第四十九話





「俺さ、昔からパーツが大好きなんだよ。千ピースのパズルとか興奮したね、これを組み立てれば一つになるんだってさ」
頬杖をついて本を読み始めた霙に赤丹は自分の身体の様子を見ながら話した。
「物心つく頃からそんな記憶しかなくて、親に聞いたらそれ以前からパーツが大好きだったみたいで、積木もずっと遊んでいるけど、決して組み立てたりはしなかった。父親が組み立てると大泣きして、崩すと泣き止む。変な子だって言われたよ。積木からパズルからロボットのおもちゃ、それから女の子用の人形、ここで親は変な方向に勘違いした。俺が女の子なんじゃないかってさ、でも、俺は服とか髪の毛とか顔とかどうでもよくって、その肩関節とか、首は外れるかどうかが問題でそれ以外は不細工だろうと化け物だろうとどうでもよかったんだよ。組み立てては壊してを繰り返し始めたのはその頃だ。俺はパースから、それを形成している物体に興味が移ってった。車も部品が集まって出来ていると知った時は興奮した。小さいパーツが組み合わさる……パーツの集合体だ。好きなものが集まっているのを見るのって凄い幸せだろう? 子犬が好きならさ、一匹でもかわいいけど、十匹いるとかわいくて死にたくなるだろ? あんな感じだな。でも。見てて興奮するのはやっぱり一つの物なんだよ。凄い不完全な物質、完成されていないあの感じ、一つの頼りなさ、そのくせ大きな数になるとまともになるあの感じ、最高に人間って感じがする。人間ってそうだよね? 人間単位でも細胞単位でもそうだろ? あぁ、そういうの……本当たまらない。俺も石竹さんも未完全の集合体。興奮するなぁ、するだろ? しない? 変だな、石竹さんなら分かると思ったのに、変態だし。……あぁ、睨まない睨まない。俺を睨むならずっと本睨んでていいよ。そう、あれは小学生三年生の頃だね、朝通学していたんだ。いつも通りの道をね、横断歩道のある道。そこでトラックとバイクの衝突事故があったんだ。朝だからまばらに人がいたよ、サラリーマンにOLに自転車に乗った高校生。悲惨な事故だった。トラックは電柱にぶつかって、バイクはべこべこにへこんで、運転手は投げ出されていて、皮一枚でやっと繋がっている状態で腕がちぎれていた。血の海だった。いや、血以外に何か他の液体もあったのかもしれない。まだ生きていたんだ。サラリーマンの人が携帯で救急車を呼んで、他の人たちはただただ呆然と見ていたね。俺もその中の一人、でも違うんだよ、ああ、あの時本当に驚いた。パーツだったんだよ! 人間もパーツに出来たんだ! 肩から腕は外れるんだ! その男に近づいた。でもさ、皮一枚のせいでまだパーツじゃなかった、完全じゃなかった。俺は腕を持ち上げて引きちぎった。悲鳴が上がったけど気にしてなかった。いやもう、本当に感動だった。すげー重いんだよ、腕って。ずっしりとあれだけ流れた血以上の質量があった。こんなに大きくて重いのにパーツなんだぜ! だらりと手首には力が入ってなくて、少し揺らすと揺れるんだ! 見てないから分からないけど、俺、絶対あの時目を輝かせてたと思う。もう、今思い出しても衝撃が走るよ。あの時に見つけてよかった……人間はパーツ化できるという概念を知ったんだからね。その後、サラリーマンの男に止められて腕を奪われそうになって、思わずそれを持って逃げ出したんだ。俺のものだと思ったからね。ぬいぐるみみたいに縫い合わせなきゃ、この腕は治らない。なら俺が貰う! ってさ、めちゃくちゃ怒られたね。学校には遅刻で、親には服を汚したなってさ。もしかしたら腕の事でも怒ってたかもしれないけど、多分聞いてなかった。その後、俺はどうすればパーツ化した人間の身体を手に入れる事が出来るか悩んだ。できる事ならコレクションして眺めたかった。大人になれば酒を飲みながらそれを眺めることができれば、どれだけ幸せだろうってね。とりあえず色々勉強して、お金を稼ごうと思った。まずは場所が必要だろう? コレクションするにはとりあえず倉庫とか……とにかく家じゃ無理だった。親も兄も弟もいるから、そういうの、無理な家族だから。そんな時会ったんだよねぇ。奇跡としか言いようがない。俺の細胞からクローンを作ってパーツを作るっていう事は高校時代に思いついてとても幸せな青春を過ごしたよ。そのために勉強したからね! そこでこの大学に入った……いや、本当に奇跡だった。僥倖だった、幸せが俺を猫可愛がりしているとしか思えないよね。石竹さんの噂を聞いたんだ、幽霊が見えるとかなんとか、覚えてる? 覚えてるよねぇ。ついこの間の運命だ。今みたいに仏頂面で本を読んでた君に話しかけた。『石竹さんって霊が見えるって本当? いるの、霊って』って聞いたよね。すげー睨んで教室から出て行っちゃって、その後のもその後もその後も……数えるのが面倒なくらい話しかけた後『……いるわよ』って言ってくれてさぁ、俺に概念を教えてくれた二人目だよ、あのバイク運転手、今どうしてるんだろう。死んだかな。だとするとお悔やみ申し上げるけど。そう、霊がいる。魂がある。俺の身体をパーツ化して組み立てても、俺の身体は動かない。どうやって動かすか……石竹さん、今ストックどれくらい? ……数えきれないほど? 俺達数えるの面倒くさがるね! はははは! いいね! 強い魂がいいよ! いれるならさ! 俺は喧嘩も体育もてんで駄目だから、出来れば運動のできる魂がいいんだ。あのヤグザの実験でやっとわかった。人間は魂なんだ、魂が思い込めば身体が変化する。自分はしゃべれると、声はこんなキャンキャンしたものじゃないと、本能みたいに思い込んでいれば身体が変化する。犬が決して発さない、あのおっさん声を発することが出来た。つまり、意思の問題なんだ。自分は強いと言う意識のある魂だったら、俺の身体でも飛び箱は飛べるし電柱も殴り倒せることができるはずだ。人を食べた事のあるカーニバルの魂を入れれば、俺の身体も人食いになるはず」
「カーニバルになりたいの?」
霙は本から視線を上げずに呟いた。赤丹はその言葉に少し考え込んだ。
「……どうだろうね、人を食う俺の姿も見てみたいけど、そこまでそそられないなぁ。やっぱ、食べるより殺す方がいいよね。かっこいい方が見てみたいかな」
「そう……所で、その身体まだ定着しないの?」
「うん、もう出来てる。今血液を入れている所だよ。今の所漏れてないから、大丈夫そうだ。だから、俺は強い魂がいいんだ。石竹さん、君の中がどんな風になっていて、感覚も状況も何も分からないけどさ、とりあえず信じてる」
本を閉じて立ち上がった霙は、赤丹の真っ直ぐな目を見て、信じるとは何かと考える。
――私は決して、信じてない
誰も何もどれも信じていない。が、疑っているわけでもない。起こったことが真実だと思っている。
この桔流赤丹は、何かが起きる前から、自分のクローンの身体に魂を入れる前から、成功する結果を見て、すでに霙に賞賛の念を送っている。
――ものすごく勝手な事ね
これで失敗したら、この男はどうするのだろう。手のひらを反すか、それとも調子が悪かっただけだと慰めるのか。とにかく、成功以外に目を向けていない。霙は一縷の望みをかけている。手繰り寄せる糸は細く、今にも切れそうだが、手繰り寄せなければ意味がない状況にある。
赤丹のクローンは今、中身は空っぽである。臓器も血液も脳も全て揃っているが、肝心要が入っていない。魂である。
石竹霙は霊感体質である。霊と対話し、触れることができ、そして取り込むことができる。
それは食べる事と同じだった。丸呑みにされた魂は、霙の中の胃酸で溶けていく。
だからこそ、今から吐き出す魂が、吐瀉物ではなく、固形物でなければならなかった。霙はコーティングしていた。外にずっと離し、連れてきてもよかったのだが、気を抜けば成仏してしまいそうだったので取り込んでいた。
霙は赤丹のクローンの胸の上に手のひらをかざした。
そしてゆっくり、自分の体内へ意識を向けた。
ぐるぐると、エネルギーが渦巻いている。
人一人にありえないエネルギー。ガソリンは満タンに入っている。溶けてすでに誰の意識だったのか分からないエネルギーの中にある、異物を探し出す。意識ある魂である。
霙の中ではエネルギーに昇華された魂がほとんどだが、一つだけ、何年経っても昇華されない魂がある。
その男の魂を引き出そうとしたのだが、彼は拒否した。なので、他の魂を使う事にした。
手のひらから抜け出ていく魂が、そのすぐ傍にある新たな宿主に入り込んだ。
マネキンのように白く固まり、動かなかった身体に赤みが差してきた。ぴくっ、と指先が動き、血液が流れ、心臓が動き出す。
ゆっくりと、おそるおそる瞼を押し上げる赤丹の姿を見下ろした赤丹は、我が子の出産に立ち会った父親のように感動で目を輝かせていた。
「あぁ……!」
クローンの赤丹の手を握りしめた。まだ目覚めたばかりで、脳も正常に動いていないのだろう、ぼんやりとしていた。だが、徐々に目に生気が宿り、自我が赤丹の身体をギシギシと蠢めいた。
「初めまして」
「……俺は……」
「早速だけど、貴方は生前何をしていた? 強い?」
キラキラと生き返った人間の目を覗き込み、好奇心だけで動く赤丹に、彼は衰弱したように弱々しく、だが、生き生きとして答えた。
「……ボクシングを、していたが……?」
「! 最高! 石竹さん最高! いいチョイスだ! 素晴らしいね、本当にいいプレゼントだよ! あぁ、いい! 貴方のような人が死んでくれてよかった!」
霙とクローンに、笑顔と幸福を振りまく赤丹は幸せそうだった。興奮を隠そうとしない、喜びを体で表す赤丹は、クローンに入った男に笑顔で顔を覗かせ言った。
「できれば一発何か殴ってみてくれない!?」
クローンは無言で、目の前にある障害物の赤丹の顔目がけて拳を振り上げた。
ヒュッ、と、すぐ近くで風を切る音を聞いた赤丹は更に興奮したようにガッツポーズをとった。
「すげー! これはいい! これはいいぞー! 石竹さん、ストックは!?」
「適当にあるわ。お気に召さないならどこからか連れてきてあげる」
冷めた様子の霙にお構いなく、赤丹は笑顔で霙の手を取ってくるくると踊りだした。腰にてを回して引き寄せられ、霙は少し驚いた顔をした。
「今、俺の夢が実現した! こんなにうれしい事はないよ! ありがとう、ありがとう!」
「そ、それはよかった……」
「是非焼肉を奢らせてほしい! あ、肉好き? もし人の肉が食べたいっていうなら木村さんに尽力して手配させるくらい感謝してるんだけども!!」
「食べたくないわ」
「そっか! なら寿司だね! 寿司にしようか! 俺が握ろうか! それくらい感謝してるんだけども!!」
「食べたくないわ……」
「何も食べたくないんだね! ハハハッ!」
ぐいぐいと顔まで近づき、鼻息やら唾まで飛んできそうな勢いに霙はどんどん身体を反らせる。だが、赤丹はぐいぐいと身体を近づけて来る。
体温は高く、頬が紅潮している。呼吸は荒く、瞳孔はどんどん開いていく。この男の喜びが身体全体で感じる事に、霙は表情を引き攣らせ踏ん張っていた。
「パーツが人間になった! 俺が、俺じゃないのに俺だ! うっはははは! 最高だなぁ、今俺頂点って感じがするよ! ねぇ、石竹さんはいいの? こういうの興味ない? してみない?」
「わ、私はいいから。それよりエリカを……」
「あ、そうだ! そうだった、しなくちゃね! あ、よかったら適当に歩き回ってて! 外には出ない方がいいかなぁ。裸だし。リハビリは必要だよ! 何かあったら俺に言ってくれれば治せるから! 安心して! じゃっ!」
霙と赤丹は別部屋に行き、残されたクローンはゆっくりと身体を起こし、自分の手を見つめた。生前とは違う手。だが、確かに存在している手を握りしめた。
まるで長い真夜中を夢うつつに過ごした後のような、希薄な感覚だった。
自分が魂であり、元人間であり、ボクシングをしていたことも、遠い遠い昔の事のように思える。
台の上から下りた。足の裏に広がる地面の固さ、冷たさを、噛みしめるように立ち上がった。
ふらふらと重心が揺れる。顔を上げれば世界があった。
「……懐かしい……」
久しぶりに生きる事を思い出した彼は、地下で目を輝かせ、笑った。



薬品臭い香りは、どれだけ窓を開けても消え失せることはない。
固いベッドに白いシーツ。老人の集団、死の足音。病院の陰鬱な雰囲気を毎日感じていると、身体もベッドのスプリングのようにギシギシと鳴る。
「それにしては、元気そうな人が多いんだよねー」
自分みたいに、骨がくっついているのにギプスをしていたり、完全に健康体だろうと思われる人も、ずっと根を張ったようにベッドに寝転がり、ずっとすやすや眠っている。
保険が降りる云々でいる人は、少し目つきが悪いのでわかるが、真赭のように不本意に居させられている人間の目には、欲求不満が積もっていた。外への希望がギラギラと輝いていた。
特に筋骨隆々な人間は、スポーツや喧嘩で汗を流すような人間は大変だろう。
そう思っている中、真赭の病室に入ってきたのはパンさんだった。
浅黒く、骨骨しい手でドアをノックした。
「真赭ー、読んだかアル? 面白かったアル?」
「うん、読んだよ。ありがとー、というか、やっぱりアルの使い方おかしいよ、パンさん」
枕元に置いていた漫画二冊をパンさんに返す。同じ入院着を着ていても、がっしりとした体格は隠せない。
スポーツマンのようにしなやかで細くない筋肉は、プロレスやレスリング、もしくは喧嘩にとても最適な太さだ。
パンさんは日本の漫画が大好きで、特にらんまのシャンプーちゃんにお熱らしい。日本語の勉強の為に日本に来たのだが、急に体調が悪くなってこの透輝大学病院に入院する羽目になったらしい。
不運だと同情したが、ずっと日本にいることが出来てうれしいと、売店で毎週漫画雑誌を読んで随分とエンジョイしている。
「真赭、珍しいなアル。ベッドでじっとしてるなんて、ナース島谷に何か言われたアルね?」
「そうそう、ちょっと院内散歩してただけなのに、意地悪なんだから」
「日ごろの行いのせいアルな」
「本当に脱走している時ならば致し方ないけど、今回は免罪だよ! ねぇ、パンさん、ナース島谷に直訴してきてよ! アタシは無罪だ!」
「今までの悪行で簡単に帳消しだろアル。あんまり人と波風立たせたくないんだよアル」
「うーん、せめて歩きたいなぁ……」
「それも変な所に行ったんだろアル」
「まあ、探検してナンボだしね。というか、いすぎて大抵の所は見たよ。次は病院の闇を探さないとね! ドラマとかであるでしょ。ナースとか医者のドロドロした所とか……って、見たくないわ!」
「突然の一人ノリツッコミに、私はついていけなアル……」
変化のない時間が過ぎていく。人生を無駄に削り取られていく感覚に、真赭はベッドの上から飛び降りた。
「好きな事が出来ないなんて、ありえないし。学校に行きたいなんて、生まれて思う事なんて一度もなかったのに、今思ってる。ここよりマシだし」
「真赭がいなくなると、寂しくなるアルね」
「ま、パンさんに漫画貸してもらいには来るかもしれないけど。というか、手下に示しがつかないんだよね。喧嘩して守ってるけど、どうしてもね」
右腕のギプスを取り外したい気分に、一日何回なるだろう。数える事もやめてしまったけれど、真赭はベッドに腰掛け、パンさんに近くの椅子に座るように促した。立っていても平気なのだろうが、落ち着いてもらいたかった。
「手下ね……まあ、チームにはリーダーが必要だからな、アル」
「統治するのは大切だよ。判断力が必要だし。まあ、アタシは頭空っぽにして戦ってるだけだから、頭脳は別にあるんだけどね」
開いたドアにちらりと、白い服が見えた。真赭はビクッと反応し、ベッドに逃げるように横たわると、その白い服はナース服だったが、ナース島谷とは違うナースだった。
ほっと胸を撫で下ろすと、パンさんは浅黒い手を口元に持っていき、こっそりと怯んだ真赭に言った。
「またナース島谷に何かしたのかアル?」
「アタシは何もしてないんだけど……」
「あんまり我儘ばっかり言ってると、秘密の部屋に放り込まれちゃうかもしれないアルよ」
「何それ、ハリーポッター?」
「違う違う。この病院にある、謎の部屋の事アル。ほら、最近話題になってる、夜に聞こえる地獄の声」
「……えっ」
「……もしかして知らないのかアル?」
「何それ、え、嫌だ、怖っ! ちょっと、無理……かも……」
がばり、と布団をかけて腕を摩る真赭に、パンさんは更に声を潜めて続けた。
「この建物の下から、何か唸り声のような、悲鳴のような、とにかく変な声が聞こえてくる事があるアル。なんでも、ここは昔墓地だったらしく、土地が安くついてこの広い病院が建てられたとか、ネ。その怨霊達が、地面の下から私達に抗議しているんじゃないか、とか」
「ひぃぃ」
真赭はぶるぶると震えた。最近になってやっと、夜中一人でトイレに行けるまでになったのに、また怯えて誰かを叩き起こしてトイレについてきてもらう日々が続くのか。
「パ、パンさん、夜中トイレいけないとかない? アタシついていってあげようか?」
「女の子についてきてもらう程、困ってないよアル」
「逆に女子トイレに興味ない?」
「あるって言ったら問題アル。怖いのか真赭」
「え、いや……」
「喧嘩番長の癖にビビりカ?」
「だからだよ! 殴れない物ほど怖いものはないんだから!」
「その発想こそ恐怖だな、アル」
夜中、黒人の大男と共にトイレに向かう姿を見られたら、また新たなる病院の噂の元となるだろうが、真赭はそんな事はどうでもよかった。
「ん? 秘密の部屋? …………ハッ! ……ま、まさか……」
忽然と煙も立てずに消えた透の事を思い出す。
あの男が自分の目を盗んで機敏な動きができるとは思えない。
病院の奥底にある見えない手に引きずられて、どこか、別世界に引きずり込まれたのでは……
「アッ! 大変だ!」
「一人で楽しそうだなアル」
口に手をあてて大変な事を思い出した。透が消えようとまったく問題ではないし心配していない真赭だが、尊敬する光は問題視するだろう。
真赭が入院する病院で透が消え失せたなんて、真赭がいて何故透が助けられないのか、たかが腕の骨折で入院しているのに、そんな事も出来ないのかと呆れられる。
『あんな奴も助けられないの? 駄目ね、もう破門よ、破門』
脳裏で見下した光が、虫を追い払うような仕草をして背を向けて遠くへ歩き出していく。
頭を抱えてしゃがみ込んだ真赭は、破門される立場ですらない事をすっかり忘れ、パンさんに縋り付く様に頼み込んだ。
「パパパパンさん! 頼みごとがあるんだけども!」
「今度は私もアル? ちょっとそのテンションはできないアル……!」
「違くて! ちょっと、今から行きたい所があってぇー、そこについてきてほしい、みたいなぁー?」
「突然のギャル化にドン引きアル」
「真赭ぉー、ナースの目を掻い潜ってぇ、夜行ってもいいんだけどぉ、夜は、チョーこうぁいし? みたいなァー? だから、明るい昼間に行きたいなぁー? みたいなァー?」
「よくわからないが、一人で行けばいいアル」
「いや、でも、それでも怖いっていうか……ほら、パンさんも運動しなくちゃいけないんでしょ!? 丁度いいね! 散歩に行こうか!」
 ベッドから飛び降り、パンさんの袖をぐいぐいと引っ張って歩き出す。ぐでん、と、骨が無くなったように、やる気もないパンさんは表情で拒絶する。
「いかないアル。これから漫画読み返すつもり、」
「好きなだけ漫画の事語っていいからさ!」
「で、どこまで行くって? ブラジルあたりまでだったかアル?」
一瞬にして背筋を伸ばし、真赭の前を歩き出す。真顔だが、目はキラキラと輝きを放っている。
二人分の足音は、昼間の喧騒にかき消されていた。夜ならば響き渡り、眠る夜に歩き回る不届き者を白い悪魔に知られてしまうだろう。
ナース島谷の鬼のような目が無くとも、お天道様が見張っていると思っているのか、ナースたちは見て見ぬふりをしていた。真赭が本気で逃げれば、追いつく事も出来ないし、目をつけられたくないのだろう。
そして前を歩くパンさんの存在もあるだろう。
日本語が流暢で、漫画が好きで、筋トレをする黒人男は、ナースたちと意外と仲が良かった。初対面は身構える相手が、日本人のような腰の低さと、不思議な語尾は緊張を解かせ笑いを誘った。
そんな船頭のおかげで病室から優雅に抜け出せることができた。人徳のおかげだろうか。
「――まあ、何度も衝突しても、最終的にはシャンプーちゃん第一だが、皆それぞれかわいいし大好き、という結論に至るアル」
「成程成程、さすが博識だねパンさん」
「やっぱり嫌いになるより好きになる方が建設的だからなアル」
「成程成程、さすが力持ちだねパンさん」
「いや、そういう建設じゃなくて」
心ここにあらずと言った様子で、真赭は歩き続けた。透が消えたあの場所にたどり着いた時、周りに人は誰もいなかった。
「そう、それで萌えというものを知ったアル。漫画とは面白いものだなアル。人生の幸せがなんたるかを……」
コンコン、と、しゃがみ込み壁をノックした。ぐいぐいと押してみたりする間、パンさんは遠くを見つめて悦に入っていた。語る事が楽しく手仕方がない様子だった。
窓の向こうの遠い空に、気に入った漫画のキャラクターがいるかのように、じっと見つめ続けた後、小さく笑った。
「だから、今もこうして頑張って潜入を……じゃないアルな、入院頑張ってるんだアル。……って、あれ? 真赭?」
くるり、と振り返ると、そこには真赭の姿はなく、ただ話しかけても何も返ってこない沈黙だけがあった。



「……ッタァああああい……! やべっ、頭へこんだんじゃない? ペットボトルみたいにベコッって! パンさん! パンさぁん見てよ痛いー……あれ? パンさん?」
真赭は一人、頭を抱えて痛みをアピールするサッカー選手のように大仰に喚いたのだが、奇しくも二人とも同じタイミングで相方がいない事に気が付き、冷静になった。
真赭は立ち上がり、パンッ、パンッと身体についた埃をはらった後、無言で歩き出した。
「まったく、パンさんってば急にいなくならなくてもいいじゃんか。……んー、それにしても白いなぁ、パンさんどこにいったんだろ。目立つはずなのに、全然見えないや」
頭に大きなたんこぶを作った真赭は、自分が転げ落ちた事を忘れているかのように、堂々と歩いていた。廊下、壁、天井、すべてが白い。自分にある白さといえばギプスだけだ。何を補強するのか定かではないこのギプス。
「……ここどこ?」
ズキズキと頭を押さえながら歩いていると、前方から人影が見えた。
そうだ、あの人に教えてもらおうと顔をあげ、よく見る。真赭は表情を引き攣らせた。
そこには全裸の男がキョロキョロと真赭と同じように、物珍しそうに見て歩いていた。
「――――」
声にならず、真赭は顔を真っ赤にし、一歩後ろに下がった。
その男は、真赭を発見すると、まるでスーツを着ているかのように堂々と、片手をあげて何も臆することなく近づいてきた。
「あの人の知り合いか? よかった、服を貰いたいんだ……」
「―――ヒッ……」
「ああ、悪い、だってしょうがないだろ、服が無いんだ。タオルで隠してるだけで勘弁してくれ」
「こ、ここここっ、こないで!」
ブンブン、と手を振って後ろへ後ずさる。タコのようにゆであがった真赭は泣きそうだった。何故こんな所で男の裸を見なければならないのか。そしてここは何処なのか。
パンさんはどこにいるのだろう。変質者だ、警察だ。散々厄介になり、毛嫌いしていた警察を今求めていた。
「他を当たってください!」
「いや、でも他に人がいなくて……」
 頼りなく腰に巻いたタオルが落ちない様に、手を添えながら更に近づいてくる男に、真赭は視線を反らし、精一杯叫んだ。
「っていうかなんで全裸!? 風呂上りか! 着替えを忘れたおっちょこちょいか! ドジっ子か! とにかくこないで! 私の目に入らないで! 恥ずかしい!」
「いや、でも他に人がいなくて……」
「いいからつべこべ言わずに失せろ変質者!!」
男が救いを求めるように伸ばしていた手を思い切り横へはじいた。
バシンッ、と、肌と肌がぶつかる音の後に、ブチン、と、何かが切れる音がした。
真赭は不審に思って、恐る恐る男を見た。上半身を見た。そこには、こちらへ差し出していた手が、腕が無くなっていた。
「……え?」
腕は男の後ろへ回転しながら飛んでいき、ベシャッ、と情けない着地音の後、血がだらだらと流れ落ちていた。
魚を陸に放り投げたような着地音。だが、生命の音はしない。バタバタと動くことはなく、それこそ、ペットボトルから液体が流れ落ちるように緩慢に、赤い血がしたたり落ちていた。
それは、男の肩口からも同様だった。ぼたぼたと血が落ちている。足元は血溜まりができ、真赭の赤いスニーカーに血が染みこんでくる。
「? どうした?」
男は気が付いていないようで、血を垂れ流しながら不思議そうな顔をして真赭を見る。
真っ赤だった頬が、一気に冷たく青ざめていく。
――夜に聞こえる唸り声
――地下の秘密の部屋
「ま、まさか……本当に……」
腕を取られても平然としている裸の変質者。よく見ると、肌に継ぎ目のようなものも見えた。肌は健康そうな色だが、もしかすると腐っているのかもしれない。もしかすると、これから腐り始めるのかもしれない。
病院によくある、セットとして扱われるもの。映画でもよくある。夢にも出て来る。ゲームセンターでも出会うことがある。
だが、今まで実物など見たことはなかった。
「ギャアアアアア! ゾ、ゾンビだァァァ!!」















20150413



Back/Top/Next