第四十八話





孔雀嘉男の家庭は所謂中流階級で、貧しくはなかったし、一生遊んで暮らせるお金があるわけではなかった。だが、一般の家庭よりかはすぐれていた。そんな中途半端な高い場所にいると、誰もが胸を張り、顎を突き上げ見下すようになった。
父は銀行員で給料は良かったが、満足していなかった。自分にはもっと稼げる才能があると、見合わぬプライドがあった。そんな夫にキャリアウーマンの母も感化され、自分ももっと上の生活を目指せると思い、家よりも仕事を優先する母になった。
巨大なプライドの両親の下には、二人の息子が生まれた。嘉男は次男であった。
「見てお母さん! 百点!」
「そう、よくできたわね」
自信満々にテスト用紙を見せても、母は一瞥しただけで、声にも抑揚もなく嘉男を褒めた。
それで満足していた嘉男だが、すぐに兄が帰宅し、同じようにテストを見せに行った。
「見て! 百点取ったぜ!」
「そう! よくできたわねー!」
ニコッ、と微笑み、兄の目を見てしっかりと褒める母を見て、嘉男はソファーに座って気落ちした。
兄は眉目秀麗で成績もよく、一流の企業に就職し、着実に出世していくであろうという事は、小学生の頃から分かっていた。というよりも決まっていた。親のいう事は絶対で、それを子供は叶えるべきだと思っていた。
「お兄ちゃんはいい学校に行って、いい会社に就職する事が出来るわ。きっとそうよ、お母さんわかるもの」
テストに丸をたくさん付けて帰る兄は重宝され、かわいがられた。
成績の良さで言えば嘉男も同じくらいだったのだが、一つ×がつく事がしばしばあった。そこで一段の差が出来ていた。その一段は、子供にとって首を痛めるほど分厚く高い壁のようなものだった。
その壁を壊すため、嘉男は必死に勉強した。運動は苦手で、いくら努力しようと兄に追いつけないと諦めをつけ、勉強だけに絞って狙った。兄と並んで百点を取った。何度も何度も満点を突きつけても、親から満点を貰えることはなかった。
瞼の黒子でイジメられても、決して親に相談しなかった。兄は虐められていない、虐められるという事は劣っているという事だと思った。これ以上、引き離されたくなかった。
兄は嘉男に優しかった。家族のヒエラルキーを知っていながらも、いや、知っていたからこそ優しかった。
母に撫でられたい寂しい頭を撫でるのは兄で、父に誇らしく叩かれたい冷えた肩に手を置いて、勇気をくれたのも兄だった。
だが、それでは埋められないものがあった。たとえ兄に褒められても、一番褒められたいのは親だった。その感情を理解していた兄は、歯がゆそうにしていた。それでも埋める事の出来ない穴はそのままだった。
嫉妬する兄に褒められても、やはり苦しみから抜け出せることはできないのだ。
ある日、中学三年生の受験前に嘉男は熱を出した。高熱で頭もガンガンと痛み、喉も痛く声も出すのが苦痛だった。倦怠感、眠りに落ちようとしても、痛みがそれを防いでくる。
潤んだ目から涙が溢れた。心細く、頼りなく、悲しかった。
血反吐を吐くほど勉強をした結果、疲れがこんな拷問のように噴き出ていく。
兄は友人たちと旅行にでかけ留守で、父も出張でいなかった。母は家にいる予定だったが、階下から電話する声が聞こえたかと思うと、あわただしく何かの準備を始めていた。
胸が鉛になったようだった。嫌な予感、開けるのも面倒な瞼を開いて、暗い天上を眺めた。そして願った。ドキドキと、嫌な心臓の音は、階段をスリッパで上がってくる足音で助長された。
スーツのスカートのせいで狭まる歩幅、ストッキングのせいでスリッパがずれるその微妙な足音の変化に、嘉男は絶望した。
「ごめんね、これから行かなくちゃいけなくなったの」
母の申し訳なさそうな言葉は嘉男の喉を締め上げた。
――こんなに苦しいのに、どうして分からない!?
――いつも苦しい、でも見せないようにしていた、でも、今は違うだろ!? どこからどう見ても俺は苦しい! こんなに苦しんでいるんだぞ!
沢山の怨嗟の言葉が浮かび上がった。殺意すら浮かんだ。地盤にある親への愛情が崩れ去りそうだった。
だが、それも母の手が嘉男の額に置かれ、頭に滑って全てが帳消しになった。
優しく頭を撫でる。慈愛の目、声、どんなに苦しんでいても関係なかった。親の手が嘉男の為に動いている。
「一人でも大丈夫?」
涙が溢れそうだった。傷みを感じながら嘉男は答えた。
「……大丈夫」
母は嬉しそうに目じりを下げて微笑んだ。薄暗い部屋だったが、廊下の光からその表情が見えた。その顔を覚えたまま、嘉男は暗く、自分しかいない家で静かに眠った。


数日後、兄が戻ってきた。大量の荷物と土産の後に、旅の疲れか少し熱を出して寝込んだ。
土曜日だった。珍しく父も家におり、母は仕事を有給を使って休んだ。
兄の部屋には母がひっきりなしに出入りした。ポカリ、濡れたタオル、ゼリー、おかゆ、氷嚢。
兄は大したことじゃないと言って遠ざけようとしたが、母は何度も部屋に行った。熱もない額に触り、痛くもない頭を撫でている姿を、少し開いたドアから見えた。
嘉男は部屋に戻って、頭を掻きむしった。頭皮を捲り返すほど強く掻き、誰にも気づかれない様に喉を絞り、声を我慢し叫んだ。顔面も掻き毟り、壁に頭を打ち付けたかったが、煩いと言われるので自分の拳で自分を殴った。
「ハーッ、ハーッ、ハーッ」
胸が張り裂けそうだった。あの日の頭痛以上に頭は痛かった。
どう足掻いても、どれだけ我慢しても、どれだけ努力しても、どれだけ求めても、願いを聞き入れてはくれないのだ。
親は嘉男がいい成績をとっても褒めてくれない。兄がいるからだ。顔も、頭も、要領もいい兄がいるからだ。ベクトルは全て兄に傾く。
兄はこのまま親の望む学校に行き、親の望むレベルの会社に就職し、親の望む給料の額を貰うのだろう。どこに出しても恥ずかしくなく、どこで話していても恥ずかしくない。
自分の時間を削ってでも何も惜しくないのだろう。
その後、兄は大学へ行き、就職した。予想通り、親は大満足のようだった。
その後、嘉男は就職し、一流企業に就職した。周りから褒められ、悪い気はしなかった。酒がうまく、自分より劣った人間を見て笑った。だが、親からは決して褒められなかった。
「なあ、どうして俺を褒めてくれないんだ?」
一度、そう聞いたことがある。父は仕事で、母は休みで、夜に外食に出かけた。初めての給料だった。
「いつも褒めているでしょう?」
「そうじゃなくて」
兄のように、と、言えなかった。プライドでも羞恥心でもなかった。邪魔をするのは、それを言った時、嘉男の感情を丸裸にするその一言を言った後、母がなんてことない顔をして全てを否定した時の、傷の痛みを恐れたのだ。
拳を強く握りしめて沈黙した嘉男を前に、母はスープを一口飲み、頬に手をあてて「おいしいわ」と呟いた。レストランのスープはそんな風に、優しい眼差しで褒めるが、目の前の子供は褒めないのだ。
どれほど血反吐を吐いて勉強をしても、イジメを我慢しても、高熱の中の孤独を我慢しても、褒めてくれと言っても。
いくら仕事に成功しても、取引がうまくいっても、嘉男はまったくうまくいったためしがなかった。しっかりと地面に足が付き、強く何かを掴んだ気がしなかった。いつもなにかが足りなかった。
ずるずると、過去の色んな日の悲しみが、後ろ髪を引っ張って前へ進むのを阻害する。
上へ上へと目指すうち、上司との接触に火花が生じるようになり、仕事がうまくいかなかった。
嘉男はそのまま会社を辞めた。その時、親には何も言わなかった。親の為に決めた会社を切り離したのだから、いい顔は更にされないだろう。これ以上どう築き上げればいいのか分からなかった。
全て親の為を前提とした人生のレールだったが、全て取り壊して逃げ出した。
元々研究員になりたかったが、見栄えの為に企業就職した。だから今度は研究職につこうと思っていると、木村と出会い、この研究室へ席を用意された。
「いいのかぁ? 俺なんて大した働きはできねぇぜ? もっと専門的ないい奴がいるんじゃないのかぁ?」
怪しさ満点の地下を見て、木村に厭味ったらしくそう言った。だが、木村は涼しげな顔をして返事をした。
「働きに大きいも小さいもない。何も気にせず自分のしたい事をしてくれ」
それを聞いた孔雀は自分の瞼を指差した。
「じゃあ、これを除去したいんだがぁ?」
「……それは……専門外だ……」
真面目な顔でそう言った翌日、木村は孔雀に美容整形外科のパンフレットを数冊渡した。孔雀はここで働こうと思った。


さくらのいる部屋の前で、珊瑚が腕を組んで立っていた。孔雀も腕を組んで見下すが、一言も言葉を発さない珊瑚に苛立ち、孔雀は口を開いた。
「何なんだお前はぁ」
「何しに来たのよ」
「様子見に来ただけだぁ」
「嫌ね、ロリコンみたぁい」
「アホがぁ! 俺は子供には興味ねぇよ! 大人の女がいいんだよ、大人が!」
「えっ」
さっ、と珊瑚が腕組みをやめ、自分の身体を抱きしめ孔雀から一歩下がった。
「だから、大人の女、ひょうたん体系がいいんだよ、お前みたいなサンドバッグ体系なんざどこ掴めばいいのか分から、」
「ふんぬっ!」
「ボゲァ!」
肩を竦めて嘲笑う孔雀の腹に一発拳を叩きこむ。壁に虫のように叩きつけられる孔雀はよろり、と、立ち上がる。
「お、んまえなぁ! ローズパンチやめろぉ! 死ぬかと思ったぞぉ!」
「何か香水みたいでいいわね! 薔薇の香りたまらないわ」
うっとりと薔薇の香水を思い浮かべる珊瑚に、孔雀は溜息を吐いて壁に背を預けた。
「お前の気持ちは分からんでもない。言いたい事もあるだろうがなぁ……」
――それを言っちゃお終いなのは理解してるんだろうがなぁ……
「俺達はやらなくちゃならねぇだろ? ここにいるんだから、最低限の仕事はすべきだ」
「私もその通りだと思う。仕事はすべき……でも、誰かの役に立つための仕事をするべきだわ。態々、敵を増やすような真似をしなくたっていいじゃない」
「そうかぁ? 本当に俺達の敵になるのかぁ?」
「なるわよ」
「手なずければいいだけの事だぁ」
「私一人手なずけれていないのに? ちょっと、自分の力を過信してるわね。貴方がしようとしているのは、私にカニバリズムを植え付けるのと同じなのよ? 身の危険を感じない?」
「カーニバルだろうが何だろうが人間だぜぇ? 話し合えばわかるだろ」
「そうとも限らないわよ、アンタ、結構怖いもの知らずなのね……いい? 極端に言えば、この地下の部屋の中に女の子がいるとする。そこに男を入れるようなものよ?」
「自然の摂理だなぁ」
「間違えた。言い方を間違えた。これは私の恐怖心を露わしたもの。いい、この部屋の中に貴方がいて、そこにゲイを投入するようなものよ?」
「…………」
真剣な顔をし、脂汗を流す孔雀に、珊瑚はホッとした。自分の言いたいことが伝わったようだ。
「分かる? 食べられるかもしれない恐怖。私達捕食される側にとってカーニバルとは、男にとってのゲイと同じなの。雨なの、地震なの。普通に生きていても向こうからやってくる恐怖なの」
「ああ……つまり、ホモのいる部屋にホモを入れれば誰も不幸にはならねぇって事だな?」
「そういう事なら、貴方がホモになるっていう意味に聞こえるんだけど……」
考えすぎて違う方向に答えを導き出した孔雀は、あまり理解してい無いようだ。火のない所に煙は立たぬ。ここで火を生み出せば、どこかに飛び火するかもしれない。その火が更に広がっていき、被害は広がる。
部屋の中に蜘蛛を見つけた時、心の底からリラックスして眠れるか?
気になる人は眠れないし、蜘蛛なら安全だと信じても、毒を持っている場合もある。
だが、毒を持っていると知っていれば、蜘蛛を退治するまで眠れない。
孔雀は安全だと信じている、会話で何とかなると信じているが、カーニバルは毒を持っている。人間を食べるという本能がある。
「人間には欲求がある。眠るなと言われても、眠くなったら眠る。やるなと言っても、性欲があればやる。食べるなと言っても、お腹がすいたら、目の前に人間が居たら食べてしまう。怖いでしょう? そりゃ、対話はできるでしょうよ。でも、根本から違うのよ。私達だって欲求に限界が来たらリミッターが外れる。馬鹿みたいに食べるでしょ? 目の前に食事があるのに、駄目と言われたからというだけで、飢え死にするなんてできないでしょう?」
「ああ、そうだな、その通りだ。だが、俺は更にカーニバルにさせたくなったぞぉ?」
ニヤリ、と笑う孔雀に、珊瑚の眉がぴくりと吊り上がった。
「んなわけのわからない奴らだ、一つでも多くの事を知っておく必要がある。知る事は必要だぞぉ? どんなことでも知っておいて損はない。俺は知るために実験する」
「だったら別にあの子じゃなくていいわけじゃない」
「それはこっちの台詞だぜ。お前の子供じゃねぇんだから、何をそんなにムキになってんだよ」
「態々作り出さなくても、そこらのカーニバル捕まえればいいだけの話でしょう」
「捕まえるねぇ……お前がしてくるならいいぜぇ? だがよ、養殖でできるなら、天然ものより楽だろう? しかもあの子供は従順そうな性格だしなぁ?」
「孔雀君」
「道重、命は平等なんだよ。だから関係ねぇよ、中にいるあの女の子が男の子でも、老人でも、青年でも、使えると思ったら使うぜ。どうせあの子が使えないとなれば、他の人間で試す。犠牲を先延ばしにするだけだぁ、諦めろ」
「平等だからこそ言っているのよ、私はどんな奴が使われようとも止めるわ。カーニバルを作り出す事に、メリットを見いだせない。今この世にいる奴を使うべき。その方が生産的だと思うわ」
沈黙が落ちた。白い廊下に白衣を纏った二人が、口を閉ざして睨み合っている。お互いに低きが無いらしい事は見て取れた、だが、これからどうすべきかは分からなかった。
そんな中、孔雀を探しに来た若芽が睨み合う二人を発見し、少し困った顔をして二人に近づいてくる。どんな言葉で仲裁すればいいのか、と、頭をぽりぽりと掻いていた。
珊瑚は用心棒だ。研究員でもないし、知識もない。ただ意見を言っているだけで、それを押し付ける権力はない。
――こうして私の顔色を伺っているのは、私が怖いからなのか、私を尊重しているのか……
アリサのように怯えているのなら浅はかだ。だが、孔雀は珊瑚の怒りに対して平然と向き合っている。
意見の衝突。ただそれだけの事だった。
「……孔雀君、貴方って結構いい男ね」
「は!? な、なななんだ藪から棒に! は? 今そんな話してねぇだろ!」
「あら、そうだったかしら」
「……はぁ、ったく意味が分からねぇ」
「とにかく、サンキューって事よ」
「余計に意味が分からねぇ!」
「え? もう仲直り?」
二人の傍にのろのろと近づいた若芽が拍子抜けした顔で首を傾げた。
へらへらと笑う若芽に、珊瑚は目を細めた。
――孔雀君がああいう考えに至ったのはこの子のせいね、そういえば
今まで、人を殺した人間と接したことが無いから、物差しが一本だけしかない。ゼロから1になると、その1を全てだと信じて疑わなくなる。
――殺人を犯した人間でも、色んな種類があるのよ孔雀君。
今の所無害だが、これからどうなるのかは珊瑚にも、きっと若芽自身にも分からないだろう。全面的に信頼はしていない、が、全身で警戒する相手ではないのは、珊瑚が肉体的に強いからではなく、若芽の放つ空気が、そこらにいる若者と同じソレだからだろう。
――ぶっちゃけ、若芽君より警戒するのは石竹霙なんだけどね
この強い肉体で戦っても、勝てる気がしない。髪を弄りながら、別の研究室に入り浸った霙と赤丹を思い浮かべる。
傍では孔雀が減らず口を叩く若芽の頬をつねっていた。
「いだだだっ! ちょ、なんスかちょっ」
「ったくお前って奴はなぁ! もっとやる気を出せやる気をぉ!」
「無理ッスよー、俺やる気ないもんー」
「何が『もん』だっ! 気色悪いぃ!」
「ぎゃー! 唾、唾が散ってくる!! 汚ー!」
――あの子は、楽しいか楽しくないかで動いてる。今している事の重大性に、まったく気が付いていない。
さくらよりも赤丹の方に正しい道標が必要なのかもしれない。
だが、それを笑顔で、無意識に、無遠慮に、何も思わず踏みつけ、自分の歩きたい方向へ進む第一歩にしてしまう危うさが、桔流赤丹にはあるのだ。














20150406



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