第五十七話





「モモタロウがいねぇ。帰れねぇ……」
「いい加減猫離れしなさい」
「いやいや、お前、飼い主の責任ってもんがあるだろぉ。こんな所に放置したら、何があるか分からねぇ。俺も今日はここに泊まるぜぇ……はぁ、モモタロウ、どこ行ったんだ、あの巨体で……」
愛猫、モモタロウの丸く太く、歩けば地響きがしそうな重量級の姿が何処にも見当たらず、孔雀は瞼の黒子を見せながら、がっくりと肩を落としていた。
珊瑚もがっくりと肩を落としていた。もう夜中だと言うのに、若芽は残り、赤丹も残り、孔雀もモモタロウの為に残ることになり、研究所の中には、昼間と変わらぬ人間がいつづける事になってしまった。
――人気がなくなれば、逃がせると思ったのに……
珊瑚はせめて、若芽と孔雀がいなくなれば、さくらを野に放てると考えていたのだが、最終的に子供のいる自分が一番最初に帰る事になってしまった。
――まずいわ、この神経質な孔雀君。夜だってのに眠らなそうな意地の悪い性格してるから、私がいなくなったら、あの子使われちゃうかも……
うぅむ、と、とりあえず珊瑚は、家に電話しようと病院の外に出た。
「……もしもし、一鷹? ごめんねー、遅くなって……うん、もう少しかかりそうなの……そう、明日の朝には必ず帰っておくから……うん。夜ごはん昨日のカレーを温めて食べてくれる? ごめんねー……そう、ちょっと仕事がね……は? いやいや、男とデートなんかしないわよ! そんな人いるわけないでしょ! ……もう、馬鹿な事言わないの。ちゃんと宿題して、早く寝るのよ。あ、戸締りしっかりね! 身体も冷やしたら駄目よ。ちゃんと布団をかけて……何かあったら連絡してね……う、た、確かに電波は届かないけど……」
母の心配をよそに、電話の向こう側の息子は、母不在のチャンスに目を輝かせ、ゲーム、テレビなどを堪能しようとしているのが、はしゃぎ方で理解した。だが、身勝手に帰らない珊瑚は、深く追求することはできない。
病院内はとても静かだった。珊瑚のヒールの音が響き渡る中、壁の近くにある手すりの裏側にある蓋を開き、ガチリ、とボタンを押して入り口をロックした。
――そういえば、石竹霙が帰ってくるって言ってたけど……まあ、大丈夫よね
病院内にある入り口を閉じながら、どうでもいい事だと思い、書置きも何もしないまま、珊瑚は病院を出た。そして外から開かない出口の方に回った。月明りで不気味な病院内を照らしていた。どこからか、珊瑚以外の足音が響き渡っていた。



珊瑚が息子に電話をしている頃、地下ではコチニールが酒焼けしただみ声で叫んでいた。
「ええかげんにせえよ……ワシはな、マジやぞ」
「そうかいそうかい。で、ドッグフード食べないの?」
「阿呆! まずは酒と焼き鳥持ってこんかい!」
「そんな酒焼けした声してんのに、更に声帯痛める気? やめといた方がいいんじゃない?」
生意気にも、若芽はドッグフードの入った犬用トレイを、ほれほれとこれ見よがしにコチニールに押し付ける。
その若芽の舐めきった態度に、思わず歯を剥き出しにして牙を見せつけ、唸る。



光に連れられ脱走後、コチニールはまたあの暗くコンクリートでできた部屋に戻された。しっかりと外から鍵をかけられた後、どれほど叫んでも何者も反応しなかった。
だが、若芽が来る前、叫び続けた喉を労わるように無言でじっとしている時、鍵がガチャリ、と開く音がした。警戒態勢に入ったコチニールは、ゆっくり開くドアを睨み上げていた。
だが、そこには誰もいなかった。何者の影もなかった。
だが、足音がした。てしっ、と、まるで自分と同じ肉球があり、それを踏みしめるような、あの間の抜けた音。
視線を下にゆっくりと下ろすと、そこには見事に肥えた猫がいた。
「な……なんやねん……」
意思疎通できない人間より、同じ四足歩行の猫は、不気味だった。その大きな巨体でタックルされたら、コチニールにはひとたまりもないだろう。
だが、猫はふてぶてしく中に入り、その巨体から想像できない程の跳躍を見せた。机の上に乗り、ロッカーの一番上に陣取り、身体を丸めて瞼を細めた。
「……って、おーい! 眠りに来たんかい! 暗くて静かで邪魔のおらんここで、昼寝しようって算段かい! 叫ぶからな! 眠らせるか! 煩くするで! シャウトしまくってやるわ! ふざけんな猫! この猫っ! キャッツ! キャッッ……ッツ!!」
ビビった自分をごまかすため、思い切り叫びまくったコチニールに、モモタロウはゆっくりと瞼を開けた後、自分の首輪にひっかけたものを落とした。
ジャラジャラと、鎖が鳴る音によく似ていた。
だが、それは鎖ではなかった。ロッカーの一番上から落ちたそれを、暗闇の中でコチニールはしっかりと確認した。
鍵の束だった。
「んな……」
そういえば、鍵をかけているこの部屋に、鍵もなく入れるわけがない。
だとしても、だとしても、ただの猫が鍵を開けてドアを開ける事などできるはずもない。
「お……お前……何者や……!」
おそるおそる尋ねると、モモタロウはクアッ、と欠伸をした後、仏頂面でコチニールを見下ろした。
そのふてぶてしい態度を履き違えたコチニールは、ハッとした顔をした後、少し震えた。
「まさか……お前……ワシと、同じなんか……?」
モモタロウは長い間を取った。その間が、コチニールを確信へと走らせた。
「ミャオ」



モモタロウはただの猫であった。ペットショップで売られ、孔雀に買われた。飼い猫となった。
食べて眠って食べて眠るの生活に不満を覚え始めたのは最近だ。身体が重いのだ。昔のようにスリムでスレンダーで、周りの雄猫が放っておかないあのモデル時代が終わりを告げたことに、モモタロウは鳴いた。
それもこれも原因は、多量の餌をデレデレしながら献上してくるあの人間のせいだ。
そして、多量のコミュニケーションと言う名の虐待で、ストレスを与え続けて来るあの人間のせいだ。
どれほど引っ掻いても嫌がっても、奴は自分を太らせようと躍起になる。
毎日籠で運搬される日々。餌をもらい眠っていられるが、天敵はいないが、それでも、ストレスと言うのはどんな環境にもある物である。
それが安全と食事を提供する人間という、本末転倒と言うか、灯台下暗しと言うか。ハイリスクハイリターン。モモタロウはこのままぶくぶくと太り続け、円形脱毛症になりつつ時間を浪費する人生を送る。
そんなのは嫌だ。モモタロウは短い手足で立ち上がり、ボンレスハムのような身体を揺すりながら歩いた。
モモタロウもいい年だ。そろそろアバンチュールを決め込みたい。外の野生の雄猫と、イチャイチャとしてみたい。あんな変な目を持った人間と頬擦りされてもストレスしかない。猫の人生は短い。人間の歪んだ愛情ですり減らされてたまるか。
自分は女王であるとモモタロウは思っている。
あの人間は下僕であるが、やはり場所と食事を提供する側なのだから、それなりの立場である事も理解していた。
下僕のコミュニケーションも大切な事だと自負していた。だが、もう我慢できない。
どれほど攻撃をくわえても持ち上げ、抱きしめ、頬擦りをして接触してくるあのウザさに辟易していた。
どうにかできないか。脱出するにはどうすればいいか。同じ人間に頼っても、おそらく孔雀の元へ重たそうにモモタロウを抱きしめながら運ばれるのがオチだ。
ならば、と、同じく四足歩行をする変な犬に希望を賭けてみようと思った。
同じく鎖に繋がれ閉じ込められている、この不自由な犬ならばわかるだろう。自分の気持ちが。
だが、それを言葉にする事はない。一鳴きで理解させる。女王に相応しい沈黙である。
コチニールは神妙な面持ちでモモタロウを見上げていた。先ほどの重厚な一鳴きに、こくりと頷いた。
「同じ穴の狢や、やろうや。いくとこまで行ったろうやないか!」
モモタロウはロッカーから下りて、鍵をコチニールへ持っていった。コチニールは鍵を器用に加え、足につけられた鎖の鍵穴に別の鍵を何度か刺して開錠した。
それを見て、モモタロウは確信した。この犬、とても器用だ。
自分は何度かジャンプして鍵穴に鍵をさしこんだ後、ドアノブに前足でぶら下がり、頭でぐいぐいと押し広げ入ったが、この犬がいればもっとスムーズに事が運ぶ。
やはり自分は女王だ。天才だ。犬を見る目があるなんて、まさしく王者にふさわしい審美眼。表情を変えず、ふてぶてしい顔をしたまま、モモタロウは自分の優秀さに感動していた。



コチニールの足枷は、すでに足枷ではない。暗く見えにくい事もあってか、若芽はだらだらと、ヤンキー座りでコチニールに餌の入った皿をぐいぐいと押し付ける。
「まーまー、そうは言わずに食べた方がいいって。今犬なんだから、身体が受け付けねーだろ」
「そんなんさっさと身体をワシに返せば万事OKやん」
「返せっつって返せるもんでもないだろー。だってもう、アンタの身体ここにはねーよ?」
「……は?」
若芽はぼりぼりと頭を掻きながら、少し眠たげな目で、なんてことはない話をするように言った。
「だってさ、別にクローンあればなんでもできるし、ローズ入ってるわけじゃないおっさんの身体なんて、正直いらないって感じで……えーと、どこに送ったんだっけかな……悪いけど、もう身体全部繋がってないと思うよ? 実験か食べられてるかのどっちかなんじゃね?」
「食べるって……なんやそれ! ワシの身体、豚の餌にでもしたんか!」
「まー、豚より待遇いいと思うけどねー。つか、身体もボロボロだし、犬の方がマシだって。痛くないだろ?」
呆然とするコチニールを前に、はははっ、と軽く笑う若芽は、もし自分がクローンを作って死体として捨てる時、霙にコチニールの魂を入れてもらって、適当に動かし、目撃者を作った後、交通事故で殺してしまおうかと思いついた。
――その方が動いてるし、いいよなー。生きてるって感じが強いと、死んだときも確実に死んだって感じある。この人煩いから目立つし、ここにいても煩いだけだし……桔流に相談だな
「んじゃ、悪いけど双子にもご飯あげないといけないから……」
「……ちょっと待て、小僧……」
「ん?」
ズゾゾゾ、と、威圧的な何かを放つチワワに、若芽は首を傾げた。
「まあ、ええわ。とにかくええわ。許したる。ええか、許したるから、ワシの足首を摩れ」
「……は? なんで?」
 若芽が意味が分からないと首を傾げる。コチニールは、軽く自分の前足に鼻を向けて言った。
「これ、つけられて痛いねん。こんなかわいらしい犬に、動物愛護団体にテロをしかけるようなもんやで。黙っといてやるから、とりあえず痛いから、足摩れ」
「何なんだよ、その高圧的な顔。いや、顔っていうか空気っていうか……」
「この、細い手足で踏ん張っとるワシの頑張りレベルなら、ボンキュッボンな、肉感的美女にうっふんあっはんと摩ってもらってやっと釣り合うレベルの痛みや……お前みたいなしょうもない子供で我慢したる言う、ワシの心の広さに土下座して喜べ」
ふぬー、ふぬー、と鼻息を荒げるチワワに、若芽は困ったように頭を掻く。
「えー、めんどくせっ。でもま、仕方ないか」
正直、同情心はある。同じ人間として、もう戻らない身体に対する執着も理解しているつもりだ。老人の駄々を聞くような、自分の為にはならないお願いを聞いてやろうと、偽善的に若芽はコチニールに近寄って、その細く小さな足に触ろうとした。
だが、その足はするりと差し出した手から逃れた。
「んん!?」
がっちりと捕まえていた足枷が外れていた。一体どういう事だと睨み付けると、コチニールは若芽の指三本を、開いていた枷に閉じ込め、ロックした。
「ちょ!?」
細い犬の足首用の枷にしっかり嵌められた若芽は、指を引っ張って抜けさそうとするが、抜けない。
背後を通り過ぎるコチニールの、してやったりの顔を見た。
「わはははは! 馬鹿め! ワシのこの愛らしさに騙されて! 先輩として一言言わせてもらうとな、見た目で判断したら痛い目見るで! 女と犬には要注意や! がははははっ! よし、ほないくで猫!」
「なんだそりゃ腹立つ! ってかモモタロウ! お前なにやってんだよ! ……お、おい、ちょっと、まさか俺またここに置いてけぼり? は? なんで鍵持ってんだよお前!?」
若芽の叫びも虚しく、二匹は外に出ると、ドアを押して閉じた後、コチニールが何度かジャンプして鍵穴に鍵をさしこむことに成功し、ガチリ、と、しっかりと捻って鍵をかけることができた。
「わっはははは! 来た! 来たでワシらの時代が! ビッグウェーブが! 身体が小さくてもやれる! 愛玩動物でも人間に勝てる時が来た! これはアレやな、革命やな! ワシって革命的!」
モモタロウが、鍵の束の輪を咥えて背後に備えている。コチニールは一通り喜びを露わにしたら、すぐに床に鼻を近づけ、くんくんと臭いを嗅いだ。
「はよ、光と透と一緒に出なあかんな。アイツ等、大丈夫か。まったく、すぐに助けたるわ。一宿一飯の恩は果たす男やで、ワシは」



出口のストッパーのおかげで、暗闇の中でも出口のある場所が何処か分かる。
地下からの出口は、閉じると壁と同化して、一体どこに切れ目があるのか分かりづらくなっている。珊瑚はそこを目指して歩いていた。
横には建物、その反対側にはフェンスがあり、その奥には青々と茂る森が広がっている。だが、夜になると、木々はただの闇となり、何かおぞましさを感じさせる。
珊瑚が歩みを止めたのは、おぞましさからだった。
眉を訝しげに歪め、ざわざわと、風で揺れる木々が擦れる音の中に混ざった異物に気が付いたからだ。
――……足音がする……
出口からではない。森からでもない。後ろからでも、前からでもない。
建物からだ。病院からだ。
今は真夜中、病院は静かで、廊下を歩くのはナースか、トイレに出歩く病人くらいだろうが、この端にはトイレはない。病室もない。
意図的にこちらに向かおうと言う意思がなければ近づかない場所だ。
こんな真夜中に。ほぼ光などない一角に、何を目的に歩いているのか。
珊瑚は見上げた。二階の窓が開いた。そこから影が現れ、バッとこちらに向かって飛び降りた。
「……ナース島谷の監視の目、夜の病院、トイレにもいくのが怖くて、ずっと我慢し続けるアタシだけどな、それでも来たぜ」
己の恥を晒すのは、すでに恥をかいているからだ。これ以上何度塗っても、恥は変わらない。
あの醜態、気を失ってしまったが覚えている。体に染みついた香りは、病院生活でまとわりつくようになった病室の臭いや消毒薬の臭いのように、たった一回で嗅ぎ取る事が出来る。
真夜中である。月が煌々と輝く病院の裏で、椎名真赭は堂々と珊瑚に向かって指を刺し叫んだ。
「負けたまんまで、明日の朝日が拝めるか!」
己の身体にまとわりつく敗北の臭いを消すため、幽霊の恐怖に膝を震わせながら、椎名真赭は負けた相手に勝負を挑む。











20150604



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