第六十話





椎名真赭は強かった。疲れた体に鞭打って、焦る気持ちを覆い隠しながら、珊瑚は必死に戦っていた。
「も、もういいから! 負けたわ! アンタの気迫にまけたわ!」
「負けを認めるなら、血の一つや二つ流してからにしやがれ!」
そう叫ぶ真赭は血を流していた。珊瑚のハイヒールに仕込んだナイフの刃で、何度か傷ついている。だが、彼女は臆することなく、今のようにとんでもない事を言って殴りかかってくる。
見た感じでは疲労感とダメージを負ってはいるが、外傷のない珊瑚の方が優勢だ。だが、二人の間に流れる空気は、完全に勝敗を決していた。
――いつもいつも、うまくいかないわ
珊瑚は真赭の打撃を受けながら思う。骨にまで響くこの威力。ローズ遺伝子によって爆発した力だ。
あの時、アリサに見せた威力だ。ローズ遺伝子で殴り合いに打たれ強くなってい珊瑚は耐えれる。だが、アリサの無防備で繊細な心には、どれほどのダメージを与えてしまったのか。
――あの子も、助けてあげたいけれど……
無邪気な、さくらを思い出す。母が言っていたから、母、母、と、呼ぶくせに、自分から会いに行かない。
――なんでこう、うまくいかないのかしら
目の前の真赭はさくらを連れ出していた。鍵を落としても、逃げろと示唆しても逃げ出さずにいたのに、何故真赭だとよかったのか。
「うらうらうらうら! 勝つ! 絶対勝つ! 朝日が昇る前ならカウントゼロ!」
――若さ、だったりしたのなら、あの子、許さないけどね!
オバサンには心開かず、この無謀極まりない若い少女なら逃げ出そうと思ったのなら、もう、珊瑚は許さない。
攻撃の度、力が更に強まる真赭に、珊瑚は勝つと口にすら出せない。負ける、敗北だ。それは痛みで動けなくなる状態の事だ。
壁に追いつめられた珊瑚は、ハッとした、目の前に拳が迫ってくる。
「ッシャア!」
頭を傾げて紙一重で避けると、真赭の弾丸のような拳は、壁にめり込んで動かなくなった。
「あっ、あれっ! やべっ! んぐー! 抜けない!」
壁に足をついて抜き始める真赭に、珊瑚は足を振り上げた。ひざ下から骨盤のあたりまで、真赭の右半身にそって刃が滑る。その度、スケートリンクに描かれる軌跡のように、赤い傷がついていく。
「こんのっ!」
真赭は、ギプスのついた右腕をその刃に刺した。右足は傷だらけになったが、右腕のギプスもどんどん刃によって軌跡が描かれる。それは解放の傷だった。
すっぽりと覆われていたギプスが、地面に落ちた。足を振り上げきった珊瑚は目を見開いた。
「なんてことを……!」
してしまったのか、と、珊瑚は絶望した。
真赭の両手が解放された。わきわきと、指を曲げて右腕の感覚を確かめている真赭を見て、珊瑚はすぐに距離を取り、しゃがみ込んだ。
だが間髪を入れず、真赭は壁から拳を引き抜き、軽くなった右腕を振り回しながら珊瑚と距離を詰めた。
「最高!」
久々の両腕解放にテンションマックスになったその時、冷や水を浴びせかけられるように、珊瑚の手から真赭の顔面に砂が投げかけられた。
キラキラと輝き、興奮していた真赭は目を見開いていた。
眼球全体に、ケーキの最後の仕上げである粉砂糖をまんべんなく振りまくように、びっしりと砂が目に彩られた。
「うっ! ぐああああ! 目がぁぁぁ!!」
解放された両手はすぐに目を覆うように当てられ、攻撃どころではなかった。ぎちぎちと柔らかい眼球に、細かい砂が入り込む。異物感、そして眼球の表面が破れていくような痛みに、真赭は悶絶した。
珊瑚はほっとし、静かに距離を取りながら、ストッパーで開いている出口へ向かった。
――よ、よかった……もうこれで終わる……
安心して逃げる珊瑚の背後で、真赭は痛みに襲われる中、ある時の光の会話を思い出していた。


まだ、光が燐灰中にいたころだ。真赭の中で最強であり、鮮烈な印象を与え、影響を与えた新橋光。青い空と仄かな風が心地よい、春の事だった。
昼休憩の時、弁当箱を持っていた光についていった真赭が、膝の上に購買で買ったパンを乗せ、頬を膨らませながら愚痴っていた。
「ねっ、酷いでしょ? 砂かけてくるとか、砂かけババアかよって」
「まあ、よくあるもので簡単に相手の視界を奪えるなら効果的よね、よくやられる……って、あのね、この姿の時にそういう話を振ってこないで」
「ピカリ先輩ならどうします? そういう時」
「その呼び方やめなさい。……まあ、そうね、水で洗うとか……」
「その時水なかったんですって」
「じゃあ泣くわね」
「泣く?」
真赭は聞き返しながら、鬼の目にも涙、という言葉を想像しつつ、光を見た。もごもごと卵焼きを食べている。光も泣くのか。想像が付かない。
「今、すごく失礼な事を考えてるでしょ」
「えっ、別に? ただ、ピカリ先輩が泣くって気持ち悪いなって思って」
「成程、アンタの目的は喧嘩を売りに来たって事ね。後で買うわ、覚えときなさいよ」
奥歯でからあげを噛みしめながら脅す光に、真赭はそんなつもりじゃないと両手を振って否定した。
「いやいや、想像が付かなくて! ピカリ先輩泣ける? 喧嘩中にそんな事になって! 絶対無理でしょ」
「無理じゃないわよ。簡単よ、想像すればいい。目に砂が入った。相手はボコボコにしようと意気揚々としている。もしかすると意気揚々と逃げるかもしれないし、とにかく、相手は砂をかけて安心してるのよ。この私が、この強い私がこんなくだらない手で、相手に安心感を与えているなんて、悔しくて、腹立たしくて……ほら、涙がこみあげて来るでしょ?」
「………………いや、ならないッス」
腕を組み、目を閉じ、光の言葉通りのイメージを膨らませたが、涙は出てこない。ただ痛いとしか思えない。真赭があっさりとそう言うので、光は、卵焼きを箸でつまみながら、ぽつりと呟いた。
「……帰ってきたドラえもん」
真赭はすぐに泣いた。



出口まであと少しの所で、珊瑚の腰にがしりと真赭が飛びついた。
「なっ!?」
ずべん、と、顔から地面に転んだ珊瑚はすぐに起き上がり、腰を見下ろした。そこには号泣する真赭が、鼻水を垂らしながらしっかりと腰を両手でホールドしていた。
「なっ、なんで……!」
「うおぉぉん! ドラえもーん!」
「はあ!? ドラえもん体形って事!? ムカつく!」
「未来に帰っちゃやだぁぁあああ!」
「ここはタイムマシンの入り口じゃないわよ! くっ、離せ! 離しなさい……! うっ、つ、強い……!」
感動で砂を除去しながら、真赭はぎちぎちと珊瑚の骨を軋ませるほどに締め付ける力を強めた。
俯せに倒れている珊瑚は、足を振り上げてもただバタ足で終わってしまう、両手で真赭の腕を解こうとするが、力の差は歴然だった。
「うっ、ぐぅうう」
ぽろぽろと涙を流した後、珊瑚の白衣でぐいっと目元を顔で拭うと、真赭は薄らと瞼を押し上げた。
「ぐすっ……逃げるのはやめようぜ……喧嘩はとことんやり合う方がいいんだから……」
「もう、絶対に、出来るだけしたくない事の一つね!」
「喧嘩して分かり合えることが、あるんだぜ。相手の事を知れる第一歩だし」
――まさか、アンタは私に友情を求めてるっていうの!? この状況で!?
と、突っ込みたかった珊瑚だが、痛みで声が出ない。骨に罅が入り、歯を食いしばっているので精一杯だった。
喧嘩も結婚も、もうしたくはない。結婚して子供が生まれたが、最終的に不幸しか残らない。
喧嘩をした後、夫は死んだ。娘には深い傷を、息子には不自由を迫った。
こんなくだらない事に、何の意味があるのだろう。ローズ遺伝子が花開いたが故に仕事に就く事が出来たが、少し、考える事柄が増えた。
珊瑚の骨に罅を入れた手ごたえを感じた真赭だが、腕を解く事を忘れていた。手を握りしめたまま眠る赤ん坊のように、珊瑚を腕で締め上げたまま、真赭は心はここになかった。
――ピカリ先輩は可哀想だ
自分の言葉で思い出したのは、屋上で一人、風に揺られて弁当を食べていた光の事だ。よく一人だった。双子なのに単独で、他のその他大勢には普通のいい子のふりをしていた光を、透は不機嫌そうによく見ていた。不思議そうに見ていた。真赭も不思議だった。光は何故、透の格好をして戦っているのか。その疑問があったから、真赭は光によく付きまとって、よく見続けた。
――それじゃあ駄目なんだよな、パチモン先輩
なんとなくわかった。光が求めているものが何なのか。ある時ふと、気が付いた。
光も真赭も喧嘩で相手を知ることができると思っている。殴り合う、相手の強さを、傷を、痛みを、考えを知ることができる、一つの手段。
――あの人は、光先輩に怒ってるけど、喧嘩したことが無い。本気でぶつかったことが無い。
真赭は光と喧嘩がしたかった。殴り合えば、大抵の事が分かるからだ。分からないというのは、とても気持ちが悪かった。
身体と口を使ってぶつかり合えば、わかる事だ。
真赭は分かった。会話では感じ取れない相手の何かを知ることができた。
――殴れよ、先輩
――新橋光は、ずっと殴られる事を待っているんだぜ。アンタが反抗するのを、殴りかかってくるのを、ただ待っているだけなのに。そんな事が出来ないなんて、
「本当、腰抜け野郎!!」
真赭は透が大嫌いだと再確認しながら、痛み悶える珊瑚をゆっくりと開放し、立ち上がった。答えを導き出した真赭は、勝利を噛みしめる。
そして片方、ハイヒールが脱げながらも、身体を抱く様に横たわる、華奢な珊瑚を見て十数秒後、真赭は少し汗を流し、ぽりぽりと頬をかいた。
「……あれ……? もしかして、やりすぎた……?」
「もしかしても、クソもないわよ! この、馬鹿力!」
痛むが叫ばずにはいられなかった珊瑚のツッコミに、真赭はいやいや、と、謙遜するように手を振った。
「いやあ、そちらこそとてもお強くて、手加減できませんでして」
「フォローになってない!」
勝利をおさめた真赭は落ち着き、まるで試合後のスポーツマンのように、正々堂々とした勝負をしたといわんばかりに手を伸ばしてくる。
珊瑚はその手を睨み付けたが、叩く事は出来ない。
「ナースもあんまりいないだろうから、運んであげるよ、辛いだろ?」
優しい声に珊瑚は反応しなかった。真赭の手を睨んだとき、視界の端で赤いものが見えたのだ。
真赭の頬から落ちた血の向こうに、強弱をつける赤い光が照っていた。
そして声を殺すと聞こえる足音二つ。ザッ、ザッと、遠慮なく近づいてくる。
真赭もその足音に気が付いたようで、後ろを振り返る。その瞬間、眩い光が二人の視界を襲った。
「うわ、本当にいた……何やってんだ、こんな所で」
そこには制服姿の警察官が、懐中電灯を持って珊瑚と真赭を照らしている姿があった。奥からもう一人の中年の、同じ制服を見に纏った男が、遅れながらやって来た。
真赭がよく知る人物二人。昔から燐灰町を中心に不良たちを相手にするベテランの上さんと、最近同じ交番に配属した元不良、桔流黄丹だった。



行き止まりの薄暗い壁を見て、透は思わず責めるように呟いた。
「こっちじゃないんじゃん」
「いやいや、あの猫がこっち来たから! お前、分かってへんのかい!」
「ミャオ」
「なんやそのふてぶてしい顔は! まったく! 信じられんわ! 解散、コンビ解散やで!」
「コンビになってたのかよ」
猫と犬を見下ろしていた透は、ふと、横にドアがある事に気が付いた。まるで図書室を覗くような気軽さで、こっそりとドアを横にスライドさせて開けてみた。そっと中を覗いてみると、そこには台の上に横たわる小雪と、裸の女が隣に横たわっている姿、それを見ている白衣の男と、石竹霙が両手を台の上について、頭を垂れ、
「……はぁー……」
と、大きなため息を吐いている姿が見えた。
「……赤丹君」
顔も上げずに声をかける霙に、赤丹は手を振って断った。
「あー、駄目駄目、俺弱いからさ」
「……私がするしかないのね」
「俺はここで待ってるから」
「とりあえず、一時的に片づけるだけで、後でどうにかするのはそっちでして」
「了解ー」
間の抜けた声で、敬礼のポーズをした赤丹を他所に、霙はくるりと方向転換し、ドアの方へ、覗いている透の方へ歩き出した。
ビクッ、と反応した透は、すぐに逃げなければと思った。
――やばい、見つかる!
だが、すぐにその考えは改められた。ドアの隙間から覗いている透の目に、がっちりと霙の冷たい視線がざっくりと刺さったからである。
すぐに逃げなければと思った。
――やばい、やられる!
「逃げるぞ! バレた!」
「はぁ!? なんや、ここに誰か……うお、おおおお!?」
鼻をすんすんと嗅ぎ分ける間に、霙はドアを開けて二匹と一匹の前に姿を現した。コチニールから見たら黒い山だった。
至近距離で顔を見上げようとしたが、胸の膨らみで顔が見えない。
「おぉ……興奮する絶景やけど、今は恐怖しかないわ……なんや、ワシは死ぬ前に男としてはしゃぐべきなのか、命を大事にしてここは素直に怖がるべきなのか……!!」
ぶるぶると震えながら自分の反応を考えているコチニールを一瞥した後、霙は透へ視線を向けた。
一刻も早くエリカの魂を移したい霙は、何も取り繕う事なく、真顔で透を見据えた。
「集中したいの」
受験勉強に追いつめられた受験生のようなトーンで言われた透は、はい、と返事をして、一つ頷いた。
だが、それだけで済むはずもなく、
「だから、大人しくしておいて」
すっ、と手の平を向けられた透はただただ硬直していた。霙の脳裏には、エリカと共に、小雪のお願いを思い出していた。
――でも、エリカが蘇らないと、約束なんて意味ないのよ
エネルギーを放出しようとした瞬間、ブシューッ! と、透の背後から白い煙が噴射された。
透も何が起きているのか分からないようで、間の抜けた顔に、霙も一瞬何が起きたのか分からなかった。噴射された白い煙は、透ではなく、霙を狙って噴射されたものだ。
「! ゲホッ! ゴホッ!」
「え、あ、な、何!?」
煙を吸った霙が咳き込む中、まだ煙がもうもうと舞い上がる。透が振り返ると、そこには赤い消火器を持って、してやったりの顔をした光がいた。
「ひ、ひか、ぐぇっ!」
名前を呼び終える前に、透の襟首を掴み、後ろへ放り投げられた。透は地面を無様に転がり、突然の喉の圧迫に絶句して寝転がっていると、コチニールが慌てて透へかけよる。
「透ーー! ちょ、何しとんねん! 敵か! 新手の敵か!」
「出口はそっち方向でしょ、早く行きなさい」
「逝きかけとる! あの世へ逝きかけとるで!!」
「逝きかけてないよ! びっくりした! ほんと怖い事すんなよお前!」
喉を押さえてひーひー言う透は、光を睨み付けた。なんて物騒な女なんだ。
そんな透の睨みも意に返さず、光は先手必勝とばかりに霙に向かって、持っていた消火器を両手で思い切り抛り投げた。
「!」
咳き込み涙目になっていた霙だったが、すぐにエネルギーを右手から出して、消火器をエネルギーでからめとった。
「走れ!」
光の声を合図に、透はすばやくないモモタロウを持ち上げ、走り出す。
「重っ!」
そして自分の声を合図に、光も霙の間合いへ瞬時に踏み込む。
「アンタの弱点分かったわ! その変な感じのやつ、片手しか出せないと見た!」
意気揚々とそう宣言し、消火器をガードするのでもう片手は使用済み。光が右脇下に身体を滑り込ませ、拳を握りしめ、一発KOの体制に入った。
透も逃げつつ、その自信に満ちた声におぉ、と思わず声を漏らす。いつもの、光が勝利する前に纏う、あの空気を感じた。
光も透もコチニールも、光の勝利を疑わなかった。
だが、石竹霙は眉を八の字にして、右腕の下から左手を出し、光の目の前で手のひらを見せつけた。
「全然、違うけど?」
見下すような目を見る暇もなく、光は首に見えない何かが撒きつけられた感触に目を見開いた。
「そんな、」
その一瞬、反撃されないよう、今度は霙が釣竿で糸を飛ばすように、両手で光を透が走り去った方角へ投げ飛ばした。
地面を転がり、透が振り返れば見える場所まで飛ばされた光に、コチニールがいち早く気が付いた。
「あっ! 負けとる!」
「えっ!? あの状況でなんで!?」
あんな決め台詞を決めて何故吹き飛ばされているのか。透は慌てて足を止め、光に声を投げかけた。
「大丈夫か!?」
「……だ、大丈夫に決まってるでしょ」
安心感を与えない震えた声と、だらだらと汗を流す光に、透は不安しかない。予想が外れたという気持ちを、表情で見事に表現している。
顎の下を手首で拭いながら、口端を吊り上げながら光は笑った。
「へっちゃらよ、へへ、こんなのはよぉ……」
「おいおい、キャラ変わってんぞ大丈夫か!」
モモタロウを抱きかかえたまま近寄る透の耳に、カツン、カツン、と、霙が近づく足音が響き渡った。見なくても、こちらを向いて歩いているのが分かる。
――コイツ、勝てるのか?
ふとした疑問に、透は出口に向かうのをためらう。いつも好き放題して暴れ回る光は、勝利が約束されていた。感覚で、空気で、雰囲気で、流れで、なんとなく感じ取ることができ、それは安心につながっている。
だが、今は不安しかない。透がそう感じているという事は、光はもっと感じている筈。向かい風をまともに受けながらも、目を薄らと開けて立ち上がろうとしている。石竹霙は嵐だ。無鉄砲に突っ込んでも、巻き上げられて落とされる。
――……あと少し
霙は体の内部に意識を向けた。霊のエネルギーはあとわずかだ。ガソリンを入れろと点滅する寸前だった。
ほんの少しの力で意識を飛ばさなければ、こちらが負ける。
――できるだけ体力を削ってから、首を絞めれば落ちるはず
光を締め上げた後投げ飛ばしたのは、首を絞めた瞬間、光の足がぴくりと動いたのが見えたからだ。そのまま蹴りを入れられれば霙は呆気なく倒れる。
身体全てを締め上げてしまえばよかったのだが、あまりエネルギーを使えない。
――エリカの魂を移動させるのに必要な分は残さないと……
今ので相当体力を消費したはずだ。自分に対する警戒心も、神経をすり減らすには十分だろう。
――彼は、エネルギーになってくれないし
身体の中にある、消化されない魂を感じて目を細める。どう足掻いてもこの魂だけは吸収できなかった。
霙は光に近づいていく。透は何もできずに立っている。
「ひ、光……」
じわ、と、涙が浮かび上がる。泣く場面ではない。だが、透はじわじわと涙が浮かび、鼻水まで垂れてきた。
それを見た光が、ぎゅっと眉根を寄せ、唇を突きだし、身体に力を入れて立ち上がる。拗ねているような表情をして、光は強がる。
「大丈夫だから」
「いや、別に泣いてるわけじゃ……」
「鼻水まで垂らしてるのに?」
指摘されてずびっ、と鼻を啜った。目が痒い、鼻がむずむずする。
霙が近づいてくる。手を前に突き出している。
――今度は、首じゃなくて口と鼻を塞ごうかしら……
首締め上げるよりも確実性がますが、一歩間違えれば殺してしまうかもしれない。だが、エネルギーは最小限で済む。
大量のエネルギーを出さないために、距離を詰める。小雪の友達の意識を飛ばすために。静かで集中できる空間を作る為に。
「は……は……」
一発、一発入れば倒せる相手だ。どれだけ投擲を繰り出しても、あの見えない何かでガードされる。蛇の用に巻き付き、大きな板のように防御する。見えない相手というのは、やりにくい事この上ない。
だが、背後には透がいる。
――やるしかないわね
勝つイメージがまったく浮かばない。どう倒すのか、皆目見当もつかない。不気味な女だが、強さを感じさせることはない。
――あの変な感じを突き破る一発を出せばいいだけの事
防御されたら、その防御ごと貫けばいい。ぎゅっと拳を握りしめる。
「は……はっ……」
光が一歩霙に近づいた瞬間、霙は光の口元にエネルギーを放出した。
見えない何かが近づいてくるのを肌で感じた光が目を見開いた瞬間、目の前の光景が遮られた。
「!?」
ゴォォォォ、と音がする。目の前を遮ったのは、光の髪の毛だった。風で巻き上げられ、前へ向かってあらぶっている。
「な」
次に背中も何かに押されるような感覚がした。一歩、足を踏み出して耐える。一体何だ、何が背中を押している!? 混乱しかけた光だが、この押す力の正体が風だという事に気が付いた。風はすぐに収まり、光の髪の毛はふわりと重力に従って落ちていく。
呆然とする光の視界の先には、行き止まりの壁の下で蹲り、横腹や腹を撫で、痛みに顔を歪ませる霙の姿があった。
「あ゛ぁぁぁぁ……!!」
歯を食いしばり、蠢く霙は、もう光たちを見ていない。痛みにだけ向き合っていた。
どうやら背中を負傷したらしく、背中に手も回せず、痛みをどう逃がせばいいのか分からずにのたうち回っているらしい。
光はハッとし、後ろを振り返った。
そこには透がいた。
傍にいるコチニールはぶるぶると震えながら、顎が外れたように口をぽかんとあけて透を見上げている。
モモタロウは透の腕から逃げたらしく、そのコチニールに身を寄せてぶるぶると震えている。
ここに居る全員、髪の毛が乱れまくっている。透は髪の毛を治すことなく、ずびずびと鼻水を仕方なく袖で拭いながら、赤く充血した目で光を見上げた。
「……え? 何?」
あっけらかんとしたその表情に、光は顔だけ振り返った状態で、コチニールとモモタロウを見た。そして、また呆然とした顔で透を見た。
全員が愕然とした表情で、探るように相手を見る。だが、誰も何も答えない。
「……何が…………起きたの……?」
光の間の抜けた質問は、戸惑いの沈黙が答えるだけだった。














20150612



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