第五十一話









若芽繁の一番古くて、一番懐かしく、強烈で、日常の光景はいつも、リビングから見たキッチンだった。何気ない景色だった。腰をおろし、玩具で遊んでいる時、机の向こう側にいる両親の姿だった。
父は飲んだくれの暴力男で、母は優しく弱い人だった。反撃する勇気と共に、逃げる勇気も持ち合わせていない人だった。
ある日の夕方だったと思う。父は家にいた。一体何をしていたのかと言えばよく知らない。覚えているのは酒を飲む事とパチンコに行くところ、そして母への暴力だった。夕日は若芽の背後から差し込んで、まるで舞台上の俳優のように、キッチンにいる両親を照らしていた。
母は怯えていた。いつもの事だった。青白い肌に夕焼けの赤みが差して、とても健康的な色になった。
反して父は、浅黒く、赤々とした肌で、酒息を吐きながら母の胸倉を掴んだ。夕日に照らされ、化け物みたいに見えた。
いつもの光景だった。それなのに、そこが原点だった。幼い頃の記憶と言えば、いつもその場面だった。
母は身をよじって逃れようとした。腕を顔の前に上げ、怯えていた。いつものポーズだった。拒絶と恐怖を体現した格好だった。
そんな母の腕の隙間から、祖母の形見であるネックレスを父は見た。ぎょろりと、白目の濁った汚い瞳でそれを見た。母が大事にしており、父にどれほど殴られ、貶され、晒されても肌身離さないネックレスを見た。
黄ばんだ歯を剥き出しにしてネックレスを掴んだ。母はビクッ、と反応し、涙を流しながら父の手を掴んだ。母は必死に抵抗したが、父の無骨な手でネックレスは引きちぎれた。
若芽はそのネックレスがちぎれる瞬間を鮮明に覚えている。つい先ほど見た映画のワンシーンのように、二十歳になっても思い出すことができる。まだ小学生に入る前のあの出来事だが、あの時の母の抵抗、細く弱い綺麗なネックレスを、野生の熊のように無遠慮に引きちぎる、父とも呼びたくない生物。
あの後、父が死ぬまで母は暴力に耐え続けていたが、心労が祟って死んでしまった。若芽が初めて人を殺す一年前の事である。
小学生の時、大人になるのが怖かった。父にも母にもなりたくなかった。
年齢が上がるたび、女の子に対して引け目に似た線引きを感じるようになっていた。思春期だから、という言葉で紛れてしまう程些細なものだったが、遠くから、とても軽蔑していたような気さえする。
「お前誰好みなわけ? よくわかんねーな」
「さぁ? ……んー、ミユちゃんかな。かわいい」
「ふーん、お前、もっとケバケバしい女好きかと思った」
「ははっ、聞かれたら殺されるぞ」
化粧をしていて、スカートが翻る事もないほど短くて、馬鹿で髪の毛は染めているような、ギャルギャルした女が好きだった。自分を主張する大きな声の女が好みだった。耐え忍ぶ女は見たくなかった。
だが、あえて大人しい子を選ぶのは、それらを差し引いてもやめてほしいネックレスをしなさそうなタイプだったからだ。
若芽はネックレスをしている女性を見ると、嫌悪感や吐き気に襲われた。ふと歩いていると目に入るその光景は、まるで死体のような印象を受けた。気分がいいものではない。鎖骨を汚物で塗りたくっているように汚らしく見えた。
最初はネックレスだけだったが、次第にアクセサリー類もあまり好きではなくなった。
だが、自分がする分には問題はなかった。反動のように、ゴツゴツとした指輪や、ズボンにチェーンをつけるようになった。
見た目が派手になれば、派手な女の子が付いてくる。化粧をして自我が強く、頭が弱く、何でもいい、我儘な女がいた。
「はー、てか超だるい」
若芽を見るより、手元の鏡を見ている時間の方が長いくらいで、睫毛も瞬きで扇風機の役目を果たせるのではないかという程に盛りつけ、爪も毒が塗られているかのようにてらてらと光り、汚水のような言葉を吐きだす口には赤々とした口紅が塗られていた。年下の女だった。
若芽が大学生の頃、高校一年生の女の子と付き合っていた。
お互いに遊びで、だが、その距離感がとてもよかった。若芽にとって丁度いい適当さと距離感で、楽だった。
彼女も彼女で、見た目とは裏腹に人の深くに踏み込もうとはしてこない。
そして、ネックレスをするなという約束を守ってくれている。
「アンタさ、いいの? こんな感じで」
「何が? 幸せじゃん?」
「ふぅん、安い男ぉー、ってか馬鹿みたぁい」
時折、刺々しさを孕ませる彼女の言葉に、若芽はにっこり笑顔で幸せをアピールする。大して幸せでもない事を、幸せだという事は簡単だ。
噛みしめるほどの幸せも、食いしばる程の不幸もない。丁度いい幸せだ。
何か不満があるような顔だ。昔の男は、その距離感に耐え切れなかったのだろう。誰もが踏み込み、拒絶され、衝突していたのだろう。それが嫌で若芽と付き合っているのだろうが、逆に踏み込まれないと不満に思うのだろう。
――いや、不安なのか。
お互いに同じ距離をとっているだけなのに、不安を感じるなんてばかばかしい。お前と同じ距離を俺がとっているだけだ。
同じ部屋にいて、お互いに違う本を読んでいても平気なはずだ。だが、構わられなくなれば、とたんに寂しがり屋になる。
――面倒だな……
若芽が逡巡していたある日、彼女が若芽の部屋で上着を脱いだ。若芽は適当にテレビを見ていて気が付かなかったが、暫くして顔をあげて、やっと気が付いた。
「おい」
怒気を孕んだ声音だったが、彼女は眉を吊り上げ若芽を見た。その目を見て故意にしていると理解した。喧嘩をするつもりなのだ、この女。
「なんでしてんだよ、やめろよ」
「うっさいなぁ、いいでしょ別に。アタシの勝手」
「ネックレスだけはするなっていってるだろ」
「どーでもいいじゃんそんなの」
「別に、お前がどんなに化粧しようが、服も友達もなんでもいいけど、それだけはやめろっつったよな?」
「そんなに嫌なの? 何が嫌なの? 意味わかんない」
「嫌なんだよ、馬鹿みたいだろ」
「馬鹿だから関係ないもん」
同じ足場だったはずなのに、どんどん自分の足元が下がっていく。彼女が上へ上へと高くなり、彼女が見下して若芽が見上げているような錯覚に陥った。
自分が不利になっている。いつもと変わらない口喧嘩だが、冷や汗が流れ落ちる。このままでは負ける。自分の中にある何かに。
ネックレスを握って引っ張った。中々ちぎれない。あの日みたネックレスは、あんなに簡単にちぎれたのに。
「ちょっと、痛い!」
首の肉に食い込んでいくネックレス。傷みに顔を歪める彼女に、自分の手が、父の手と重なった。
ごつごつとして汚らしくて太くて、母を傷つけるあの手に。
「……!」
思わず怯んで手を離すと、彼女は眉を顰め、首に手を当てて立ち上がった。
「信じられない! 馬鹿じゃないの!」
「待てよ」
「死ね!」
――なんで逃げるんだよ。
彼女の手首を掴んで引き寄せた。ネックレスを外せばいいんだ。ネックレスが全ての原因で、これさえなくなれば彼女は逃げない。
彼女の首の後ろに手を回して、ネックレスが外れないか指で探した。
「ざっけんな! 離せ! 離せってば!」
だが、それ以上に彼女が暴れた。陸にあげられた魚が、牙を剥く。ただネックレスのせいだというのに、身体全てで拒絶を示す彼女に若芽はだんだんイラつき始めた。
「落ち着け! じっとしろ! これさえなけりゃ……」
「うっせー馬鹿! 別れる! 触んな!」
「黙れよ!」
つい、思わず、手が出た。力を込めていたから指を解く暇もなく、拳を彼女の頬にぶつけてしまった。
手に残る女の子の頬を殴った感触がじんわりと広がる中、魚は借りられた猫に変わり、呆然とした後、恐怖に表情が上塗りされていった。
その表情に、若芽は思わず子供のように謝った。
「……ご、ごめん……」
「……私こそ、ごめんなさい……」
こんな風に謝る女じゃなかった。天変地異が起きたかのように、人が変わったかのように謝った。いや、変わったのは自分だ。若芽の暴力に彼女が驚き、怯えているのだ。
「ネ、ネックレスがさ……」
「も、もう帰る……」
 青くなった顔で、彼女は静かに部屋を出ようとしていた。
「違う、それを外せば……」
「ちょっと今日は一人になった方がいいかも……」
急に大人しくなると、若芽の感情は更に燃え上がった。奥底に沈殿した泥が上へ爆発したように吹き上がっていく。
お互いに沈静化し、頭を冷やし、冷静に、客観的になる事が一番いいと、頭では分かっていた。
だが、先に冷静になった彼女に怒りを覚えた。まだ俺の感情は荒々しく動いているんだぞ。
馬鹿みたいに髪を染め、派手に化粧で塗りたくり、落ち着きからほど遠い服を着ているお前が、何故俺より上に立っていられるんだ。
――学校にも碌に行ってねぇくせに
『碌に金も稼げねぇくせに』
――俺よりも弱いくせに
『女のくせに逆らいやがって』
聞いたことのない父の声が、まるでどこかで聞いたような鮮明さで、若芽の耳元で響いた。


母の葬式で、母の友人が来た。手伝い、泣き、そして、母との思い出話をしてくれた。
暴力にさらされていたと気が付いていれば、助けてあげられたのにという思いもあっただろうが、思い出は美化され、この陰鬱な雰囲気を取り払おうと、笑って話してくれた。
息子の若芽に対して、涙は見せなかった。
「すごく活発な子だったのよ。悪く言えば、ギャルという感じかしらね。よく先生に怒られていたわ……」
「信じられないですね」
「でしょう? まあ、大人になったっていう事よ。昔は皆違うんだから。私はお化粧の仕方を教えてもらったりしたわ。髪の毛の整え方とか、他にも流行に敏感でね」
照れたように笑った友人は、自分の髪の毛を撫でた。喪服姿で分からないが、とても綺麗な人だ。

浅黒い手になっていた。ごつく、骨太で、そういう手袋をはめているのかと思えるほど、変貌した自分の手。
手の甲には緑色の血管が浮かび上がり、ぴくぴくと痙攣する。どこかから酒臭い息で呼吸する音が聞こえる。

「言いたい事を言う性格で、」

口の端から白い泡が流れ落ちていた。眼球は底上げされたようにせりあがり、つけまつげのせいで更に目が大きく見えた。まるで魚のように飛び出ていた。

「親ともよく喧嘩してた。自分の意思を押し通して」

もう反撃するような力が残っていないのか、ベッドの上でばたり、と、息絶えた魚のように手が落ちた。
その無抵抗にも、若芽は信頼を置いていない。そう見せかけて噛みつくのだろうと。

「親と意見が合わないって、よく家出してたわ」

違う。
若芽は吐きそうだった。意味が分からなかった。もしかしたら脳みそが零れ落ちてしまっているのかもしれないと思えるほどに、理解できない状態だった。
自分の身体を動かしているのは自分ではない。そして、視界に入る自分の手も全く違うものに見えた。
心の中で、若芽は母を探した。母、いつもキッチンで俯いて涙を流しながら皿を洗っていた母、嘆いていた母、それなのに、子供にはできるだけ笑顔を見せようとしていた気丈な母。
――違う。
若芽が夜という、形のないものに怯えると、母は優しく抱きしめた。夜は暗いだけで、何も怖い事なんてないよ。幽霊なんていない。お化けなんていない。一緒に寝てあげるねと、優しく宥めてくれた。
傍に立つ父の影におびえていた母。今のこのわけのわからない状況なら、父の幻覚を見ている今なら、もしかしたらいるかもしれない。探せばきっと傍にいて、若芽が泣きついてくるのを待ってくれているはずだ。
視界には、父の手が移っていた。粗暴で乱暴で乱雑で無遠慮で嫌悪感を覚える父の太い腕。
その手で、彼女の首を絞めていた。ネックレスが見えない様に、ネックレスと一緒に締め上げていた。
――耐えていたんじゃない、逃げられなかったんじゃない。
ぎりぎりと、彼女の首が締め上げる感触が、手のひらから脳に伝わる。温かい首、細い首だった。
心の中で母に泣きつきながら若芽は理解した。母は逃げられなかったのも、耐えていたのも、決して、決して意思によるものではなかった。恐怖からだったのだ。恐怖が母を動けなくしたのだ。活発だった母を締め上げていたのだ。
逃げれば何をされるか分からないと、客観視できなかったのだ。
あの小さな家の中で、母は状況が見えなかった。傷みのせいで、父のせいで。
殴った彼女が小さく怯えていたのを見て、恐怖した。衝撃が走った。
長年の謎がやっと解けた瞬間だった。
――こんな事で大人しくなるのか、もしかすると、俺は間違っていたのかもしれない。
――殴っていう事を聞かせた方がよかったのかもしれない。
若芽の中に、父と母がいた。父は暴力を振った後、若芽に暴力こそ正義だと言い聞かせ、母は泣き叫ぶ若芽を慰め、やめるように働きかけた。
だが止まらなかった。心は安らいでも、頭は真っ白になったままだった。
父の暴力性が、力を緩めなかった。止める術を知らなかった。緩めた後どうするのか。またあの生意気な女に戻るかもしれない。寂しがり屋でどうしようもなく、面倒で馬鹿な女に戻るかもしれない。暴力を振われたと警察に逃げるかもしれない。逃げられない様にするしかない。それは支配だ。支配する手段として一番手っ取り早いのは暴力だ。恐怖で操れるようになる。吐いた息は酒の香りがする。
学校で勉強したかのように、歩き方を知っているように、父に教えられたかのように、若芽は止める術として、首を絞め続けた。
真っ白になった脳内で残っていたのは、父の拳だけだった。



スニーカーの踵を踏みつけたまま若芽は部屋から逃げ出した。
夜の臭いが肺に入ってくる。恐怖していた夜という存在を思い出し、体温が冷えた。もう慰めてくれる母はいない。帰れる部屋はない。面倒くさい彼女もいない。
暗闇の中走り続けた。だが、背後にずっと聳え立っている。
振り返れば暗闇で、走り去ってきた道がある。
だが、そこにはあのリビングとキッチンがあるのだ。夕暮れのネックレスが切れるあの瞬間に繋がる、家へ入れる玄関が、若芽の背後にある気がした。
暗闇に紛れて確かに、あの恐ろしい場所に繋がる扉が口を開いて待っている。
そこには母がまだ耐え忍んでいて、父に怯えてキッチンに立っているのだ。
もうすぐ夜になる、あの血のように赤々とした黄昏の光景が、十何年も前のあの景色が逃げる若芽の背を追いかけて来る。
警察の手に捕まる前に、木村の手に縋り付いて地下へ逃げ込んだ。
「なんで俺なの? 意味わかんねー……」
木村に思わず呟くと、木村は振り返り言った。
「嫌なら捕まるか? どちらにしろ、お前に大した自由はないだろう」
「刑務所なんて永遠に入りたくないね」
「ならしっかり雑用係として働け。外を歩こうが自由だ、首輪はつけない。そして、逃げても追いかけはしない」
頼るところはそこしかなく、隠れる場所もそこしかないのなら、若芽はそこにいるしかなかった。
自由だと言っているが、実際は自由ではない。若芽が逃げればそのまま放置するだろう。後悔も心配もなく、跡形もなく若芽の事など忘れるのだろう。
その寛容さが、若芽の首に見えない棘のついた首輪をつけている。
首輪を外して飛び出せば、社会が若芽を絡めとる。
認めたくない若芽は、心の底から自由を謳歌しているように、へらへらと笑った。








20150501



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