第五十六話





膝をついて泣きだす小雪に、霙は静かに、淡々と言った。
「違うわ。この子が、熱いっていうから。プールにいれば冷えると思って」
「こんなこと、どうしてしてたの。その二人で、エリカさんを抑え込んでいたの? こんなの……こんな事……」
「だってね、私を置いてどこかに行ってしまいそうだったから。ずっと、手を繋いでいるわけにはいかないでしょう?」
プールの底でぐったりとする霊に、小雪は眉を顰めた。
元より死んでいる霊だが、あそこまで疲弊している姿を見るのは始めてだ。本来、霊とは炎のようなものだ。ゆらゆらと揺らぎ、ふっ、と息を吹きかければ消える。儚い存在だ。その存在理由はすべて霊自身が所有している。
だが、今のエリカは燃え続けている。風に煽られ、今にも消えそうな危うさがあった。
それを霙は無理矢理繋ぎとめている。権利はエリカにはなく、霙の手中にある。
「エリカ、私の中に入って。大丈夫、貴方を消しはしないから……」
『もう、いや……あたま、おかしいんじゃないの?』
「そうかもしれないけど、今、そんな事はどうでもいいの。それは後からでもいいのよ」
ぐったりとしたエリカが霙を見る。霙も、ぐったりとしたエリカを見る。もうすでに死んでいるエリカが、死にかけているというのに、霙の目には生への希望の輝きがあり、それをエリカに注いでいるようだった。
今夜中にエリカは復活する。肉体が無いから、今はこんなに弱ってしまっている。だが、人間の尊厳を取り戻せば、きっと霙といる時間を作る事が出来るだろう。
エリカはぐったりとしたまま、呟いた。
『……しんじられない……』
「私は信じてる」
はっきりと、確固たる自信をもった声音に、小雪は二人の間に流れる空気に気圧されていた。自分が何か意見できる位置にいないと理解した。
――……どうするの、お姉ちゃん……
そして、私はどうするのか。小雪は胸元で拳を作り、暫く考えた。色々な感情と情報がごちゃ混ぜになった中で、今朝聞いた光の言葉を思い出した。
霙を追跡している時、妊娠しているかもしれないと訝しんでいた時の事だ。
『どうしよう、もしそうだったら……どうして、私に言ってくれなかったんだろう』
『間違ってると思いますか?』
『間違ってるっていうか……おかしいよね。心配するよ、皆……』
『なら殴ればいいんです』
あっけらかんと霙の背を見つめる光の言葉に、小雪は瞠目した。
『そ、そんな! 妊婦さんを殴るなんて駄目……じゃなくて、お姉ちゃんを殴るなんてできないよ……!』
『家族がクソの道を歩いているのを知っていながら、黙っているのなら、貴方もクソまみれって事です』
霙が曲がり角を曲がった後、光は立ち上がり追いかけた。
そして戸惑う小雪を振り返り、びしっと指をさした。
『いけないことは、嫌われる覚悟で殴ってでも止めるべきです。家族ならそうする責任があります』
姉はいけない事をしているのだろうか。弱ったエリカを掴む、あの細い指は、正しくないのだろうか。
『優しさと怠惰を履き違えちゃ駄目よ』
迷う中、光の声が、小雪の奥底の静かな水面に一滴落ち、波紋を広げた。小雪の隅から隅まで、頭の先から爪の先まで広がった。
羞恥と決意が混ざり合った。カチリ、と、光の言葉が、噛み合わせの悪かった部分をしっかりとはめ直してくれた。
涙が足元に落ちて跳ねるように、それは小雪に大きな衝撃を与えるものだった。



ぱしゃん、と、水を踏みつける音が響き渡った。
「もうやめて! エリカさんを離してあげて!」
小雪が霙の肩を掴み、エリカから遠ざけようとした。霙の真っ直ぐな瞳が、険呑な光を宿し妹を射抜く。
「小雪、いい加減にしなさい」
妹の駄々に姉が発するには、あまりにも強い怒りだった。氷のような冷たさで、エリカを掴んでいない手を小雪の前に向けた。
見えないエネルギーが、まるで蛇のように小雪の首に巻き付き、締め上げる。
「うっ……!」
ぐぐ、と、上へ上昇し、濡れたつま先が地面から三十センチほど離れた。震える靴の先から、水滴が落ちた。
霙の手も僅かに上へ掲げられる。
「おね……ちゃ……」
「私の邪魔をしないでって、何度も言っているでしょう」
見えない。だが、小雪にはおぼろげに見える。感じる。首に巻き付いたこの感覚、これは、霊だ。
「私にはエリカしかいないの」
涙の膜越しに、姉を見下ろした。こちらに手を掲げた奥にある瞳は、月明りを反射してきらきらと光っていた。まるで涙を浮かべているように輝いていた。
「お願いだから、邪魔しないで」
優しくお願いする言葉とは裏腹に、締め付ける力が僅かに強まったのを、小雪は感じた。
「小雪はいいでしょ? だって、あんなに友達がいるじゃない」
ギリギリと喉を締め上げ、呼吸ができない。伸ばした手の行き場が無く、開いたまま宙をさまよう。
「そんなにうまく生きていけるんだから……」
「あ……あぁ……」
目の前がぼんやりとし始めたころ、小雪は驚いた。意識を叩き起こされるような感覚だった。
体中の血が一気にスピードを上げて体中を駆け巡る。エネルギーが補給され、身体に力をみなぎらせる感覚が、手の先から一気に、小雪の爪先まで駆け巡った。
「嘘でしょう、エリカ!!」
霙の荒げた声の後、ずるりと蛇が逃げるように首の締め付けが解け、小雪はプールの底へ落ちた。
「うっ! ゴホッ! ゲホッ……」
喉を押さえ咳き込む小雪は、まだ何が起きたか理解していない。ただ、身体が熱くなり、呼吸ができなかったというのに、身体は全然へっちゃらだった。
ゆっくりと瞼を押し上げ、霙を見上げると、困惑した顔で小雪を見下ろしているのが見えた。
ふるふると指先が震えているのは、一体どうしてなのか、小雪には理解できなかった。
霙はパニックに陥っていた。妹を締め上げ、黒い感情を吐露した後悔以上に、衝撃に耐えられなかった。
――このままエリカを入れたままだったら……どうなるか……!
――私みたいにエネルギーにされたら、エリカは死ぬ
締め上げた小雪の、すがるように伸ばされた手から、まるで排水溝に水が吸い込まれるように、掃除機でゴミを吸い上げるように、自然には抗えないと諦めざる負えない程に自然に、掴んでいたエリカが霙からのがれ、小雪の中に入って行った。
小雪は今まで、霊をエネルギーとしてとらえたこともない。おそらく今のように入られた事もないだろう。
――小雪は、何も知らない……無意識に消化されたら……!
ゾッ、と、身体の中から体温が奪われていく。ドッ、ドッと、心臓が鳴っているのに、身体は一向に温まらない。頭も冷え、さぁっ、と顔がどんどん青くなる。
深呼吸した後、霙はゆっくりと、優しく、気持ちを込めて言った。
「……小雪、落ち着いて。大丈夫、ごめんね……」
「はっ、はっ……はぁ…………まさか、今……」
「落ち着いて。平気よ、もう、何もしないわ……」
「私、私の中に……」
「もう、家族の縁も切る。貴方に何もしないから、だから、小雪、お願いだから……」
胸元を握りしめ、身体の中に意識を向ける。自分以外のエネルギーが入っている。未だ意識を持っているそれは、小石を丸呑みしたような違和感を覚える。これが霊が入っている状態。霊が意思を持って、小雪の中に入っている。
乗っ取りではなく、小雪の一部になろうと入ってきた。その好意的な意識が、小雪の中に簡単に入る事が出来た理由だろう。
霙は霊に好かれていた。昔から霊を侍らせていた。だが、霙は霊に対して好意的ではなかった。
悪く言えば蔑んでいた。だが、それでも、霊達は霙の中に入って行った。
その事実を思い、小雪は目を細め、眉に力を入れた。覚悟を決めた顔である。
「エリカさんを力に変えれば、エリカさんは消えるはず……!」
「やめて!!」
絹を引き裂く程の声を合図に、割れていたプールの水がぷつんと、糸が切れるように決壊した。左右から押し寄せる大量の水に、霙はハッとした。
――まずい、つい力が……!
「小雪!」
手を伸ばすが水の方が早かった。霙の背に叩きつけるように水が押し寄せ、小雪も反対側の水に押され流された。
すぐに体制を立て直し、エネルギーで何とかプールの淵に手を引っ掻け、よじ登った。
溺れる小雪を見つけ、近くに来た時に腕を掴んで引きずりあげた。
「小雪……」
「ゲホッ」
心配そうに覗き込むと、口から水を吐き出した。じわりと灰色のコンクリートに水が染みだしていく。
そんな風に、エリカも染み出てくれればどれだけ楽だろう。だが、エリカは気を失った小雪の奥底に、はるか昔に凍った氷のように、深く、冷たく、固く霙から閉ざされている。
小雪の胸に耳を当てると、ドク、ドク、と、心臓の音が聞こえた。全身びしょぬれで体温が低くなっていた。だが、手を握りしめると、じんわりと熱が帯びる。生きている。抜け殻ではない。
エリカは中身のある人間の中に入り込んだ。その狭さを意に返さず、霙から逃げたのだ。
ぽたぽたと髪から水滴がしたたり落ちる。小雪は気を失ったのか、瞼を開ける事はない。
小雪の胸の上に手を置いた。そこからエリカを掴みとろうとしたが、出来ない。
「……エリカ……」
プールの波が収まるまで、霙は目を閉じる小雪を見下ろしていた。
殻にこもったエリカを、どうやって出せばいいのか。意思がそっぽを向いている状態で、どうやって向き合えばいいのか。
二つに割れた水が一つに混ざり合った。だが、霙の思考回路はいまだ渦巻いていて、プールの水面のように、静かに、そして冷静になれないでいた。
月明りが落ち着いたプールの水面を照らしていた。



日が落ちる寸前。赤々と輝く空の下、カフェ、LABYRINTHは閉店の札を出す前に、最後の客をドアから吐き出していた。カランコロンと、軽やかな鐘の音がした後、店長の陣副橡はホッと胸を撫で下ろした。
近くの椅子に座り、思い切り背を持たれかけさせ、煙草を指で挟みながら、顎を突き上げ煙を吐き出した。
「今日はよく客が来る日だな……」
朝は居丈高なヤグザかぶれの女子高生、昼はお得意様二名。そして閉店ギリギリにはスーツを着た不審な男。とても物腰の柔らかい接し方で、この店に来る客にしては珍しい部類で、好印象を持たれる人間だ。
――嫌な空気だ……
だが、陣副は吐き出した煙草の煙よりも、その男は淀んでいると思った。
雰囲気はとてもさわやかで不審者などと思う人間はいないだろう。清潔感もあり、中性的な見た目は緊張感を緩和させる。
だが、彼の纏う空気は、陣副が昔嫌がった香りそのものだった。
自分のカフェの中に、殺し屋の纏うあの嫌な臭いがとどまっているように思えて、顔を顰めて舌を出す。
自分の店が毒専門店の顔を持っていると知りながら、彼、木朽星は出されたお茶を何の躊躇いもなく飲み干した後、木朽はニコニコと笑って言った。
「おいしいですね。あはは、毒が入ってなくて助かりました」
入ってたら死んでました。と、軽々しく言うあの空気だ。命が極限まで軽く扱う人間の、あの嫌な感じ。
橡はそんな人間が大嫌いだった。
――自分を大切にしない奴は当然、他人にも優しくできない
自分の命を軽んじる奴から見たら、他人の命なんて、とびまわる蚊のような存在なのだろう。邪魔ならば叩き落とし、殺す。
「こんな田舎に来るなんて……しかもこの店以外の目的で」
一体何があると言うのだろう。こんな静かな田舎町で。いるのはヤグザくらいだが、それにしても不気味だ。
そして、あの女子高生、菫と同じく、さくらの事を聞いて出て行った。
橡は立ち上がった。そして店の電気を消した。暗闇がどんどん押し寄せ、夜が来る。











20150517



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