう興味は失せていた。
野次馬が集う道路を横切って、燃える家をちらりと眺めながら歩いていた。
通り過ぎる際、パジャマ姿で慌てて燃える家に駆け寄る女の子がいたが、木朽は見向きもしなかった。霙がエリカの名前を呼ぶ前に、木朽は立ち去った。
振り返れば、そこには過去の残骸があった。燃えカスは、見るに堪えない。パチパチと燃え盛る炎。その家に群がる野次馬は、何を思ってみているのだろう。
――私は、何を思って燃やしたのだろう
その疑問はすぐに、カーニバルの為だと答えは出ていた。今の放火は、人間をうまく焼ける火加減の練習のほかなかった。家族構成はどれも、父、母、子供の三人限定だったが。
木朽はそのまま我が家へ戻り、ゆったりとした睡魔に襲われ、燃やした家達の事を全て忘れて、眠った。














20150612



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