第五十五話





一目で霙に友達がいない事を見抜いた山吹エリカは、その後、クラスの人気者となった。見た目も性格も成績も、誰も文句を言わなかった。そういう所が塩田と被り、少し距離を取った。
だが、エリカは霙を特別視していた。それを霙以外の人間にも、霙の方が重要だと、露骨にではなく微妙なさじ加減で主張していた。
霙の事を知っている生徒からは反感を買った。特にエリカは異性よりも同性からの人気が高かった。
またもイジメの前兆のような、あの嫌な空気が流れ始めたが、エリカの態度は変わらなかった。霙と共にする時間を逆に増やした程。
「そりゃ、霙が可愛いから、嫉妬よ、嫉妬」
ふふん、と、自信ありげにからあげを頬張るエリカに霙はぽかんとした。
「いーい? かわいい女は女から嫌われるわけ。でも、男に媚びてるわけじゃないのにこれほど嫌な感じになるのはアレだけど……まあ、私がいるんだから、構わないでしょ」
「エ、エリカ……」
じーん、と、涙を浮かべて感動していると、がしりと胸を鷲掴みにされた。
「あと胸が大きいしね。これは大きいよ、胸だけに! こりゃー嫌われちゃうわ!」
あははっ、と笑うエリカに、霙はがっくりと項垂れた。感動を見事に打ち消された。
エリカは全て要領よくこなしていたが、それでも霙に対しての風当たりはきつかった。初めて下駄箱に不幸の手紙めいたものが紛れ込んでいた時には、思わず固まってしまった。
シューズの上に置かれた紙を前にして硬直していると、後ろからエリカが覗き込み、手紙をひょいっと取り、びりびりに破ってゴミ箱に捨てた後、ニコッと笑い、何事もなかったかのように教室に行く。
後日、シューズの中に画鋲が入っているのを見つけると、後ろからエリカが覗き込み、画鋲をひょいっ、と取り、近くの掲示板の隅にぶすりと刺した後、ニコッと笑い、何事もなかったかのように教室に行く。
数日後、霙の室内シューズの中にハムスターが眠っているのを見つけると、後ろからエリカが覗き込み、瞠目して逃げ出した。どうやらネズミ類は苦手らしい。そこは霙が両手で持ち上げ、野に放った。
「い、いない? もういいの?」
「いないよ、いない」
両手をひらひらとさせて、物陰からこちらを見るエリカに言う。おそるおそる出てきたエリカのその警戒した仕草に、思わず笑みがこぼれた。
いつしか、手紙も画鋲も、霙が破り、掲示板へ刺すようになった。
今度は机の中の教科書に落書きをされていた。破くとか表紙に落書きはなく、ただ悪口で教科書の文字を読めない様にしていた。先生にあてられても、音読できないようなやり口だ。
霙は最初驚いたが、別にどうでもいいと思った。エリカが教科書を貸してくれるし、その教科書を見て、霙を慰めてくれるからだ。
エリカはいつも慰めてくれた。
手紙も、教科書も、画鋲も、ハムスターも、机も、椅子も、笑い声も、噂話も、全てエリカが慰めてくれた。ずっとそばにいてくれた。
「大丈夫、私がいるから」
その言葉さえあれば、霙は大したことじゃないと思っていた。実際そうだった。慣れたイジメに、エリカが傍にいる事以上の影響は与えなかった。エリカは言葉通り、霙と共にいた。
学校の中で視界に入らない時はないくらいに、べったりと張り付いていた。登下校も毎日欠かさず霙と共にし、休日も霙の家などで遊んだ。エリカの家には行けなかった。行きたいと言うと困った顔をするのだ。
ある日問い詰めると、恥ずかしそうに言った。
「部屋が片づけられなくって……」
その言葉に霙は納得した。彼女の机の中は、阿鼻叫喚の渦なのだ。
「ごめん、霙の机にいれてていい? 大切なプリントだからさー」
よくそう言って霙の机に避難させるほど、机の中は悲惨だった。もしかすると虐められているのではと思い、整理整頓してあげた後、徐々に沼の中に沈んでいくように、目に見えて悪化するのを見てからその考えは捨てた。
楽しかった。イジメという風はあったが、それでもエリカと一緒に居ればなんともなかった。机を片付けるのも、落書きを消すのだって何の苦ではなかった。一緒の時間が増えるイベントのようなものだった。
だが、ある日エリカが霙に諭すように言った。夕暮れの教室で、霙の机の落書きを二人で消していた時だった。
「ねぇ、なんで先生に言わないの? いじめだよ、これ」
「いいの、だって、エリカが傍にいてくれるから。エリカはイジメられてないんでしょう? ならこのままでいいの。現状のままで、全然へっちゃらだから」
「こんなにエスカレートしてるのに、全然へっちゃらじゃないわよ」
高校二年の冬になると、受験のプレッシャーからか、どんどんイジメはエスカレートしていった。机の上に書かれた『死ね』だの『クソ女』だの、汚い言葉を雑巾でごしごしと拭きながら、エリカが忌々しげに言った。
「霙が強いから、どんどん調子に乗ってるわね……。気をつけなさいよ霙、最近、放火魔がいるらしいし、それに紛れて家に火をつけられるかもしれない」
「まさか、大丈夫だよそんなの」
心配してくれるエリカに喜びながら、霙は呑気に答えた。家の前で火をつけようとする不審者がいたら、霊が霙に危険を知らせてくれるはずだ。
本気でしようとしていようがいまいが、霙にとって大した問題ではない。
「……ねぇ、先生に言おう? それに両親にも言ってないんでしょ? どうして? 気持ちはわかるけど、こんな事されてどうして……」
「うん、だって」
ニコニコと笑顔を見せて続きを言う前に、エリカが遮るように机を叩いた。
「私がいるとか、関係ないでしょ!」
しん、と、静寂が広がった。こんな風に怒るエリカを見たのは初めてだった。
「エリカ……」
「私だったら許せない。こんな……真実じゃない事で、こんな目にあってたら……!」
ぎゅっ、と雑巾を握りしめたままエリカは絞り出すように声を出す。
「私、知ってるのよ、中学で霊が見えるとか見えないとかがきっかけでこうなってるって。霙は、言ってくれなかったけど……」
「え……あ……」
「……ごめん、もう帰る」
雑巾を片付けた後、エリカは一人で帰って行った。霙は初めて一人で帰宅した。マフラーを巻いて手袋もしているのに、いつもよりも寒く感じた。
次の日、エリカは学校に来なかった。朝、待ち合わせ場所でギリギリまで待ったが来なかったので、一人で学校に向かった。これも初めての事だった。今までエリカと一緒に居るのが当たり前で、一人で歩くのがこんなに重く、長く感じる事を改めて知った。
その日、霙は一人で過ごした。中学時代のように過ごした。一人になると、いつもと変わらぬくすくすと笑う声がはっきりと聞こえる。昨日と温度は変わらないのに、また更に寒く感じる。
――お見舞いに行こう
体調不良で休んでいると言っていたが、何がどうなっているのか、霙は知らない。
そして、霙はエリカの家も知らない。先生にエリカへ届け物を持っていくと言おうと、職員室へ行く途中、中学時代、霙の頬を叩いた女子生徒が霙の前に立ちふさがった。
別のクラスで、塩田も別の学校に行き、殆ど関わり合いもなかったのだが、何故今こんなあからさまに近づいてくるのか、霙には分からなかった。
「ねぇ、どうだった?」
にやにやと、いやさしさが隠せない笑みで尋ねる。霙は首を傾げた。
「……何が?」
「今、どんな気分なの?」
「……だから、何が?」
あえてはっきりと言わない態度に、時間が剥ぎ取られていく事に憤りを感じる。今は過去に囚われている場合ではない。エリカの事だ。
「エリカに言われたんでしょ? この二年、お疲れ様ぁって」
もったいぶった言い方をしたのは、他でもないエリカの事だった。霙の目に光が宿った。何か知っているのか、それとも、エリカに何かしたのか。
「どういう事?」
静かな声音に、彼女たちも違和感を覚えているらしかった。だが、あの叩いた女子生徒がニヤニヤと更に笑みを深くする。しっかりと獲物が罠にかかったのを見届けるようないやらしさがあった。
「どういう事だと思う?」
「知らない」
「エリカはね、塩田君と友達なの」
久しく聞いた名前に、ギクリとした気持ちになったが、それが、エリカと何の関係があると言うのだろう。
「……それが……?」
「分かんないの? 相変わらず間抜けだね」
「ちょっと、やめなよ」
「もういいでしょ、二年も待ったんだもん」
仲間が制止するが、意に返さない。
悪意を持った相手の私情が見えた途端、霙は目から光を消した。
「悪いけど、後にしてくれる? ちょっと用事が……」
「イジメをずっとしていたのは私達だって、分かってたよね?」
「はあ……」
見事な言質だが、霙は興味が薄い。その反応に不満げだったが、口端を歪めて笑い、衝撃だろう、と言わんばかりにゆっくりと言う。
「でもね、それをずっと、ずぅっと、指示してたのはエリカなのよ?」
「……何?」
「最初からエリカがしろって言ったのよ。貴方と友達になったもの、貴方が嫌がる事を知るため。馬鹿ね、友達だなんて思ってたなんて」
じっ、と、見つめるエリカの瞳を思い出した。大きな釣り目のくりくりとした瞳が、好奇心を持って霙を見つめる。屋上で共にお弁当を食べている時、好きなもの、嫌いな物を聞いた時。
『そうなの』
優しい声だった。
好きなアイドルの話、嫌いなアイドルの話。何が好きで嫌いかという意思の疎通は、霙も原始的だと思っている情報共有で、古典的なコミュニケーションだ。
相手を知るうえで必要不可欠な二択、好きか嫌いか。
職員室に行き、エリカの家のある場所を尋ねた。チャイムを鳴らすと母親が出てきて、エリカは寝ていると言っていた。
「えぇっと、それで、貴方は?」
「……石竹霙です」
「そう、石竹さん。エリカと同じクラスの?」
「はい」
「態々ありがとう。あの子もきっと喜ぶわ」
バタン、と玄関がしまった後、霙は二階のカーテンの引かれた部屋を見た。じっとしばらく眺めていると、僅かに揺れた後、エリカが顔を覗かせていた。
霙と目が合うと驚いていたが、じっと暫く見つめた後、カーテンを閉めた。



「今日、エリカが私のイジメに加担してるって言われたけど、あれもあの子達のイジメのうちなのかな?」
夜、霙は自室で子機を持ってベッドに腰掛けていた。開口一番、エリカが声を発する時間もなく霙の一撃を食らわせたが、エリカは冷静だった。
『……私には、分からない』
「どうして分からないの? 自分の事でしょう?」
『私の事なんて、私が一番分かんないよ』
「どうして? 自分の事を一番理解しているのは、自分自身だよ。私の事も私が一番知ってる」
暫く沈黙が続いた。霙はその沈黙に付き合った。時計の針が進む音が響く中、エリカがのっそりとした声で呟いた。
額に手をあてて、もう逃げ場がないと言わんばかりの顔をしているのだろう。
『……明日、話そう。電話じゃ何も伝わらない……』
「……分かった。じゃあ、明日ね」
『……霙……』
「何?」
『…………ううん、やっぱりなんでもない。プリント、ありがとうね』
電話を切った後、ベッドに寝転がった。やはり、エリカが敵意があるとは思えない。
だが、エリカはイジメに加担していたのもきっと事実だろう。
――私の事なんて、私が一番分かんないよ
階下で小雪が帰って来た音がした。男の子と遊んで、また膝を怪我したらしい。母に怒られている声が聞こえる。
小雪は、男の子と遊んでばかりで、外でいつも遊んでいるから、スカートを履くのをやめている。機能性を優先したズボンとTシャツで、汚れてもいい格好で出歩いている。
霙は、いつも虐められるから、それが当たり前だと思って傷つくのをやめている。感情を優先して、身を守るすべとして不感症に自らなった。機能性を優先している。
その理由として、エリカを使っていたのも事実だ。
だが、使っていたが、それが嘘ではない。エリカがいればお昼ご飯をトイレで食べることだって何も問題はなかった。
「今日はトイレで食べてみようか?」
「うん、いいよ」
こんな会話で簡単に違和感を感じることなく実践するだろう。
霙はエリカが傍にいてくれればそれでいい。イジメがあろうと、主犯がエリカ自身だろうと、この気持ちは変わらない。
――そういえば、誰が主犯かなんて気にも留めなかったし、考えたこともなかった……
常に虐められると思い込んで怠っていたのだ。クラス全員に嫌われていて、クラス全員からのものだと思っていた。まさか、トップがいたなんて。
――エリカはどうやって指示していたんだろう。私のどういう部分を見て、イジメに生かしたんだろう……
あの時、エリカはシューズを隠す事を決めたな、という場面があった。
普通に履き古したシューズを買い替えた時、新品の靴にニコニコと笑って言った事がある。
「新しい靴ね、素敵」
「ありがとう。一目惚れで買ったの。かわいいでしょ?」
その次の日にシューズが消えた。今思えば、エリカは見え見えの事をしていたが、まったく気が付かなかった。消えたシューズを見て落ち込む霙を優しく慰めていた。そして隠した犯人に対して怒っていた。
あの時、霙は確かに落ち込んだ。悲しかった。だが、エリカが優しく頭を撫でて、怒って、慰めてくれた事でシューズの事など吹き飛んだ。昨日買ったシューズより、山吹エリカの方がよかった。
――やっぱり、エリカは優しい……
靴を隠すだけの人間はごまんといる。だが、隠した後に傷ついた被害者を慰めるなんて事は誰にでもできる事じゃない。
イジメる人間は己の鬱憤を晴らすためにすることで、傷つけた相手のケアなんて目もくれないだろう。
――塩田君と友達と言っていた。私が除霊しなかった彼がどうなってのか分からないけど、きっと、それにお灸を据えようとしているんだ……
今塩田がどうなっているのか知らないが、もしかすると衰弱して入院しているのかもしれない。
――エリカに、私が霊が見えるとか、そういう事も話さないようにしてたから、怒ってるんだ。それを話して、塩田君の所に行って霊を何とかするのが一番いい仲直りのはず……
元気になった塩田を見て、エリカも笑顔を取り戻し、また変わらぬ日々が送れるだろう。
――私は、このまま変わらないままがいいんだ。今までと同じく、エリカと過ごしたい。
霙が今感じているのは恐怖だ。ドク、ドク、と、心臓の音が嫌に聞こえるのは、部屋が静かだからではなく、嫌な予感の前兆だからだ。
このままずっと、エリカと一緒に居られると思っていた。
大学も就職も、ずっとエリカと同じところに行って、エリカと一緒に住んで、エリカと共に死ぬのだと思っていた。
――こんなの嫌だ……
あんなくだらない人間の介入で、霙の幸せを壊されるのは嫌だ。こんな波などいらない。ずっと平行線のままがいい。ずっと同じ高さ、スピードで、ずっと歩んでいきたい。障害物も壁もハプニングもいらない。
二人が同じ方向を見ていれば不安などなかった。イジメに対して立ち向かおうとする意思が結びついた時のあの感覚。エリカが霙の隣に立ち、同じ方角を見て、同じものを見た時のあの一体感。
心臓の奥底にあるプラグに、エリカががっちりとはまっている。エリカからエネルギーを供給されている。生きるために必要な、一人では生み出せない力。
――元通りになりたい……エリカとずっと一緒に居たい……
もう気持ちは決まっていた。腹を割って全てを見せる。全てでぶつからなければ、エリカの全ても手に入らない。明日、しっかりと話をしよう。他の人間に話しかけられても無視しよう。
時計を見ると午前二時。家すら眠る真夜中だ。もうすぐ明日だが、明日の為に眠らなければならない。
そう思ったのだが、胸騒ぎで眠れなかった。霊がざわついていたのだ。
付きまとわれている霙は、そんな雑音には慣れていたのだが、その雑音が気になる。
暫くすると眠気が吹き
飛び、バッとベッドから飛び降り、出来るだけ静かに、だが、慌てて家を飛び出した。
サンダルを引っ掻けて、転びながら昼間来た道を走った。
『放火魔がいる』
『近くにいる』
『もう数件火をつけたみたい』
そんな情報を遮断しようと瞼を下ろしかけたのだが、
『エリカ燃えてるよ』
エリカの家は隣町だった。真夜中だというのに、ちらほらとけたたましい消防車の音が遠くから聞こえて来る。
冷えた夜だった。よく乾燥して、炎がごうごうと燃え上がるには最適の夜だった。夜闇で見えにくい煙が、炎に近づくとよく見えた。
消防車は到着していて、鎮火作業を行っているが、家が丸ごと燃えていて、中に人がいればひとたまりもない事は誰の目から見ても明らかだった。
「……エリカ……」
口から白い息を吐き出しながら、パジャマ姿でよろよろと言えに近づく霙を、消防の人に止められた。へなへなとその場にしゃがみ込んだ霙は、そのままずっと燃える家を眺めていた。
焦げている山吹の表札を、夢ではないかと思いながら眺めた。エリカの声も、無事の知らせも、霙の耳に届く事はなかった。
煙のようにエリカはこの世から消え去った。燃えた遺体だけを残して。
火事の原因はやはり、最近新聞各所を騒がせている放火魔の仕業らしく、未だ犯人は捕まらない。
霙が知ったのは、たとえ火事で死んだとしても、火葬をして埋葬をするという事だった。葬式では一滴も涙を流さぬ霙の隣で、何度か会った事のある小雪が号泣していた。
ずっと一緒に居た霙は心ここにあらずと言った様子で、ぼんやりと列席しているのを、クラスメイト達は不審げに見ていた。
人間はあるとき、ほんの一瞬ですべてを理解する時がある。それまで漠然とした感覚だったものが、自分の中でしっかりと理解できる時がある。今まで理解していたつもりだった感覚が、どれほど愚かな事だったのかと再確認する時がある。
涙は出ないが、胸の奥に鉛玉を埋められたような重みを感じ、霙は苦しんだ。
「ハッ、ハッ……」
自室のベッドに制服のまま倒れこんだ。お焼香の臭いがまとわりつく中、霙は手のひらを胸に引き寄せて抱きしめた。その手の中にはエリカの骨があった。こっそり持って帰ったが、霙は救われることもなく、かといって歩くべき道を発見したわけではなかった。
真っ暗な部屋のように、周りは暗闇が広がるばかりだ。
――これからどうするべき?
――エリカと一緒にいたかった。
――今までと変わらずに生活していたい。エリカがいないなんて、これから生きていくうえで一人なんて
――骨がある
――人形に魂を入れられれば……
――試さなくては、他の魂で、どうにかしなくちゃ。エリカの魂の前に……
「……どこ?」
そういえば、と、顔をあげて周りを見た。今まで夢のようにふわふわとした思考だった為気が付かなかったが、エリカの魂が見当たらない。
まだ霙と話をしていないエリカは、必ずさまよっているはずだ。そして、未練の対象である霙の元に来るはずだと信じていたが、葬式が終わってもエリカは霙の前に姿を現さない。
――エリカを探さなくちゃ。
――でも、探してどうするの?
――……幽霊でも、エリカは一緒に居てくれるの?
その時初めて、霙はエリカが永遠に自分と一緒に居てくれる保証が無い事に気が付いた。ただ傍にいれば安心できたが、エリカはいない。肉体は燃え、魂はどこかに行ってしまった。
肉体が欠如した状態で、霙の所へ来ないなんて。真っ先に自分の所に来てくれないなんて。
――私を避けてる……喧嘩したから、会い辛いんだ……
それ以外に理由はない。はずなのに、何故こんなに不安に思うのだろう。エリカの骨を握りしめて、深呼吸を繰り返す。額から汗が滲み出て、どんどん雲行きが怪しくなっていく。心の中の暗雲にうんざりする。エリカを追って死にたいとすら思えてきた。
――霊になってどこにでもいけるから、私はいらないの?
――どうして、エリカ、なんで私の所に来てくれないの……
涙が溢れ、頬を伝って顎まで流れる。やっと流れた涙は、ぽたぽたとシーツに染みを作る。
「うぅ……」
エリカが死んだという事実を今ここで受け止めた。人が死ぬとはこういう事だ。会いに行こうとしても会えない。だが、霙は死んだ後も会える。それが今、会えない。向こうが霙を避けている。
もしエリカを見つけた後、手を繋いで引き留める事は出来る。だが、その後はどうする? 入る墓はあれど、帰る家と身体はない。学校では署名欄にすら名前を追い出され、机も椅子もなくなって、他の人の記憶からどんどん擦り切れるようになくなってしまう。
霙と一緒に居る事などできない。周りに浮遊する霊達と一緒にしろというのだろうか。
そんな事、絶対にできない。
こんな存在とエリカをひとまとめにする事などできない。
『力になる』
見かねた霊達が、涙を流す霙にそう声をかける。一体、自分の何処がいいのか分からないが、霊達は誠心誠意、霙に尽くしてくれる。まるで兄弟のように、家族のように、祖父母の慈愛に満ちた無償の愛情に、霙は眉根を寄せる。
「何ができるっていうの? 私の力になるって、どうやって? 慰めてくれるって言うの?」
馬鹿にしたように言い放つ霙は、霊に対する嘲りを表面に出した。
身体あってこその人間。むき出しの魂は、まるで裸で歩いているようなものだ。彼らは犬と変わらない。
口には決して出さないが、そう思っている霙に、彼らは何故引き寄せられるのか。
涙をこぼしながら睨み付ける霙に、一体の霊が近づいてきた。そして、霙の胸に腕が入り込み、そのままずるりと霙の身体の中に消え去った。
「……!?」
これまでされたことの無い行為に、霙は驚き、壁まで後ずさった。とん、と背に当たると、自分の身体をぺたぺたと触った。
――の、乗っ取ろうとしてるの……!?
だが、操られている感覚はない。手も自由に動くし、自分の意思で動く身体のままだ。だが、違和感はある。自分の中に、霙と混ざろうとするエネルギーを感じた。
分離されているものが、ゆっくりと、霙の中に入り込んでくる。
嫌な感じはしない。むしろ、自分が力強くなっていく感じがした。生命力が強化されているような、変な感覚だった。
覆いかぶさるのではなく、下敷きになろうとしているようだった。
土台となって持ち上げようとするような、自己犠牲の動きが働いていた。
戸惑う霙に、他の霊達も霙の中に入って行った。呆然と、まるで焼身自殺するように、意思をエネルギーに還元する彼らの最後の一体に尋ねた。
「……どうして、貴方達は私にこんなに尽くしてくれるの……?」
理解できなかった。常に、無いものとして扱ってきたつもりだ。傍にいても鬱陶しいと思っていた。彼らが見えなければ、感じなければ、存在しなければよかったのにと、思う事はしばしばあった。
愛情を向けていたとは言えない。常に無関心でいたといってもいい。
小雪のように、好意的に受け止めてなどいなかった。
『僕たちを見て、気配を感じてくれたから』
「そんなの、小雪も同じじゃない。あの子はちゃんと、貴方達を人間として扱ってる……」
『そうすることが正しいとは限らないからだよ』
「どういう事?」
『君の無関心さが、丁度いい温度だったんだ』
エリカの葬式が終わった日、霙は魂をエネルギーとして取り込むことができると知った。不安定だった感情が、彼らが入ったことによって収まった。大きな力を感じた。
だが、その力でエリカを蘇らせることはできなかった。霙を守るだけで、霙以外はどうにもならない。
学校では、エリカと衝突し、その後学校を休み、家が燃えたという事が噂になり、霙は更に孤立した。根も葉もない噂も真実と共に大きく膨らみ、卒業するまで流れつづけ、露骨なイジメも日常となっていたが、霙はそれどころではなかった。
もはやその高校はエリカがいないというだけで、廃墟のような印象を受けていた。自分以外誰もいない。味方もいない。前を見据えていた。
――病院関係なら、死体が手に入るはず……
エリカを蘇らせる。ゾンビ映画のように、死者の蘇生を目標としていた。
魂が自分の身体の中に入るのなら他の身体にも入る事が出来るのだろう。生きた人間は難しい。ならば、死んだ人間の身体ならばあるいは。
手近な魂で実験できる霙は余裕だった。隣町の透輝大学には、大きな病院が併設されている。そこの学生なら何も問題はないだろう。
我慢して、運が良ければ神様が微笑みかけてくれるかもしれない。エリカが蘇って、一緒の時間を過ごせるかもしれない。そんな一縷の望みを、寿命が尽きるまで賭ける事に決めた霙にとって、桔流赤丹はまさに、神の微笑みでしかなかった。
「君、霊感あるんだって? 霊が見えるの? っていうか、霊っているの?」
科学的な桔流赤丹は、非科学的なものを日常としている霙にとって物珍しく、そして救いの神だった。彼は、人間の肉体を作りたいと言っていた。
「昔からそうなんだ。人間を組み立てたいって欲望が強くってね。でも、人間って脳があって心臓があっても意味がない。血液が回っても心が通っていなければ、血が通っているとは言わない。調べてみたけど、やっぱり魂とか、心とか、そういう存在を認めなければならないなと思ってね」
病院の地下に研究室ができると聞いて、木村に確認を取って霙は招かれた。
「情報が欲しい。彼女の人間性とかじゃなくて、髪の毛とか、骨とか。遺伝子情報が欲しい。もし手元にないなら墓に行こう。手伝うよ」
スコップとヘルメットを被って、墓堀りに意気揚々としている赤丹に、霙は持っていた骨を赤丹に渡した。
「なんだ……持ってたんだ……」
墓荒らしに意気揚々としていたらしく、落ち込んでいたが赤丹はすごすごと研究室に引きこもった。
そして骨を持っているからなのか、エリカの死後、彼女の霊を見つける事が出来た。霙は有無を言わせず捕まえた。
『熱いの、熱いよ』
と、泣き、霙から逃げ出そうとするエリカを、燐灰高校の冷たいプールの底へ押し込んだ。そこが家だと言っても逃げ出すエリカに、塩と札、そして霊二体を見張りにつけて沈めた。
エリカにはプールで頭を冷やしてもらい、温かい身体が手に入るまでの辛抱だと伝えた。
霙はわくわくしていた。エリカが蘇生すれば一緒に生きることができる。
同じ景色を、食事を、時間を共有することができる。
高校生活が永遠に続けばいい。ただぼんやりと流れゆく時間を、エリカと一緒にいたいだけだ。
小さなことに頭を悩ませ、昼休憩のあの時間は、涙が出るほどに幸せだった。
まだ、あの高校生活を思い出にできない霙は、その願望をかなえるために生きている。











20150517



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