第六十一話





懐中電灯の光は暴力に似ている。向こうからははっきりと見えているのだろうが、こちらからは何も見えない。真赭は腕で光を遮りながら、ムッとしながら、口を開いた。
「何なんだよ、こんな時間に!」
「そりゃこっちの台詞だっつの! ったく、まーたお前か椎名! 学校でも病院でも喧嘩とか節操なしか!」
腰に手をあててがみがみと煩い若い警官、桔流黄丹は昔はヤンチャしていた。今は更生して、よくお世話になった上さんと同じ制服と職業についているが、口うるさく言われる筋合いはない。
「喧嘩は場所とか関係ないんだよ、とにかく、やろうと思ったらやる、それだけだ」
「馬鹿な事を言うんじゃない。入院しているのにどうして静かにできないんだ。駄目だぞ、そろそろ落ち着きを持ちなさい」
太った小太りの、人の好さそうな中年の警官の上さんは、帽子の唾を摘みながら、ため息交じりにそう言った。
「そうだそうだ、いい加減迷惑をかけるのはやめろ!」
「ついこの間まで、お前も俺が補導してただろう! 言える立場か!」
「えー! そりゃねーっスよ! 見事に更生したんだから言えるでしょー」
「お前もこの子も似たようなもんだよ、俺から見れば………さて、こんな所で一人何してたんだ?」
その言葉に、桔流黄丹と真赭は、ぱちりと目を見開いた。
「何って、上さん何言ってんスか」
「そうそう、二人だよ、ほら、この人とさっきまで喧嘩してて……」
二人は首を傾げながら、真赭の隣を指差した。懐中電灯の光もそちらにずらすが、そこにはただの地面が煌々と照らされているだけだった。
「……あれっ?」
真赭も懐中電灯も、キョロキョロとあたりを探してみるが、どこにも白衣を着た珊瑚の姿が見当たらない。
「え……嘘、なんで?」
「いたッスよ、本当に。え、上さん見てないの……?」
「ちょっと遅れてきただけだが、見えなかったぞ?」
首を傾げる、不良を更生させる事に尽力を尽くす、人望の厚い人間の言葉に、元不良と現不良は、さぁぁ、と、顔から血の気が引いていく。
「い、いたよ!? ほら、この傷だって、戦って出来た傷で……」
「うわ! えんがちょ!」
「は!?」
「幽霊に傷つけられたとか……お前、呪われんじゃね……?」
バッ、と腕を交差させて後ろへ下がる若い警官の言葉に、真赭も言った本人も更に恐怖を掻き立てられる。
地下にはゾンビがいた、ここは病院で、今は夜。
ざぁぁああ、と、強い風が吹き、フェンスの向こうに広がる森が、意味ありげにざわめきだす。
「…………ぴ」
ぎゃああああああ! と、盛大な叫び声をあげ走り出す真赭に続いて、若い警官も懐中電灯の光を上へ下へとあらぶらせながら、その後ろを追った。
「おおお追わねば! 追うッス! 逃げてるわけじゃないッス!」
言い訳を上司に叫びながら真赭と共に、赤々と照るパトカーへ向かう。一人残された上さんは、首に手を当て大きなため息を吐く。
「どうしてああいう子たちは、あんなにオカルト系が苦手なんだ……」
どれだけ強かろうが、悪ぶろうが、そういう所が子供っぽく、手を差し伸べずにはいられない。
「まったく」
ふふっ、と笑みを漏らしながら、夜だろうが関係なく歩ける大人は、悠然とパトカーへ続いて向かった。



「はぁ……はぁ……」
無人となったその場所から壁一枚、道重珊瑚はストッパーを握りしめたまま、階段の上で壁にもたれかかって座っていた。
懐中電灯の光に照らされた瞬間、真赭は警官に、警官は真赭に意識が向いていた。
後ろからももう一人近づいてくるのが見えた珊瑚は、影の方へ身体を顰め、すぐに出口ストッパーで少し開いた地下への階段へ滑り込み、閉めた。
外に人の気配はない。どうやらうまくいったようだ。
だが、警察官が来るとは予想外だ。木村がいないのに、余計な荒波はこれ以上立てられない。
――木村君に連絡を……! 一体、いつになったら電波が入るところに行くの、あの子は!!
骨が軋む。傷みに呼吸は乱れ、動きたくなくなる。
――ここで待ってなくっちゃ……外には警官がいた……ここから出て行っても、見つかるかもしれないわ……
中にいる若芽、孔雀、赤丹と霙に伝えなければ。だが、もう歩けない。向こうから来たら教えよう。
階段の下の研究員室は静かだった。誰もいないと思うが、珊瑚は声をかけた。
「ねえ! 誰かいる!?」
予想通りの沈黙だった。孔雀は眠り、若芽も雑用をこなした後仮眠をとるだろうし、赤丹と霙は研究室に籠っているはずだ。
「チャンスと言えば、チャンスなんだけど……」
この誰もいない今、外に警官がいるならば、さくらを適当に出口の外に出せば、安全を確保して家に帰れるはずだ。
動けない状況に舌打ちをする。
さくらを逃がすためには、人がいなくなればいいと思っていた。だが、今は人がいない事に歯がゆさと痛みを覚える。
ずきずきと痛む肋骨、動く事もしたくない。子供が待っている家は、明るいのか暗いのかも分からない。
色んな感情が混ざり合い、ドロドロとした思考回路を痛みが邪魔する中、ゴォォォ、と何処からか風の音がした。
外からしているのかと、見上げているためいつもより大きく見える出口を見上げる。だが、風は後ろからやってきて、出口にぶつかる。ばさばさと髪の毛を乱れさせる風は、強風だった。
バタン、バタンッ! と、開いていたドアが閉まる音がする。ガタガタと開いていた階段下のドアは、壁に叩きつけられている。
入口は珊瑚自身が鍵をかけた。出口は今も封鎖されている。爆発したとしても、熱さが何処にもない。
突如嵐が地下の中で吹き荒れているような感覚に、珊瑚は眉根を顰め、歯を食いしばって、見えぬ何かに肝を冷やした。



ずびっ、と鼻を啜る透は、打破された状況に、充血した目を何度も瞬きをして、状況を紐解こうとしようとした。
「せ、せやからな、いきなり透がはっ、はっってな、何わろとんねんってつっこもうおもったらな、なんかな、あんな、いきなり風がぶわああぁーってな、なってんな、なっ? 猫!」
「ミャオ」
「猫なんてワシの傍にずーっとおってんな、なんや、ワシに頼ろうとして。そりゃ中身は屋久杉のようにどっしりとしとるけどな、でもな、今はお前よりもか弱い身体やねんぞ。逆にお前を風よけにしたいわ!」
「ミャオ」
「なんやっちゅーねん! っていうか、お前もなんか言えや! お前からの視点で発現せいや!」
「ミャオ!」
「ぬおおおお! 糠に釘! 暖簾に腕押し! 沼に杭! 豆腐に鎹!」
透の足元で小動物の重低音の声が飛び交う中、透はずびずびと涙と鼻水を止めようと必死になっている。
光はずんずんと近づき、透の顔を両手で挟み、顔を覗き込んだ。
「ぶびっ! ちょ、鼻水出る……」
痒い目で見たのは、至近距離にある双子の妹の顔だった。
「アンタ……アンタ……!」
「…………!」
至近距離で見た光の顔は、初めて見る顔だった。今にも泣きだしそうなくせに、顔を歪め、怒っているのか悲しんでいるのかよく分からない表情で、今、どんな感情が渦巻いているのかも汲み取ることができない。
――あれ?
初めて見る表情だと言うのに、既視感。
以前もこうして頬を掴まれ、こうして光の顔が近くにあった。
その時も、光はこんな顔をしていなかったか。必死で、何かを伝えようとしていなかったか。感情がうまく処理できず、どうすればいいかわからないような顔をしていなかったか。
透がぱちくりと驚いていると、光の顔が一瞬にして近づいた事に気が付く間もなく、気を失った。
ぐらり、と、光と透は倒れた。何も警戒せず、どちらも緩んでいた。その隙を狙って、霙は落ちていた消火器を掴み、光の後頭部へ投げつけた。
その衝撃は玉突き事故のように光の後頭部から透の額へと、逃げる事なく伝わり、双子は同時に意識を飛ばした。
「うおおお! 透! 光!」
「ミャオ」
手を掲げた霙は、力なく腕をだらりと垂らした。骨が折れている。ボキ、と、骨が折れる音を、体内から初めて聞いた。
ハッ、ハッ、と、呼吸を乱しながら、霙は先ほどの光景を思い出していた。
光が指を鳴らして向かってきたので、口元を覆って呼吸を止めようとした時だった。背後で、透が目を充血させ、鼻水を出していたのは知っていた。だからどうした、という認識だった。
その透が、光の背後でくしゃみをした。
「っぶぇくっしょん!」
ただそれだけの事だと思っていた。だが、予想以上の威力が、風が、もはや音と風の暴力と言っても過言ではない程に、地下の廊下中に風が届くほど、開いていたドアが突然閉まる程の突風が、目の前、霙に向かって飛んで来たのだ。
いきなり背後に飛ばされ、壁に激突する寸前、頭から防御した霙だったが、背中までエネルギーを出す暇もなく、背中がダイレクトに壁に激突し、激痛が迸った。
前からの風の余韻で更に壁に押し付けられ、背中を守りつつ、耐えていた。そして嵐が去ったように風がやみ、地面に落ち、痛みに悶絶した後、怒りが込み上げてきた。こちらに背を向けている光と、まったく警戒していなかった透にやられた事に、やり返してやる、という感情が霙の手を動かした。
最後の最後で、消火器を投擲するエネルギーを出したはいいが、それが最後の一滴だった。もう霊は枯渇し、内部には空っぽだった。懐かしい感覚だった。殆ど一人分の肉体だった。
「うっ、はっ、ぐぅうう」
這いつくばり、必死にドアを開けた。そこには赤丹が椅子に座り、ペットボトルのお茶を飲んでいる姿があった。
上まで持ち上げごくごくと、喉仏を揺らしながら飲んでいた時に、霙がゾンビのような姿で登場したため、思い切り噴き出した。
「ぶふっ! ……えっ、何どうしたの!? すげー音してたけど、大丈夫!?」
まさか霙がやられているとは思っていなかったようで、慌ててキャップも閉めずにペットボトルを傍の台に置いて、霙に手を差し伸べた。
霙は手を取り、そしてぐいっと引っ張り、赤丹の肩に手をついて、ぐぐっと立ち上がった。
赤丹は片膝をついて、霙が立ちあがるのを下から見上げた。
「大丈夫?」
「肋骨が折れた……」
「すげーな石竹さん! 立つんだ! 折れてんのに立つんだ! 折れてんのかー、そこからバラバラにしたらパーツになるかな?」
ふらふらと、赤丹から近くの壁、薬品棚を伝って、エリカの台の上に両手をついた。呼吸は荒く、脂汗が額に滲み出ている。
「エリカ……エリカ……」
夢遊病患者のように顔を青くし呟く。そんな霙よりも顔色の悪い、まだ死んでいるエリカの顔を見ながら呟く。痛みの峠の向こうには、エリカがいる。
話したい。もっと傍にいたい。一緒に生きたい。山もあり谷もあり、それでも一緒に生きていきたい。
燃え上がるあの熱い炎は、間違いだ。あんな事、あっていいはずがない。まだ大切な話が出来ていないのに、終わっていいはずがない。
呼吸が乱れる、手も震える。だが、やらねばならない。小雪が起きる前に移動させなければ、エリカがどうなるか分からない。
――確実じゃないっていうのは、いつだって、私を追いやるのね……
エリカはずっとそばにいてくれない。だから無理矢理繋ぎとめる。小雪がエリカを守ってくれない。だから無理矢理引きずり出す。
こうして生きていくのだろうか。だとしても、仕方のない事だ。霧のように不透明な道を歩くのは勇気がいる。その勇気を、霙は力技で切り抜けていくことにした。
小雪の方へ顔を向けた瞬間、霙は身体の異変を感じた。
痛みに紛れて気が付かなかったが、身体の奥底でぐるぐると、霙の意思とは違う何かが蠢いていた。
まるで臨月の妊婦が子供が動くのを感じるように、霙はそれを感じ、顔を青ざめさせた。
「う、うそ……」
お腹を押さえ、胸を押さえる。どれだけ手で身体を押さえつけても、それは霙の中でもがく。
胸元を握りしめ、身体を折って呼吸を乱す霙に、赤丹は少し焦りながら声をかけた。
「ちょっと、それ大丈夫じゃないんじゃないの? さすがに動かない方が……」
「そんな!」
ハッと、霙は気が付いた。エネルギーにできなかったあの魂だ、たった一人、霙が消化できない魂が動き回っている。子宮で丸まっていた子供が、目を覚まし、出口に向かって下りていくように動き出した。
それが何故、今になって動くのか。霙の身体を乗っ取ろうとしているのかと身構えたが、違う。
霙は最悪のパターンを想像した。おそらくそれは、彼も考えている事だろう。彼は、その最悪に向かって動き出した事に気がついた。
もう身体の中にエネルギーはない。心身ともにボロボロだ。ここで追い打ちをかけるように、彼は霙の中からの脱出を試みている。
吐き気を催したように口に手を当ててしゃがみ込む。どこを押さえつければいいのか分からない。身体の全てから、彼が出て行く道がある。
「ハッ、ハッ、ハッ」
霙の意思とは裏腹に動く別の意思は、霙の精神も身体も更に疲弊させて出ていった。
「うっ」
その魂は、すでにパーツが繋ぎ合わされ、血液が入り、中に入れば蘇れる、最高の状態になっているエリカの肉体へ入って行った。
がくん、と、霙は台に手をしがみつかせ、倒れるのを防いだ。だが、顔を上げればエリカが横たわる姿が間近で見えた。
青白かった肌が、徐々に赤みを帯びていく。
心臓が動き、血液が回りだしている。
そして、ゆっくりと、エリカではない人間が、エリカの瞼を押し上げた。



彼と出会ったのは地元の水道にある港だった。近くには大きな倉庫があり、もう何年も前から使用されておらず、人気などない。そんな場所に霊が一人、ぽつねんと座っている姿は、とても異質だった。
晴れやかな空の下、波が防波堤に打ち付ける様子を眺めている背中は、霊感のある霙だからか、ただの人に見えた。
影は濃く、存在感があった。霙や小雪以外の普通の人間にも、見えるのではないかと思えるほどに濃度の高い霊だった。
エリカが亡くなり、気まぐれに散歩をしていた霙は通り過ぎようかと思ったが、霊だと気が付き、好奇心が働き、彼に近づいた。
よもや、霊が見える人間がいるとは思っていなかったようで、霙が隣に来ても顔を上げずに、ただ胡坐を掻いて海をぼんやり眺めていた。
「何をしてるんですか?」
霙の問いかけから数秒後、誰も返事をしない事に疑問を抱き、顔をあげ、キョロキョロとあたりを見渡すと誰もいない事に気が付いた。
彼は驚いたように顔をあげ、霙を見た。視線と視線がぶつかり合った。
『……いや、暇だったからな』
「暇つぶしもできないんじゃないですか?」
『いや、案外そうでもないぜ。結構面白い。肉体が無い状態なんて、生まれて初めて経験した』
胡坐をとき、防波堤の淵から足を投げ出しぶらぶらと揺らす。霙もそれを習って、スカートを押さえながら足を投げ出した。すぐ近くで、波がぶつかり消えていく。
セーラー服のスカーフがたなびく。髪が暴れる。前髪を押さえながら、霙は隣に座っている男を見て、ごくりと唾を飲みこんだ。
――本当に、人間みたい……
他の人間には、霙が一人で座っているように見えるのだろう。だが、隣には霊がいる。これほどはっきり明瞭な姿でいる霊がいるなんて信じられない事だ。
――幽霊なんて、希薄すぎる存在なのに、どうしてこの人は焦っても、恐れてもいないのだろう。まるで休日に暇を持て余しているかのように、霊体でいることが当たり前のように存在してる……
擦り切れ、疲弊している様子もない。ずっと生まれたままの赤ん坊のように、生命力にあふれている。それなのに、生命はない。
『幽霊は初めてか?』
波を見たまま霙に尋ねる。
「……いいえ、生まれた時から」
『そうか、なら俺より霊に関しては詳しいのか?』
「おそらく」
『じゃあ、教えてくれないか。俺はどうしたらここから動けると思う?』
霊は海を渡って行けるし、歩けるし潜れる。呼吸をしなくても構わないのだからなんでもありだ。
このあたりで死んだのならば、永遠にダイビングを満喫することができるが、どうやら、目的地があるようだ。
霙は言葉を濁しながら確かめた。
「貴方は、ここで?」
『ああ、色々動いてみたんだが、この町から抜け出せそうにないんだ。飛行機タダで乗れるなとか思ったのが悪かったのか……』
「身体はお金に変えられないから」
『は? 何言ってんだ。金で買えない物なんてねーんだよ、お嬢ちゃん』
雰囲気は同年代だが、やはり、かなり前に死んでいるらしい。
だが、そんな当たり前の事を今気が付く程に、この男は霊にあるまじき存在と口ぶりだった。
『いいか、俺が金持ってりゃあな、霊の俺にでも取引を持ち掛けて来る奴は必ずいるぜ。お嬢ちゃんはどうだ? ビジネスするか?』
「ただの女子高生ですから」
自分でそう言って見せた笑顔は、何とも白々しいものに思えた。鏡が無いので断言できないが、きっと酷い顔だ。
だが、彼はそれについて言及せず、真面目な顔で霙に説いた。
『タダほど怖いものはないぜ。金は持っておけ。タダでいいっていう奴には、適当に金を握らせといた方が安眠できる』
「永眠した人に言われても、説得力がないですよ」
『カッカッカ! そりゃそうだ!』
豪快に笑う幽霊のその声は、水道を走るフェリーの音よりも遥かに煩かった。潮風が彼の実体のない身体を通過していく。
「……この町からっていう事は、結構範囲は広いんですね」
『そうか? 俺はアメリカに行きたいんだよ。ここは狭くてしょうがない』
「ところで、貴方は何故死んだんですか?」
どう見ても自殺ではなさそうだが。
『あー、殺されたんだよ』
「通り魔とかに?」
『いんや、殺し屋』
「……ころしや」
『多分、だけどな。俺を殺せるのなんて、プロじゃないと無理だろ。おいおい、口ぽかーんと開けてんじゃねぇよ。閉じろ閉じろ。そんな珍しいものでもないだろうによ』
「今まで、会ったこと無いですけど」
『この先会うさ、きっと』
腕を頭の後ろに回しながら、知ったような顔をする。
『まあ、そこで殺されて、気が付けばこんなんで、しかもここから動けねぇ。さて、どうしたもんかと暫くぼーっとしてたら、お嬢ちゃんが来たってわけ』
「いつごろ?」
『さあな、一体どれくらいの月日が流れてるのかさっぱりで……今日も朝がいつきたのか分からん』
肩を竦め、自嘲気味に笑うその自然な立ち振る舞いを霙はじっと見つめた。
故意ではなく、生まれつきの持っていた雰囲気を壊す事なくそこにある彼に、興味を惹かれた。
こんな霊がいるなんて思いもしなかった。
『とりあえず、海は見飽きた。なあ、ここら工事でもしないのか? 海を埋め立てて、野外映画とか放映しねぇかな』
「ここから動きたいなら、いい方法がありますけど」
『え?』
「私の中に入ってもらえば」
自分の胸に手をあてて勧誘すると、彼はわざとらしい笑みを浮かべた。レプリカスマイルだ。
『……まあ、容量はよさそうだけど? それってつまり乗っ取りって事じゃねぇのか? 自分の身体大事にしろよ』
「もうすでに数えきれない霊が入ってますから」
『悪いが断る。俺は俺の身体がほしい。お前を追い出せないなら意味がない』
「他の人間より、身体が手に入る可能性は高いと思います」
霙は彼に自分の目的を話した。生身の人間には決して秘密にしておいた事だが、霊相手ならべらべらと話せる。もとより、自分の身体に取り込もうと思っている相手なのだから、何を言おうとかまわなかった。
彼は黙って聞いた後、暫し海を眺めていた。懊悩している様子はなく、暇つぶしになる霙と、この安定した海の眺めを呑気に見続ける事も出来ないのも、少し寂しい気がする、といったような、軽いものだった。
『……んー、まあ、そうだなぁ。ここにいても仕方ねぇし。じゃあ、お邪魔させてもらう』
軽く、友達の家に上がるような気軽さで立ち上がった彼に続いて霙も立ち上がる。
『……んで、どうやんの?』
「手を」
右手を伸ばした霙は、どくん、どくん、と、自分の心臓が鳴るのを感じていた。
今までの霊とは一味違う彼に、また新たな発見があるかもしれない。
彼は霙の手を見た後、自分の手を差し出した。決して触れることの無い手が重なり、そこから彼の身体は掃除機に吸い込まれるように霙の中に引き込まれた。
『う、おおおおぉぉお!?』
ずるり、と身体の中に熱が灯る。今までにない質量に霙は深呼吸した。
ゆっくり咀嚼してやろうと思っていたのに、いつの間にか喉を通り過ぎて、丸々胃に落ちてしまった。そこからエネルギーにできるかと思ったが、彼のガードは堅かった。
彼はしこりのような存在になった。霙の中で、唯一消化できない霊として居座り続けた。
『案外居心地いいな。なあ、お前の中にいるんだからよ、味覚とか共有にならねぇのか? ここ十年ほど何も食ってねぇ』
「さぁ、その感覚は私には分からないから。貴方が味わえるなら味わって」
『日本に来たら必ず飲むもんがあるんだよ。うめぇんだぜ? ふふ、なあ、知ってるか? 「ヤキニクノタレ」ってのが最高だな! 瓶で飲むと最高だぜ! 日本が生んだスペシャルドリンク!』
「……貴方が死んだのって本当に殺し屋?」
『? あったりまえだろ? 何言ってんだ』
不思議そうに首でも傾げていそうな声に、霙は溜息を吐いた。成人病とか血糖値とか、そう言った自業自得で死んだのではないだろうか。
この世にとどまり続けているのも、焼肉のたれを一気飲みしたいからなのだとしたらどうしよう。
霙の中で彼は胡坐を掻いて、おいしいものを食べたいとか、旅行に行きたいとか、様々な要望を言い続けた。
だが、霙が見聞きし、感じたことや行動に口を出すことはなかった。自分の欲求不満をただぶつけるだけで、決して霙に干渉してこなくなった。
霙の体内にはたくさんの霊体がおり、その中でも意識の残滓を残した者がいる。
彼のようにはっきりと自分を保つ霊はあまりいないが、話し相手になるくらいにはそれなりの数がいた。彼はその霊達を相手に話をして、暇をつぶしているらしかった。
いずれ霙に話しかけることはなくなった。安い家賃で貸し出してくれている大家にしか思っていないのかもしれない。
「貴方は、私を乗っ取ろうとは思わないの?」
ある日、大学病院の地下に入って暫くした霙が問い掛けた。赤丹のパーツを眺めながら、思わず話しかけた。
彼は昨日話したかのような気軽さで、一年ぶりに霙に答えた。
『あー、まあ、こんないい移動手段を提供してくれた恩があるしな。案外ここは暇が潰せるし、それに、身体はアンタが斡旋してくれるんだろう? まあ、嫌になったら出て行くさ』
彼は、彼に限らず意識のある霊は霙が何をして、何を見て、何を感じているか分かるみたいだ。
それは部屋についた窓のようなもので、そこを覗き込めば外の景色が見える。霙が見ているもが見え、聞こえる。
味覚は残念ながらリンクしておらず、彼は退屈を埋めるために、更に霙の中にいる霊達に意識を向けた。霙に対する興味は失っていた。
そんな異質な霊が一体、霙の中にずっといた。
彼は今までそんな調子で、ぬくぬくと霙の中で過ごしていたにもかかわらず、今、家主の霙の目の前で、死んだ親友の身体を乗っ取って起き上がった。
「いやぁ、いい朝だな。ん、もしかして昼か? 夜か? まあ、太陽で決めるもんじゃねーな。気分がいい時は必ず朝だもんな! カッカッカ!」
口端を吊り上げる笑い方は、エリカはしない。そんな豪快に笑ったりはしない。霙はダメージを気にせず、思い切り立ち上がった。
「どういうつもり!? 信じられない!」
「おいおい、まさか俺の事信じてたのか? 何をだよ。面白い事をいうな、お前」
ニヤリ、と笑う。エリカの顔で嘲笑う。
「俺は言ったことを実行したまでだ。お前の中にいたのは、暇が潰せたから。だが、ついさっきお前はその暇つぶしをぜーんぶ出しちまった。お前の中は空っぽだ。いる意味はもうない」
「その身体はエリカのものよ!」
「カッカッカ! 違うだろ? 何を言ってんだ。どこからどう見てもお前の物だっただろうが。ま、今は俺の物だがな」
首に手を当て、顔を傾ける彼に、霙は興奮を落ち着けようと深呼吸した。このままではいけない。このままでは。
「ま、残されたお前には分からないかもしれねぇけど」
「……死体は、身体は、他にもあるわ。桔流君の身体だってある……」
「取引ならもっといい場所でしようぜ。カフェとか、そう、焼肉屋とかな。こんなしけた場所で身体を取り扱うのはナンセンスだ。なぁ? そう思うだろ?」
距離を取って二人の邪魔にならない様に非難した赤丹に問い掛ける。だが、霙の姿を見て笑みが引き攣る。
「殺したい……」
「殺意を剥き出しにするのはよくないぜ、暗殺者からの忠告だ。そんなんじゃすぐに殺されるぞ。さっきの双子とかにな」
「貴方が暗殺者だろうが関係ない。今すぐにその身体を明け渡して」
ぬっ、と手を伸ばした霙に、エリカの顔で目を細め、立ち上がる。
台の上で立ったエリカの身体は、霙よりも遥かに高い位置にいる。
「うっ……!」
そんなエリカの身体で首を締め上げられ、持ち上げられた霙の爪先は地面から浮いてしまっている。
「中から見ていたが、どうやら空っぽの肉体と剥き出しの魂じゃ、魂の方が強いみたいだな。所有権は魂にあり」
ぎりぎりと喉を締め上げ、霙の口端から涎が垂れた。
「だからな、別にこの身体でも、この身体じゃなくてもかまわねぇんだ。でもよ、十年くらいか? それくらいの間身体のない人間に、またリスクを冒してトレードしろっつーのはよ、傲慢ってもんじゃねーのかな?」
つぎはぎの身体から生み出されるとは思えぬパワーに、霙は手を震わせながらエリカの手首を掴んだ。細くて折れてしまいそうな、ただの女子高生の身体だった。
それを掴んだ霙も白く細い指は震えていて、力などいれていなかった。
だが、彼は目を見開き、弾かれたように霙の首を解放し、霙の手を振り払い、台から下りて一気に距離を取った。
霙は膝から崩れ落ちて咳き込んだ。
「ゲホッ! ゲホッ!」
「カッカッカ! まーた取り込まれるところだった! アホだな俺は! テンションおかしくなってやがる! いい朝だ!」
目尻を下げ、豪快に笑う。笑う事が嬉しいようだ。喉を締め上げる事も、飛ぶことも、危機を感じる事も、冷や汗を流す事も、裸でいる事も、すべてが楽しくて仕方がないのだろう。
蘇る人間とは、常にそうであるものだと霙は思う。
涙で滲んだ視界には、身体を手に入れた喜びにあふれたエリカの姿がある。
――なのに、どうして、エリカはそれを望まないの……
折れた骨が痛みだす。その奥底に沈んだ霙自身が痛みを覚える。感情につけられた傷は永遠に言えることはない。
動けない霙に片足で立ち、バレエダンサーのようにくるりと方向転換をした。向きは出口、霙は這いつくばって追いすがる。
「ま、待ちなさい……!」
「可哀想なお嬢ちゃん、報われねぇな」
「駄目よ、エリカは誰にも……!」
「まあ、俺がトレードしてもいいって思ったら、その時は頼む」
胸が痛い。骨が折れたからではない。エリカが出口に向かっている。霙に背を向けていく。
「せめてもの情けに俺の名前を言っておく。俺の名前はラセット、ラセット・ブラックモア。追いかけたきゃ追いかけろ。探すなら探せ。それでお前に得る物があればな」
そうしてふらりとラセットは消えた。立ち去ったラセットを追いかける気力も体力もない霙は、途方もない敗北感に晒されながら地面に這いつくばり、気を失った。
つぅ、と頬を伝い落ちる涙は、ぽたぽたと地面に落ちた。
小雪はまだ眠っている。台の上で、先ほどのエリカの身体のように横たわったままだ。
得るものはなかった。消え失せた物ばかりで、霙の周りには何も残っていない。













20150612



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