第四十六話





「そうそう、さっきブルーロースは説明してなかったね?」
手術台の上に、自分の細胞から作った手足を乗せ、それぞれのパーツをローズ遺伝子で作った接着剤で接合していく。よいしょ、と、赤丹は自分の頭を両手で抱え、首と繋ぎ合わせた。
手、足、首、腰、全ての身体のパーツがそれぞれの部分に置かれている。
「……ねえ、貴方なんとも思わないの?」
「ああ、よく言われるね。でもさ、自分の身体をこうして客観的に眺めるってそうそうできる事じゃないよね? 凄い貴重で、凄い体験だよこれは」
「いや、気持ち悪いとかじゃなくて、恥ずかしくないのかって事よ。これ全裸じゃないの」
 白衣に隠れて見えない黒子の位置など永遠に知りたくない情報である。
「あー、そっか、そういえば女の子だったね、タオルかけようか?」
「……そうね、言われてみれば気持ち悪くなってきたわ……」
 裸以前にバラバラ死体だ。新鮮そうな赤い肉が、断面から覗き込んでいる。骨は白くて丈夫そうだが、エリカ以外の骨を見たことが無い霙はぞわぞわと肌を粟立たせる。
赤丹のあっけらかんとした態度で麻痺していたが、十分にグロテスクな光景だ。
「じゃあこのタオル股間にかけといてくれる?」
「貴方がかけなさいよ、そこは!」
「何か普通の女の子って感じを初めて受けたなぁ。 ……っと、ああ、ブルーローズの事。カーニバル遺伝子の事だね。石竹さんはカーニバルって知ってる?」
赤丹は着々と自分の身体を台の上で完成させていく。霙はリングに放り投げるように、受け取ったタオルを台の上の赤丹の股間に投げた。
「知らないわ」
「へえ、死んだ人間と会話できるなら知ってるのかと……」
 意外そうな顔をあげる赤丹に、霙は腕を組んでそっぽを向いて言った。
「会ったことはないし、霊もカーニバルという存在を知らなければ、ただの殺人で終わるわ」
「まあね。カーニバルは人食い人種。遺伝子から違う人種だからね。俺も詳しい事は知らないんだけど、木村さんはそのカーニバルに対する情報が欲しいんだって。人間の身体、遺伝子構造。そうそう、カーニバルって染色体から違うんだってさ。研究したら確かに面白そうだよね、でも俺はこっちがいいかな」
おざなりな説明は、カーニバルに対する意識の低さがうかがえた。人を食べる人間よりも、目の前の自分のバラバラ死体をどうやって組み立てるのかが最重要らしい。
赤丹は最後のパーツを取りつけた。台の上には赤丹が仰向けて眠っている。
ガンプラを完成させたように、額を袖で拭い、達成感で輝く瞳を、台の上に視線を向けている霙に向けた。
「俺の身体、ローズ遺伝子と相性悪いみたいでさ、接合に時間がかかっちゃうんだよ。もう少したてば全ての身体がくっつくはず。でも結構脆いんだよね、どうしたらいいんだろう。結合部分が脆いのは回復力の問題か? それを上げる為にはローズ遺伝子を使えばいいんだけど、それと相性最悪だから悪循環……」
「これ、食べれるのかしら」
「え?」
突拍子もない言葉に、赤丹は目を見開いた。まさか霙はカーニバルなのか。
「カーニバルってこれも食べるのかしら」
 冷静な声音でそう言って、霙は組み立てた赤丹の身体を指差した。台の上で転がる姿は、まな板の上で調理されるのを待った骨付き肉のようだ。
「いや、それは困る! 絶対いやだ! これ俺のだし! せっかく組み立てたのになんて事を!」
「そういえば、この町にもいるのかしら、そのカーニバルってやつ……」
「さあ、それはどうだろう。でも、ここの病院の血液検査で問答無用にブルーローズも調べているけど、今の所は出ていないね。平和な町だ」
「そう……」
目を伏せて、霙は親友を思い出す。死んだ親友は、カーニバルの餌食になったのではない。不慮の火事によって燃え死んだ。燃えた身体を更に燃やした瞬間をこの目ではっきりと見ている。
「もし君が人を食べれるのなら、彼女を食べてた?」
赤丹がわくわくした顔をして尋ねた。デリカシーのかけらもない言葉に、霙は真剣に考えた。
「……ないわね」
「何だ、意外だな」
つまらなそうな顔をして自分の身体を見下ろす赤丹に、霙は胸中でつけたした。
――今なら食べるけど
べっ、と赤丹に見られない様に、悪戯に舌を出した。



「うん、絶対ダメ」
「……駄目?」
「いや、駄目だよ。木朽君だって上ミノ殺していい? とか言われたら嫌でしょ?」
「ああ、嫌だね」
「というか、そういうのは言わない方がいいと思うよ……」
「後味悪いからね、藤納戸が敵対するならするで、別にいいんだ。私が後悔しなければ」
「木朽君って結構自分勝手だよね、俺も人の事言えないけど」
インカローズには相変わらず客は来ず、いつも通りのどんよりとした空気の中、忍は木朽に首を振った。
新橋家を攻撃するならば、ここで説得するしかないと忍は思ったが、説得できるような間柄ではない。口で勝てる相手とも思えないし、自分の言葉が木朽の心に響くわけがない。鉄壁のハートに虚しく言葉は弾き返されるだけ、作り物の笑顔を見て、忍は口を閉ざした。
ならば、木朽が言った通り、お互いに我を通すしかないだろう。
学生時代、反りが合わないとお互いに上辺だけ撫でて過ごしてきたが、はっきりと敵対関係が出来上がってしまった。忍は少しだけ悩んだ。難しい事柄だ、髪以外の悩みなんてずいぶん久しい。
「それに、あの子たちは家族みたいなものだからね、兄として、弟と妹を守ってあげないと」
だが、その悩みも自分の返答で全て解決した。木朽よりも新橋家だ。どれほど世話になり、愛しているかと聞かれたら新橋家につく。
悪いが、本当に敵としてみなすぞ、と、宣言する前に、木朽は身を乗り出し、少し目を瞠って忍に尋ねた。
「……兄と妹…? もしかして、新橋家には二人子供がいるのかい?」
「そうだよ。双子だから」
「……そうか……」
ぼすん、と背をソファーに預けた後、気が抜けたのか疲れたように笑い、手を振った。
「……大丈夫、もう新橋家を攻撃はしないよ」
「え? なんで?」
「私は子供が一人だと思ったんだよ、双子なら、子供が二人なら対象外だ。仕事は断るよ」
「全然意味が分からない」
仕事を諦めると言って、本当は忍の気を緩めたすきに殺す気なんじゃ、と、訝しんだ目で見つめる忍に、木朽は肩を竦めて軽く返した。
「まあ、仕事のポリシーというのかな。両親と子供一人じゃないと駄目なんだ。それ以外はしない。相手もそれを知っていたからこそ、双子だという事を隠蔽したわけだしね」
「……大人になっても木朽君の事はさっぱり分からないな」
「知られたくないから当然さ」
鞄を持って立ち上がり、ドアノブに手をかけた木朽に忍は慌てて立ち上がった。
「え、もう行くの? お茶くらい出すよ」
「結構。まだ用事があるんだ」
ニコッと対人様の隙の無い笑顔を見て忍は引き留める手を止めた。お互いに上辺を滑るだけの時間だった。
「そう、なら仕方ないね。態々来てくれてありがとう」
「いや、こちらこそすまなかった。彼らにも悪い事をしたな……」
「意外と律儀だね。じゃあ、光たちが困ってたら助けてあげてほしいな。なんか、厄介ごとに巻き込まれているみたいだし」
「殺し屋に依頼されるくらいにはね。君こそ、新橋家の人間に注意しとくように言っておいてくれよ」
ひらり、と手を振って去って行った木朽に、忍はふぅ、と溜息を吐いた。やはり緊張していたようだ。
気を許せる相手ではなく、緊張を解ける相手ではない。高校の同級生で、友人だと思っているが、やはり木朽は掴めない相手だ。
――ドミノ嬢は凄いなー
木朽の親友だった一斤ドミノという少女をを思い出す。彼女は木朽とよくつるんでいた。優等生で全てにおいて優れていた木朽と共にいて気疲れをしなかったのだろうか。
――……木朽君は変わってないなあ
懐かしむにはまだ年月は経っていないが、それにしても、彼、彼女は恐ろしいまでに変わらない。見た目も、その鉄壁のガードも変わらない。
隙一つ見当たらなかった。交友関係を築こうにも、垂直な壁にはかけられる足場が無い。
その様子に少し思う所はあった。忍がうんうんと考えていると、インカローズのドアがまた開いた。木朽が戻ってきた。
気を抜いていた忍は慌てて背筋を伸ばしてにっこりと笑った。
「何? 忘れ物でもした?」
木朽はじっと笑顔も浮かべず尋ねた。
「なあ、藤納戸。君は髪を見てその人がわかるのか?」
「昔ほどの感度は無いけどね。まあ、なんとなく」
「あまり多用するなよ、使うべき時を見誤らない方がいい」
「うん、木朽君を見て理解してるよ。むやみやたらに切られたらいやだし」
そんな会話をした後、木朽は去って行った。忍は髪や鋏の手入れをしている時に、はた、と気が付いた。
人の忠告というのはいつだって、後から遅れて気が付くものだ。
その期間が短くなったのは成長なのだろうか。
木朽は携帯で時間を見た。新橋家の下見も、放火もしなくて済んだ。時間が開いたので、もう一つの仕事をしようと歩き出した。メモ用紙に書かれていたのは、燐灰町の隣町、針入町のとある家の住所だった。
散歩がてらぶらぶらと適当に探そうと、木朽はインカローズを後にした。
短い髪を撫でながら、針入町へ向かった。




道重珊瑚の初恋は父親だった。物心ついた時から父と結婚するものなのだと信じていた。
友達も「お父さんと結婚するー」と、当たり前のように言っていたし、母親もにこやかに見ていたし、何より父は自分を愛してくれている。そして自分は更に父を愛しているのだから。娘が父を愛していれば結婚できるという考えは、中学校に上がるまで信じ切っていた。
当然のごとく家族では結婚できないのだと気が付いたが、根本的な問題があるにもかかわらず、珊瑚はすでに恋を諦めていた。
それは父と二人きりになった時、なんとなく聞いた事が原因だった。
「お父さんのお父さんってどんな人だったの?」
もしかしてとても素敵な人かもしれないと、一度も会ったことの無い父の父に興味を持った。小学四年生の時だった。母は母の母と一緒にデパートに出かけていて、休日父と二人きりの昼ご飯を食べていた。うどんだった。
「さあ、どうだったかなー」
「じゃあお母さんのお母さんは?」
「んー。勉強しなさい! ってよく言われてたかな?」
「兄弟はいたの?」
「妹がいたよ」
「どんな?」
「かわいかったよ」
「ふーん」
父が自分と母意外の女性を褒める場面に出くわしたことが無いので、少し驚いた。それは父の妹、叔母に一度も会ったことが無いからだ。
家族だと会話の中で関係性を浮き彫りにしても、一度もあったことの無い親類は他人に等しい。だからこそわかった。父は妹が好きだったのだと。
今自分が抱えている感情を妹に向けていたのだろうと。
ならば何故、父は妹と結婚しなかったのか。何故母と結婚したのか。
「お父さんも色々あったのねー」
と、まったく理解せずおしゃまな言葉で締めくくった珊瑚を、父は一瞬ぽかんとした顔をした後、爆笑した。
高校になってやっと一般常識が身に付き、家族と結婚できない事をしっかりと身に染みて理解した。
昨今、近親相姦やら虐待やら、色々とニュースになって騒ぎ出したせいでもあるが、なるほど、幼いころだとはいえ恐ろしい考えを持っていたものだ。
そして父の妹への思いは、もしかすると幼い自分の察し方にズレがあったのかもしれない。ズレズレのままここまで来た珊瑚は頬杖をついて父の汚名を自分の中から消し去った。
珊瑚が通っていた高校は女子高だった。周りの女の子は自分より背が高く、身体も丸みを帯びて他校の男子とあれこれと色々な事をしているらしかったが、恋を封じ込めたとはいえ、父が好きだった珊瑚はあまり興味を惹かれなかった。
「珊瑚ちゃんって本当かわいいよねー!」
「小さくってお人形さんみたいだし」
「ね、抱っこさせて?」
クラスの中でマスコット的存在になるくらいには、道重珊瑚の容姿は小学生のソレだった。
幼いころに発芽したズレのツケがここにきているのだろうな、と、ぼんやりと思う。
コンプレックスとまではいかないが、やはり普通の女の子程度には成長したかった。主に胸部の話だが。
高校を卒業した後、大学に入ると異性が水の中に混ざりこむように珊瑚に衝撃を与えた。まったく違う生き物だった。
ほうほう、と、興味深げに観察するが、相手はそんな珊瑚を見てにっこりと笑うだけで、決して鼻の下を伸ばしたりしない。お互いに水族館の魚と見物客のようなもので、見えない分厚いガラスがしっかりと溝のように立ちふさがっていた。それは異性というガラスだった。
別の生き物だとお互いに理解していながらも、恋愛感情を持つには至らないものだと分けられていた。
入学当初、よく「なんでここに小学生が!?」「迷子がいるぞー!」「誰かの隠し子か!?」と、無駄に騒がれたものだが、その波が過ぎ去った後は面白おかしく合コンに引っ張りだことなった。
見た目が見た目故、そう簡単に彼氏はできなかった。合コンで人気者になるのはなるが、マスコット的なものだった。周りの友人はお持ち帰りされたり彼氏が出来たりと変化があったが、珊瑚はそこで酒の味を覚えたくらいだった。
何度目かの合コンで、珊瑚の前にお酒の入ったグラスが置かれていた。まだ未成年だったが、珊瑚は気にせずそれを手に取って口につけた。
酒は嫌いじゃなかった。見た目とのギャップに、酒を飲む姿もまた盛り上がるのだった。だが、珊瑚は需要など関係なく自分が欲したので、思い切り飲んだ。
喉が焼け、胸に熱が広がっていく。ぷはっ、とその心地よさに浸っているとジッと珊瑚を見ていた男が声をかけた。
「嗜むのかい?」
声をかけてきた男に、珊瑚は頷いた。酒臭い息を吐きながら返事をした。
「ええ、おいしいから」
「へぇ、俺より大人だね」
へらっ、とあまりお酒を飲んでいないのに、すでに頬が少し赤いその男に、珊瑚は熱を持った胸にドスッと何かが刺さるのを感じた。心奪われた。
珊瑚よりも遥かに年上で、はっきり言えば老けていた。二十だというが、三十と言ってもいいくらいの渋みがあった。モロ好みであった。初恋の父の面影を感じたのだった。
「あの! もしよかったらお友達からよろしくしてほしいんですが!!」
「それより結婚してほしい」
「はうっ……!」
勇気を振り絞って告白すると、更に大きなホームランを打ち返してきた。モロ好みであった。
出会って数時間で、珊瑚は目の前の男と結婚する事を決意した。
その数か月後妊娠が発覚し、本当に結婚した。双子の男女だった。幸せの絶頂だった。
夫が会社へ向かう朝、子供たちが足に絡みついて放さない。ぐずりだしながらも見送る瞬間は、夫も幸せそうだった。
――なんて幸せ!
子供二人の世話は大変だった。ただでさえ小柄な珊瑚は更に大変そうに見えて、近所の人たちも、夫も誰もかれもが助けてくれた。
コンプレックスだった見た目がこんな風に役立つなんてと思うと同時に、ちゃんとした母親に見られるようになりたいとも思った。
「お化粧、もっとうまくなりたいわ。貴方だってこんな子供っぽい奥さんじゃ嫌でしょ?」
「そんな事ないよ。ありのままの君が好きだ。そのままでいていいんだよ」
まるで子供をあやすように言われた言葉だが、珊瑚は素直に受け取って喜んだ。
月日は流れ、子供たちは小学校に上がり、小学四年生になった。双子は当初は見分けがつきにくかったが、女の子のアリサは髪の毛を伸ばしワンピースを着て、とても大人しい性格に育った。
「なあ、母さん! いつもの靴下どこにある?」
「いつもの所にないの? じゃあ、一つ下の引き出しはー?」
「んー……あ、あった!」
男の子の一鷹は丸坊主にして野球に熱中していた。野球クラブに入る程の熱の入れように、珊瑚はとても喜んだ。元気な子供程安心できるものは無い。
市街地にある野球クラブのグラウンドに放課後向かい、帰りは珊瑚が迎えに行くのが日課になっていた。
その日の夕方、携帯に息子からチームメイトの家で夕ご飯を食べて帰るから、いつもより遅い時間に迎えに来てくれと言われ、珊瑚は少し遅く買い物に出かけ家に戻った。
「じゃあ、留守番しててね。変な人が来ても入れちゃ駄目よ」
「うん……お父さんは、帰ってこないよね?」
「? うん、多分まだね。いつも通り、夜に帰ってくるはずだけど……一人じゃ寂しいの?」
「そんなわけないでしょー! もうお姉さんだもん、できるよ」
アリサがいつも通り一人で留守番をしていた。車を入れる際、夫の車があるのが見えた。
――あら、あの人早いのね。
アリサも一人で寂しそうだったし、丁度良かったと、珊瑚は買い物袋を持って家に入った。
リビングに向かうと、ソファーの上で夫が上半身裸のアリサに跨っていた。ジーンズの分厚い生地を押し上げる物が見えた。珊瑚は買い物袋を落とした。
頭の中で血管が切れた音がした。
そこからの記憶は珊瑚にはなかった。気が付くと、薄らと窓から入り込んでいた夕日の光が無くなり、真っ暗になっていた。部屋の電気もつけておらず、何も見えなかった。
慌てて部屋の電気をつけると、ソファーの上でガタガタと震えているアリサが見えた。
「一体何が……」
一気に去来する悲しみと、アリサに対する憐憫がせりあがる中、部屋の惨状を見て駆け寄る足を止めた。
まるで泥棒が入ったかのような、嵐が通り過ぎたかのように、綺麗にしていたはずの部屋がめちゃくちゃになっていたのだ。夫の姿は無く、リビングにいるのは珊瑚とアリサだけだった。
珊瑚はアリサに近づいた。慰めるように手を伸ばした。
「アリサ、大丈夫? ごめんね……」
「こないで!!」
引き攣った声に、娘の拒絶に身体の動きが止まった。
頭を抱え、涙を流しながら震えるアリサの目はぐらぐらと揺れていた。
「どうして、なんで、お父さんも、お母さんも……怖い……怖いよ……!」
悲痛なアリサの声に、珊瑚はハッとした。
――……もしかして、私、何かした……?
あの父と同じ土俵に上がる程に酷い事をしてしまったのか。混乱する頭で逡巡していると、口に出していたようで、アリサがおそるおそるこちらを見て言った。
「……覚えてないの……?」
「ごめんね、アリサ。お母さん、記憶が無いの、何が起きたのか……」
「……暴れてた。お父さんを殺すかと、思った」
震える唇から告げられた事実に、珊瑚は腕を摩った。今まで、喧嘩なんてしたことはない。口喧嘩なら幾度としたことはあれど、こんな、明確な暴力を振うような事はありえない。
だが、腕に僅かに感じる痛みは、筋肉の悲鳴だった。
まさか子供に手を出していないだろうなと、アリサを見た。顔も体も、目に見える怪我はなかった。だが、胸中は、彼女自身はボロボロだろう。
――なんてものを、見せてしまったのかしら
しん、と二人の間に沈黙が落ちた。それぞれ、胸中では大騒ぎなのだろうが、静まり返った家は黒い檻の中のようだった。
愛した夫が自分の娘に手を出した。ドッドッと心臓が早く鳴りだす。嫌な汗が額を滲んで落ちていった。
昔の、無邪気な自分の恋心を思い出す。どろりとした感情が溢れ出そうになったが、何とか抑え込んだ。
――とにかく、この子に何か……お風呂を……あの人は何処に……アリサに聞けない……なんで私は今まで気が付いてあげられなかったの……
その時、沈黙を切り裂く電話の音が鳴り響いた。嫌に煩い音にアリサはビクッと小動物のように反応し、珊瑚が何でもない様に電話をとった。
「もしもし」
『そちらは道重さんのご自宅でしょうか?』
「そうですが……」
『旦那さんが車で轢かれたんですよ、大急ぎで来てください』
めきめき、と、子機が軋む音がした。喉奥から感情が声になって溢れ出そうになったが、やめた。背後のアリサに、これ以上憤怒の感情を見せたくなかったのだ。



夫だった人物は、切れた珊瑚に圧倒されて命からがら逃げだした後、トラックに轢かれて死んだ。あんなにも愛していたのに、今となっては虚しさしか残らなかった。
愛していた頃なら号泣して、やりたかったこと、やり残したことを嘆いたのだろうが、今は同じように後悔しているが、それは懺悔の要求でしかなかった。
自分達と一緒にいなくていい。どうせなら死んでもよかったから、アリサに対して謝罪をしてほしかった。
泣き喚く子供達の頭を、静かに撫でていた。
一鷹の涙と、アリサの涙は違う。同じ顔で同じように泣いているが、珊瑚はその違いに泣いた。夫の死で涙したことは一度もない。
夫の死後、落ち着いた子供とまた新たな生活をしなければならなかったが、あの家にいる事は出来なかった。アリサも珊瑚もそう思っていたが、一鷹は嫌がった。
「なんで! ずっとここに居たのに離れるんだよ」
「色々あるのよ、お願いだから」
「お願いなんてするなよ! ここにいる! ここがいい!」
父を慕っていた一鷹は、父の思い出のある家がいいと叫ぶ。だが、アリサは家から離れたいだろうし、珊瑚もその気持ちを汲んでいた。
そのアリサが、ぽつりと呟いた。
「……私、おばあちゃんの家で住む」
一鷹が驚いたように叫んだ。
「なんでだよ! お前だってここにいたいだろ!?」
静かに首を横に振ったあと、アリサは珊瑚を見た。
「お母さんは一鷹と一緒に居てあげて。私は大丈夫」
「そんな……そんな事できるわけないでしょう?」
もじもじと告げるアリサに、珊瑚は胸が締め付けられた。可哀想で、健気で仕方がなかった。膝をついてアリサの手を握って、見上げながら優しく言った。
「貴方を一人にできないわ。家族は一緒に居るべき……」
珊瑚は最後まで言い終える事が出来なかった。ハッ、と、アリサを見てやっと気が付いた。
俯いたアリサの表情はこわばっていた。母を見る目はいつだって優しくて、ふやけた指先のように柔らかなものだった。
俯いたアリサの目には恐怖の色が浮かんでいた。握った手はハムスターのように震えていた。
覗き込んだ表情は強張って、珊瑚を拒絶していた。
「……ごめんなさい」
人生でこれ以上ないほどの痛みを感じた。胸をスプーンで抉られ、中身を取られたかのように感じた。
アリサは珊瑚の両親のもとへ引き取られていった。一鷹は珊瑚の下へ残った。とにかく、お金が必要だと思った。
子供の心を癒すのは親の役目だが、その親がどちらもおぞましいものだったら、後は金しかない。今は無理でも、将来癒せる為に必要なものだ。
聞けないことがある。秘密にしていたものを見られたとき、悪口を言っていた場面で出くわしたとき、聞いたか、見たか、理解しているのか、こちらはおどおどとするだけで、白黒はっきりできない。
聞いていたかもしれないと、眠れぬ夜が続き、聞いていなかったかもしれないと、ゆっくり眠れる日が続く。そんな波の上で疲労ばかりため込んで、事実を知らずに生きていく。
珊瑚は白黒はっきりつけられずにいた。死んだ夫に、性癖で結婚したのかと、愛していたのかと、聞いてみたいが、眠れないわけではない。寝る間際、夫を思い出しても簡単に眠ることができる。
眠りを妨げるのは、いつも娘だった。夜中、眠りの海に溺れて水面に浮上して、懺悔と自己嫌悪に咽る原因は、自分の腹を痛めて生んだ娘だった。
あの時、ソファーの上で浅黒い肌を見せていた夫に、白く薄い身体で震えていた娘を見て、ぷつりと意識が途絶えるその間際、胸から喉を通って頭に到達した感情を、もしかして、娘は知っているのではないだろうか。あの怯えは、母が母ではなくなった事に対する軽蔑なのではないか。その後の蛮行に、その片鱗が見えていたのではないか。咆哮の中に、娘に対する叱責が混じっていたのではないか。
あの瞬間、娘を襲っていた夫ではなく、夫に襲われていた娘に嫉妬した。
もし、過去に戻れることができるなら、年端もいかぬ少女に、自分の娘に、女として嫉妬したあの一瞬の自分を殺してしまいたい。
一生苦しむであろう娘に、母親である自分がなんて事をしてしまったのか。
――そのツケみたいなものが、今、利子を迫っているのかもしれないわ。
とにかく金をと、血眼になっていた時に出会った木村に誘われ、透輝地下研究室の用心棒をしているが、まさか子供とほぼ同い年の女の子と、男女の双子が実験材料にされるとは。
布団もかけず、ベッドに入らず、固い床で眠る女の子に、珊瑚は手を握る力を強めた。
――あの子は、きっと一人で抜け出せるはず
出口の階段での戦闘で、自分よりも強いと感じたあの少女は、小さいころからローズ遺伝子を巧みに使い、戦い方を憶えているのだろう。双子の兄も一緒に居るみたいだが、問題はない。
こんな薄い壁などすぐに壊して地上に出るだろう。だが、さくらは出られない。
力はあるが、戦い方を知らない。頭も弱く、何より自分から出て行こうとしていない。
『お母さんがそう言っていたよ』
たったその一言で、松平さくらは疑う事を知らず、考える事を知らず何の疑問も抱かずにそこにいる。
――利用しやすい、都合のいい実験材料だわ、本当に
従順で、警戒心のない少女なんて、誰の目から見ても扱いやすいものだ。
――手を引かなくちゃ。大人が、理解している人間が……
道重珊瑚は地下研究室のある部屋の前で立ち止まっていた。中には松平さくらがおり、所謂監禁している状況である。
だが、そっと中を覗くと、そこは意外と広い部屋で、ぬいぐるみや本や机などがある中で、さくらは部屋の中央の床で、与えた飴をしゃぶりながらすやすやと眠っていた。家のリビングで昼寝しているかのような、気楽で、無防備な寝姿だった。
自分の子供たちと同じくらいの年齢だが、とても幼くかわいらしく見える。
――何を考えてるのかしら。
それはこの状況で眠るさくらと、さくらの母に対してだった。
普通、一日でも家に帰らなければ警察に連絡するだろう。詳細は分からないが、若芽が連れてきたというのだから、さすがにここに居ると分かるはずだ。先ほど外を歩いていても警官らしき気配も、町の警戒心も感じられなかった。
ぽつねんと、テレビもラジオも何もない無音無窓の部屋に転がされている少女に、憐憫の念を禁じえない。
――皆、結構軽く考えてる。
男ばかりだからなのか、子供を持っていないからなのか。親が子供を心配するのは息をするように当然の行為だ。
母のピリピリした空気が、欠片も自分達に届かないのはおかしい。
――兄弟もいないと言っていたわね……本当かどうか分からないけど。それにしても、家族の気配が希薄だ。それにしては、親への愛情は強い。
帰巣本能の塊のように思わせておいて、ここで静かに眠っている。母の顔が何処にもないのに、いつも母を感じているように眠っている。
その寝顔をアリサと重ねる。彼女もこうして自分を感じていてくれるのだろうか。
珊瑚は立ち止っていた。さくらの部屋のドアを開ける鍵を持っていたが、その鍵穴を回すことはない。だが、すぐにでも回して開けなければ。
――孔雀君はこの子を使おうとしてる……!











20150313



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