第五十三話





真赭は唇を尖らせ、「なんだ、つまんないの」と呟いた。まったくもって生意気な少女である。
――まあ、それくらい強気でいてもらわないと……
口内を切った珊瑚は、白衣の袖で口を拭う。
「まあ、いいや、悪いけど負けたって言わないなら、勝つまで喧嘩するよ」
ふふん、と笑う真赭はまた拳を叩き込んだ。珊瑚はそれを簡単によけた。
真赭の左腕にはギプスがはめ込まれている。先ほどからの攻撃も右腕ばかりで、避ける事に難はない。
「おっ」
そして、さくらの双眼がない今、珊瑚はいつも通りの動きができる。
――まあ、疲れてるけどね!
本日二度目の戦いは、三十路には辛いものがある。昔から蓄積した筋力と持久力があれば別なのだが。
それでも戦わなければならない。
――できるだけ体力を使わなずに、できるだけ相手の体力を削るような……
うーん、と、頭を捻って考えた後、珊瑚は頭上に電球がパッと明かりをつけたように閃いた。古典的なひらめきの表現に、誰も突っ込む者はいない。
珊瑚は攻撃をかわした後、真赭の横を通り抜けた。
「ちょ、逃げるの!?」
真赭が慌てて後ろを振り返ると、そこには珊瑚がしゃがみ込み、死体を持ち上げている姿があった。
「へっ」
それは死体だった。初めて死体を見るが、それは初めて見るものではなかった。
ぐてんと力なく、だらしなく四肢がぶら下がっている。人間の胴体に、手足がくっついている。
それが、ちぎれかけていた。
両脚の付け根、両膝、両肩、両肘から、ぺりぺりと皮が剥がれ、肉の重みでどんどん切れ目から避けていくその姿は恐ろしいものがあった。
「……悪い子はいねがぁー……」
ずももも、と、目を眇め、ぶらぶらと揺れている腕を掴み、引きちぎった。赤丹のクローンの身体が、ぶちりと林檎をもぎ取るように簡単に取れた。
「ヒィッ」
思わず後ずさる真赭に、珊瑚は容赦なく、その腕を放り投げた。
「ヒィィィ!?」
べしゃり、と、白い壁に赤い血が飛び散る。明らかに悪い子は珊瑚の方だが、真赭はじりじりと壁を伝って距離を取る。丁度、さくらの部屋の方角へ向かっている。
珊瑚の纏うオーラが、母親の怒気と似ていた。怒りの根底に、躾けという大義名分があり、子供ながらにそれには勝てない事を、なんとなく理解してしまうようなそんな威圧。
逆らう事が難しくなるその圧に、真赭はじりじりと距離を取る。
「わーるーいーこーはー……」
ぶちり、と、また容赦なく腕をちぎり取った。どしん、と珊瑚の足音が象のように大きな音になって響き渡る。その不穏さは、引きちぎった腕を持ったまま、手を振り上げたためだろう。
恐怖の第一歩の足音に、真赭は泣きそうな顔になった。
「いねがー!!」
「ギャアアアアアア!!」
叫ぶ真赭に、珊瑚はまた引きちぎった腕を放り投げた。真赭はダッシュで逃げ出した。
だが、珊瑚が投擲した場所は真赭が逃げる方角だった。
そして詳しく言えば、彼女の足にもつれるように回転をかけ、足元に向かって放り投げた。必死に逃げようとした勢いが全て自分に帰ってきた形になった。
ぐに、と、嫌な感触が真赭の足にぶつかり、足をもつれさせる。
「うげっ!」
ギプスを嵌めたまま、右手は頭上に上げたまま、真赭は顔面から廊下に倒れこんだ。熱烈な廊下とのキスシーンを見て、珊瑚はふう、と息を吐いて両腕のなくなったクローンを落とした。
そしてゆっくりと真赭に近づいて、顎を掴んで横を向かせた。鼻血を流しながら、目を回している顔を見て腰をおろし、床に手をついて大きなため息を吐いた。
「あー、疲れるー……」
大した戦闘はしていないが、そろそろ体力が付きかけている。筋肉が怠く、やる気も減少してきた。
当初、珊瑚は真赭を強いと思って挑んだ。その気疲れが、体力を最小限使った最高の結果に対して、疲労感が大きい理由である。
ここで霙が敷地内に入れば、珊瑚は認めないがもっと楽に戦っていた。
ここの防波堤が自分しかいないと思い、緊張がより強まったと言える。
――ああ、もう、普通にいなせばよかったのに……これもローズ遺伝子の影響かしら。ホルモンバランスが崩れるみたいに、挑発的になってしまったわ……
うまく逃がした方がよかったのかもしれない。が、このままではさくらが孤立してしまう。できるだけ多い人数が掴まっていた方が、さくらへの被害も分散されるのでは、と珊瑚は思った。
――まあ、どちらにしても意味が無いのかもしれないわね。孔雀君の言った通り、被害を先延ばしにするだけなんて、無駄かもしれない
疲労感からか、悲観的な考えが浮かぶ。珊瑚は小さく溜息を吐いた。自分の思い通りに世界は動いてくれないし、嫌とか好きとか、そういう感情は押し殺すべきなのだろう。
自分の意思とは裏腹に、怒りがカッとこみ上げて来る。自分で感情をコントロールする事が難しい時がある。女とはそういうものだ。それに似た危うさを珊瑚は感じた。
――私はつい最近、いきなり目覚めた感じだから、危ないのよね……この子みたいに、若いころから目覚めていたらもっとコントロールしやすいんでしょうけれど……
ゆっくりと立ち上がった珊瑚は、さくらと三人が避難した部屋の方角を見た。
――あの子も後天的になったと言うし……大丈夫なのかしら……
そして、さくらと同じ部屋にいる三人は無事だろうか。力を持った監禁している小学生が、殴りかかってこないとは言えない。
珊瑚は気持ち早足で部屋の前まで行き、ドアを勢いよく開けた。予想外の惨劇が広がっていても、驚かないつもりでいた。
「ぶっはははは! ヤベー! 孔雀さん優勝! 予想通りの優勝!」
「あー、やっぱり養殖物は駄目なんだよ、付け焼刃で勝てるほど、孔雀さんは甘くないって事ですねー……」
「あはははは! おもしろーい! ずっとそうしてて!」
「テメェ等なぁ! こんな事で勝利しても欠片も嬉しくねぇんだぞぉ!? なんだぁ! 目を閉じてただけでにらめっこ優勝って! やりがいもねぇ!」
若芽が腹を抱えて笑い、赤丹が自分で描いたらしい瞼の黒丸を鏡で見つめ、さくらが手を叩いて笑い、孔雀が目を閉じて意見している、悲惨な光景が広がっていた。珊瑚は固まった。
そして津波のように更に疲労感が肩から重くのしかかり、右肩ががくり、と落ちた。
「……あ、アンタ達……何してるの、こんな時に……」
「あっ、珊瑚さん! いやー、長くなるかなと思って、ちょっと孔雀さんの良い所を上げようとして、全然なくって」
「そこでにらめっこ強いんじゃ? って言って、実際どうなのか確かめてたんですけど……いやぁ、強いですよ孔雀さん。全然勝てる気がしないもん」
「おもしろーい!」
「……あっ、そう……はぁ……」
ずりずりと肩を壁につけて下がる珊瑚。実験する側と実験される側が、何故にらめっこで楽しんでいるのかさっぱり理解できない。
額に手をあてた珊瑚は、疲れたように目を眇め、腕時計をちらりと見た。
「ねぇ、もう帰ってもいいかしら? 今日疲れたし、子供も待ってるの」
「あー、いいですよ。孔雀さんはどうします?」
「俺も帰るかなぁ、とりあえず明日だな、明日。徹夜する気はねぇし」
孔雀も欠伸を噛み殺しながらそう続け、膝に手をついて起き上がる。
「桔流はどうすんの? ここに残る?」
「石竹さん戻ってくるって言ってるし、待ってるよ。どこまでするかわかんないけど……あぁ、若芽君どうする? 見学する?」
「いやー、寝るよ普通に。俺のクローン作るときは言ってね。髪の毛とか欲しいならはげるまであげるからさー」
家に帰る孔雀と珊瑚と違い、若芽はこの地下施設でよく寝泊まりしている。仮眠室のベッドで充分らしく、今日もそこで寝るつもりらしい。
「とりあえず、あの子を上へ運ぶわ。気絶してるみたいだし、後はナースたちに頼んで夢だったとでも思いこませようかしらね。単純そうだし」
「でもまた明日、ここに入ってこられたらどうします? 珊瑚さんいない時だと辛いんですが……」
赤丹が苦笑しつつ言うと、珊瑚は当たり前のように続けた。
「そんなの、あの入り口をロックすればいいだけの事。出口だけを開け閉めできるようにすれば、あの子は入ってこない。まあ、中からしか開けられないから、結構面倒なんだけど……ドアストッパーでも挟んどこうかしら」
「だな。出口があるのは病院の裏。あんな所に来るやつなんてそうそういねぇしなぁ。木村が帰って来るまでそれでいくかぁ。ノックしたら中から開けろよぉ若芽ぇ」
「えー、俺ッスかー?」
「そりゃそうだろぉ、雑用係なんだから」
「いいじゃないの、ドアマンみたいでかっこいいし。ついでに制服も着てやりなさいよ」
「道重さんどこまで要求するんスか! しねーよ!? 着ねーよ!?」
日が落ちるまでに、それぞれが掃除、移動などを開始する。若芽は死体の汚れ処理、孔雀はモモタロウを連れて帰ろうとしたが、どこにもおらず、必死に探し回った。
珊瑚は真赭を背負って病院のロビーに転がしておいた。ナースたちがそれを見て、台に乗せて真赭を部屋まで連れて行った。
空は赤く染まり、ゆっくりと黒が染みこんでいく。明日の青さを忘れてしまう、塗りつぶしの夜が訪れる。





燐灰高校に来るのは久しぶりだったが、門の鍵を壊し、中に入ると案外学生気分に戻っていく。
髪の毛も短く、ひざ下のスカートがひらりと揺れる感覚。
夜空には星空がちらほらと散らばっていて、明るい月が霙の背に当たって影を作っていた。夜にしては明るく、歩きやすく、侵入しやすい明るさだった。
霙は燐灰高校へたどり着いた。霙の母校である。もちろん人気はない。校舎も眠りにつく時間帯だった。
こうして真夜中に来ることはなかったが、眠ったグラウンドの土を踏むと、楽しかった高校生活を思い出す。この門をくぐると、いつだってエリカとの楽しい時間があった。
グラウンドを横切って、部室棟のある方角へ向かう。そこにはプールがあった。
梅雨が明けるとプール開きがあると小雪が言っていた。とは言っても、水泳部しか使用しないので小雪は使用しない。入学して一度も、小雪はプールに近づいていないのだろう。
――好都合。
もし、小雪がプールに頻繁に行くような状態なら、ここまで放置されなかっただろう。
夜の学校に、霙のヒールの音が響き渡る。焦ることなく、廊下を走るなと先生に注意されている学生のように、ゆっくりと敷地内を歩いている。
フェンスを乗り越え、プールの中に入った。淀んだ水が溜まっているが、霙は手をかざし、エネルギーを放出した。
すると、プールの水は震えはじめ、左右に分裂した。まるでモーゼが海を割ったように、砂を両手で左右に掻き分けたように、水の山が二つ出来た。
真っ直ぐな道が出来たので、霙はプールの中へ降りた。ぬれた地面を歩いていく。中央の排水溝の前でしゃがみ込んだ。
ぴちゃん、と、どこからか水音がした。
霙は、グラウンドに足を踏み入れた時から知っていた。だが、あえて霙の後を追わせていた。
もう何を言っても無駄だろう。言葉で止まるようならここまで来ていない。
――そういう所、私の妹って感じね……
「何、してるの……お姉ちゃん……」
霙は振り返ることなく、背後に立った小雪に返事をした。
「ちょっと大切なものを取りに来たの」
蓋のネジを持っていたドライバーで外すと、ぱかり、と開けた。そこには汚い口が広がっており、その隅にくぼみがあった。
「お姉ちゃん……」
「戻ってなさいって言ったでしょう? 夜にこんな所に来ちゃ駄目よ、小雪」
「ごめん……でも、やっぱり気になって……」
「そう。怒られる前に帰った方がいいわよ」
今、こんな所で何をしているのだろう? 何故、校舎ではなくプールなのだろうか。霙は水泳部だったという記憶はない。泳げるが、別に好きではなかったはずだ。
小部屋に閉じ込められたとき、消えゆく霊が教えてくれた事実を元にして、今の変化をどう、とらえればいいのだろう。
嫌な予感がする。知りたくない事実だが、姉の正体がもうすぐ見える気がして、小雪はじっと後ろ姿を眺める。
「ねぇ、一緒に帰ろう? 帰るよね……?」
「悪いけど、今日は帰れない。お母さんにも言ったでしょ?」
「でも、帰ってきてよ、不安だよ……」
そこには丸い筒が入っていた。卒業証書を入れる筒だった。霙の卒業証書は、部屋にあるはずだ。その入れ物が何故ここにあるのだろう。
霙はそれを取り出した。蓋とのつなぎ目に、お札が貼られていた。
それを無遠慮にびりびりと破いて、パカッと蓋を開けた。あたりから、水の臭い香りが広がっていた。
その筒を傾けると、中から塩が出てきた。さらさらと落ちていき、湿ったプールの底に小さな山を作った。
今まで水の中にあったとは思えない程、綺麗な塩だった。
小雪は脳裏に、燐灰高校の七不思議を思い出していた。

『理科室の人体模型、図書室にある謎の本、ある時段差が急に変わる階段、呪われたヴァイオリン、プールの底にいる女子生徒、真夜中にボールのつく音のする体育館、保健室の亡霊』

――プールの底にいる女子生徒。

小雪は涙を流していた。全てのピースが繋がった。もう全て見える場所まで来ていた。高台から町を見下ろすように、全体がはっきりと見えた。
霊とは掴めぬものだ、見えぬものだ。そして指図も制限も出来ないものだ。
人間を抑え込もうとすればできる。手を握って引き留めることができる。だが、霊にはできない。
だが、小雪と霙はそれができる。
あの世へ行きたがる霊を引き留める事も可能だ。今まで、そんな事はしたことが無いが、小雪はできると思った。
それに対して思う事はなかった。なぜなら、そのような事をしようと思ったことが無いからだ。
霊が成仏する事を止める事など、考えたこともない。
引き留めるよりも、促すように力を使ってきた。
だから小雪は、その時戦慄した。驚いて、恐ろしくて、ショックを受けて涙を流した。
筒の中から霊が出てきた。二人、見たこともない男の霊だ。強い気配を感じる。意思が強く、自分が何者で、何の為にそこにいるのかしっかり理解している霊だ。
その男がずるり、と、更に筒から細い手首を掴んでもう一人の霊を引きずり出した。
死してなお、霊として残る人間には強い意思がある。野望がある、後悔がある、心残りがある。何かしら過去に対して強い思い入れがある。
だが、その霊はそんな意思もなく、放っておけば消え失せてしまいそうなほど、生気が無かった。意思も弱っていた。風に吹かれれば飛んで霧散してしまいそうな、希薄な存在だった。
それは小雪も知っている人間だった。
生前、数回しか会ったことが無いが、しっかり覚えている。
つい先ほども思い出したほどだ。だが、まさかこんな事になっているとは思ってもいなかった。
「嘘でしょう。お姉ちゃん」
小雪は震える手で口を覆った。涙が止まらなかった。
「そんな所に、エリカさんをずっと監禁していたの……?」












20150507



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