第四十三話





UFOキャッチャーの受け取り口から出て来る景品のように、ぐらりと背中から丸まって透は転がり落ちた。蓋があくようにぱかりと衝撃で開き、透は地下の白い場所に転がりこんだ。
ぱたん、と、透が気づく暇もなく扉は閉じた。
「いだぁっ!」
思い切り鼻をぶつけた透は顔を伏せたまま、痛む鼻を両手で押さえて静かにうずくまっていた。
その前から、カツン、カツンとヒール音がした。
看護婦さんだろうと思い、透は顔をあげなかった。こんな無様な姿をしている自分の顔を見られたくなかったからだ。
じっと猫のように丸まっていると、その頭の前で足音が止まった。
「……どうしたの?」
聞いたことのあるような声に、透はそっと視線をあげた。
黒いスカートの襞の上には二つの山、その奥には石竹霙の顔があった。
「あ、先輩のお姉さん……」
「顔、打ったの?」
「あ、はい……」
「もう少し顔あげて?」
見てくれるのか、もしかして鼻血でも出ているのかと思ってゆっくりと上げる。にっこりと微笑む顔の下で、ゴキブリが横切ったような残像が見えた。
ガンッ、と、骨に響き渡る衝撃音。ぐらぐらと視界が揺れて意識が遠のく。
また顔を伏せた透にしゃがみ込んだ霙は、眠る子供にキスする親のように、耳元でそっと囁いた。
「そう、それくらい上げてくれないと蹴りにくいわ」



「まるで犬小屋……! 屈辱だわ!」
「犬なら犬らしく吠えまくろうや!」
「犬なら犬らしくしゃべらないでくれる?」
ジロリ、と、暗闇の中横を睨み付けると、そこにいる小さなチワワは、部屋の四分の一を檻で区切られた場所からまったく動かないでいた。
光も両腕を鎖で持ち上げられ、足首にも丁寧に鎖が繋がっており、生憎鍵は何処にもない。
それよりもまず部屋の電気が欲しい所だが、ここにぶち込まれてから数時間、だんだんと目が慣れてきた。
「せやから言うとるやろ! ワシは犬やなくて人間!」
「んな毛むくじゃらな人間いてたまるもんですか」
「せーやーかーらー! これも何度も、ホンマ耳にタコどころかイカが出て来るくらい言うとるけど! これ! ワシの身体ちゃうねん! ノーバディ!」
「私も実は違うのよね。本当の自分は……そうね、ハワイで日光浴を楽しんでいたりして……」
「おいおいアカン! 気を確かに持て! お前の身体はここにある! 貧相な胸を確かめて、」
「ぶっ殺すわよ犬畜生」
「アカーン! やっぱこの子怖いわ! 一緒にせんといてー!」
だが、いくら叫ぼうと助けも敵も何も来ない。うんともすんとも言わないこの暗く静かな部屋で、騒ぎ続けるのは二人の精神を保つためでもあった。
光と小雪がここに侵入し、先に入った霙に見つかり見事に返り討ちにあった後、暫く小雪と光で違う監禁部屋、牢獄のような場所に突っ込まれていたのだが、霙は小雪を連れてどこかに行き、光はコチニールと共に電気もつかない、コンクリートに囲まれた部屋に押し込められたのだ。
耳元で煩くじゃらじゃらと鳴る鎖に、思わず眉を顰める。
「本当、胸の大きな女は碌でもないわよ! いいのよ貧相! 胸が無い女は、思いやりを持ってる! 胸を持ってる女は思いやりがナッシング!」
「……いや、おっぱいあるなら思いやりなくてもええわ。揉ましてくれれば」
「その肉球で何を揉むというの」
「ハッ! そうや、こんなかわいらしい腕では女を慰める事もできひん……! かんにんな、お嬢ちゃん……」
「犬でも人間でも、そんなオッサン声で慰められたくはないわよ」
ジャラジャラと鎖が鳴る。犬のだみ声以上に煩く、癇に障る音はこれだ。
――これにつなげたのは誰なのかしら。あの女?
脳裏には霙の姿があった。
小雪と光は霙とバッタリ会った後、すぐに霙の力によってねじ伏せられた。
最初、防御に徹した光は、小雪がいた為攻撃できなかった。
相手がか弱い女だというのもあるし、小雪の姉だったからだ。
一瞬躊躇したその瞬間、霙が二人に手の平を掲げた。
霊感のある妹がいるならば、霊感のある姉がいてもおかしくない。だが、それ以上の力を持っていた。
二人に触れず、二人の動きを制御し、意識を遠のかせる程の異様な力を持っていると知っていれば、光は迷わず霙を倒しだろうた。
――あの子は知っていたのか知らなかったのか。知っていたならタイミングを逃していただけのはず……
もし知らなかったのなら、それについても話し合いがあるだろう。あの場での事を反省するのはもうやめた。
「それにしても、あのおっぱいの大きい子にやられたんやろ? 大丈夫か?」
「別に、殴られて骨が折れてるわけじゃない」
それ以上に不気味さを感じるが。
「私の他にもう一人いるって言ったけど、その子、その女の妹なのよ」
「え、マジかいな……」
「そう、だから結構楽よ。守るのは自分だけでいいんだから」
「……ん? いやいや、危ないで? その子も」
「? だから、向こうには姉がいるのよ?」
「は?」
「何言ってんの?」
「いやいやいや、確かに、そりゃ心強いかもしれんけど、百パーセントってわけじゃないやん?」
「だから、姉なのよ?」
「妹でもやむ終えずという状況はあるやろ。そういうのあるんやで? しかも喧嘩中とかやったらどうするん?」
「??」
本気で意味が分からない様子の光に、コチニールも思わず首を傾げた。まったく会話になっていない。見ている場所は同じなのに、見る角度が違っているようだ。
「なあ、ここがどういう所か分かっとる?」
「病院の地下、よくわからない白い場所」
「せやな、ワシ、ここで手術されてん。この身体にされたのもあのおっぱいちゃんやねん」
「ふうん……」
光が目を細め、警戒を露わにした。あの女には近づかない方がいい。
「人間の身体かから犬の身体にうつされたんや。非情やろ? そんな人間やで? 妹だって、どうするかわからん」
「それは、アンタは他人でオッサンだからでしょ? 家族で妹よ? 何を言っているの?」
「……え、ワシが悪いの?」
「アンタ、兄弟いる?」
「いや、一人っ子やけど……」
「いい事、この世の兄弟というものはね、上は下を絶対に見捨てられないし、愛さない筈がないのよ。どう足掻いても兄弟ならば、命がけで守るものよ」
「せやろか……」
今までの経験上、兄の借金を弟にかぶせたり、姉妹揃って風俗で働くと言う光景を見てきたコチニールは腑に落ちなかった。
宝野組の構成員として働いていたから、そういう部分が色濃く見えていただけかもしれないが、こんな風にきっぱりと言い放つ光に思わずたじろいだ。
「そうよ、姉が妹を見捨てたり、妹を酷い目にあわせたりなんてしないわ」
静かに、鎖以上に落ち着いた声で言い放った。それが世界の真実だと錯覚してしまいそうなほど説得力のある声音だった。
「……だから、後は私だけなんだけど……アンタも来る? ついでに犬の散歩してあげてもいいけれど」
「それは嬉しい事やけども……なんか策はあるんか?」
「何にもないわ!」
「ええええ!? アカンやん!?」
説得力のある声音で堂々と言われて、思わずコチニールが全力で突っ込んだ。
「そんな、今から立ち上がって戦いに行くみたいな雰囲気出しといて!? なんもないんかーい! って、めっちゃ気持ちいい! 今の声めっちゃよくなかった!? ワシの喉回復しとるん!? 酒飲んでないからなー、あー、飲みたいわー! …………ん? おいおいお嬢ちゃん、いきなり黙るのは無しやろ。恥ずいし怖いやろ……突っ込めや、思いっきりクソ犬って突っ込めや!」
いきなり黙り込み、鎖の音すらさせずじっとする光にコチニールは更に声を荒げた。
檻の中、自由なのは言葉だけだ。お互いにそれは同じはず。
「……透がいる」
「え? 透?」
「双子の兄弟よ。なんとなくだけど……いや、多分当たってる、時々あるの、こういうの」
「怖い……怖いわなんやねん……お嬢ちゃんも霊感あるん? 嫌やもうなんやの」
がっくりと項垂れるコチニールに、光は犬のように気配を消して気配を伺った。
先ほどの言葉以上に確実ではない。薄らぼんやりとした透の気配を感じる。近くに来ている。じゃら、と耳元で鎖が鳴っても、揺るがない。
病院の地下、自分をこんなコンクリートの部屋に鎖で繋げる相手、しゃべる犬、姉と妹。
透を察知する感覚と共に、脳裏に警鐘が鎖以上に鳴り響いている。
まるで丸呑みする蛇の口の中にいるような感覚に、光はゆっくりと立ち上がった。
「どしたん?」
「ここから出る」
「え!? なんか策でも!?」
「ないわ!」
「ないんかーい! なんやそれ! ありえへんわ!」
数歩進み、ぴん、と鎖が伸びた。四肢に繋がっている鎖に一度立ち止まってコチニールを見た。
「ありえないのよ、私が負けるなんて。不意をつかれたとしても、予想外だったとしても。守るって言ったのに守れなかったとか、屈辱なのよ」
相手が姉だからよかったものの、自分一人が掴まっているからよかったものの。
ぎちぎちと手足の肉に鎖が食い込む。歯を食いしばるのは痛みではなく、脳裏に浮かんだ小雪と透の姿の為だった。
一歩踏み出し、脇を締めどんどん前へ進んでいく。頑丈な鎖と、それを繋げるコンクリートの壁は頑丈だった。
だが、
「フンッ!」
光の第一歩は、堅牢な鎖を引きちぎり自由の身にした。
じゃらじゃらと、首を切られた蛇のように足元に落ちる鎖はもう鳴る事はなかった。
「兄の為に妹が動かないなんて事は、もっとありえないのよ」
「うそやん」
コチニールが腰を抜かし、おすわりの状態でぽそりと突っ込んだ。





人生の中で誰しもが一番輝く時代を持つものだが、桔流赤丹はその真っ只中におり、自分はそれにまきこまれた哀れな凡人であると、孔雀嘉男は思っていた。
腕を組み、囚人の動きを見張るように彼の動きをじっと見る。何か分かるかもしれない、あの天才というものの仕組みを。
「えぇっと、それで、なんでしたっけ孔雀さん」
「……木村さんがいないので、今はあなたが最終判断を下してもらいます」
「うぇっほーい! やったー! つまり俺が王様って事ですね? やろうやろう!」
両手を突き上げる赤丹は飛び跳ねながら孔雀の下へたどり着いた。
「今日は誰がいますか!?」
「俺に貴方に、道重に若芽、つまり木村さん以外全員です」
「成程ー……うーん、ネックは珊瑚さんかな……若芽君は動いてくれるからなー。今日、丁度石竹さん呼んでるんですよ。だからアレ、しようと思って。いやあ、いいタイミングだったなー、木村さんに報告しつつ一緒にしないかって誘おうと思ってたんですよー。あんまりいいよって言ってくれないし」
「まあ、無意味な事ですからねぇ」
「でも、夢でしょ、男の! 組み立てて動かすっていうのは!」
きらきらと目を輝かせる赤丹は、親がいない間にガンプラを組み立てる子供のような反応を見せる。
だが、それも中らずと雖も遠からず。このガラス張りの研究室の中にこもりっきりになっている赤丹は、数日風呂に入っていない。その異臭に鼻をつまむが、視線の先にあるホルマリン漬けにされた足首を見た。
部屋の壁際にある三段のアルミの棚にずらりと並んでいるそれらは、全て同じ人間の身体だった。
左足のくるぶしの部分に黒子が一つある。だらりと垂れた手首、曲がった肘の部分。耳、足、腕。
「あっ、靴脱げちゃった」
赤丹が腰をかがめて靴を拾い上げる。裸足で履いていたらしく、ぺたりと左足だけすっぽんぽんだ。
そのくるぶしにホルマリンに浸かっていない黒子が見える。
「桔流さん、黒子が見えます」
「えっ、瞼透けて見えるんですか!?」
「誰が瞼に黒子だァァァ! これは油性の落書きだァァァァ!!」
「うわっ、ごめんなさーい。ははは!」
カッと瞼を開けた孔雀嘉男は、両瞼に瞳のような黒子がついていた。コンプレックスを刺激された孔雀は、いつものように烈火のごとく怒りだす。赤丹はけたけたと笑う。
透輝地下研究室は大きく分けて二つの部屋に分かれている。
一つは出口のある研究員の机のある部屋だ。まずここに来たら、出勤するのはそこだ。それぞれの名前の札があり、それを裏返しているかいないか確かめることができる。
地下では携帯などの電波は届かない。敷地面積から考えればまったく必要ではないのだが、一つの目安となる。
その正反対の場所にあるガラス張りになっている研究室では、文字通り研究を行う大きな部屋で、研究員の部屋の次に大きな場所だった。
「孔雀さんもしましょうよ。面白いと思いますよ!」
「面白い面白くないではなく、自分の為になるかならないかで決めるべきだと思うぜぇ」
「でも、俺出世するかどうかなんてわかんないですし。面白いもの試して、出世できたら儲け! って思うのは駄目ですかね?」
「驚くほどポジティブだなぁ……」
がっくりと肩を落とす。
今、研究室には大量の材料が運び込まれている。その数は三つ。
一つは隔離部屋に閉じ込めている、飴を与えればなんとでもいう事を聞く松平さくら。
もう一つは小雪と共に来た新橋光。霙の判断で閉じ込めている。
もう一つは入院患者の椎名真赭。他にも数名いるのだが、確実で、それなりの事をしても文句も言われず、不思議がられないのは真赭が断トツだ。親も子も、医者のいう事を信じている。
「で、どれから手をつけるんだぁ?」
「そうですね、んー、俺的には組み立てですかね。あと双子実験」
「双子ぉ?」
「そうです、ほら、この間入って来た子いるじゃないですか、石竹さんの妹と一緒に。その子、双子のお兄さんいるらしくって、しかもローズ持ちかもしれないから」
「なんでわかるんだそんな事」
素に戻っている孔雀に、赤丹はニコニコと笑って言った。
「有名な不良らしいですよ、なんでも番長並とか! 入院してる子も中学校の番長だっていうし、そういう子達は大抵持ってたりするんじゃないですか? あの子も、さくらちゃんも持ってるだろうし。双子なら親よりも遺伝してる確率高そうだし、妹の方も強いんじゃないかなぁ。だから鎖で繋いでるんですよー」
「おいおい、どうするんだそりゃぁ」
「まあ、殺すわけじゃないし、中身入れ替えてどうなるか見てみたいんですよ。双子がそんな訴えしても、信じるかな? 信じても俺たちが疑われるのは薄いですよ、木村さんがなんとかしてくれるだろうしね」
近くの実験台に腰を下ろした赤丹に、孔雀は気難しそうな顔をして腕を組む。
「人間の身体が車なら、魂はガソリンだって思ってたんですけど、違うみたいですね。なんていうか……身体は手袋で、魂は手、みたいな感じ?」
「なんだぁそりゃぁ……」
「ほら、手袋だけだとへなへなでしょ? 魂が無いと、身体は動けない。生きてるのか死んでるのか状態で、魂が、手を入れると手袋は膨れてぴんと張りつめる。けど、その手の形で手袋も変わりますよね。人間って、魂によって身体に変化を起こすんですよ」
手のひらを掲げて、ひらいたり閉じたりを繰り返す。
手の動きに逆らえない手袋は、どうしても手に支配されてしまう。
中身が人間だと、犬の身体でも人間の言葉を話す声帯に切り替わる。
――そういう自我が強かったっていうのもあるかもしれないけどね。
木村が欲しがっているのはあくなき探求心だ。赤丹のような無邪気な好奇心も、孔雀の出世しか見ていない野心の視点も、どちらも弊害であり、必要なものなのだろう。
――俺が若いからなのかな、そういうの、すげー興味ねえや。
孔雀に言えば怒るだろう。三十路半ばの男は苦々しい顔をして赤丹を見るだろう。
他人が何を必要なのか考えるが、赤丹はすぐにその思考を止めてしまう。難しい。最後は行き止まりに直面する。
だから結局、誰もかれもが自分の考えを突き通せばいいのだ。
「石竹さんもう来てるらしいから、双子兄を捕まえに行ってって、若芽君に伝えてくれませんか?」
「一人で大丈夫かぁ? ローズ持ちなんだろ? 道重の方がいいんじゃないのかぁ?」
「いやあ、手紙を入れればいいんじゃないですか? 妹は預かった! とか、よくあるでしょ。それで、のこのこ来たところを……若芽君が穏便に行けばそのままつれて、駄目なら珊瑚さんに……」
研究室は中からも外からも防音になっており、ガラスを叩いたくらいでは音は伝わらない。
だが、霙は外からガラスを軽くノックした後、中に入って来た。
「そこで双子のお兄ちゃんが転がってるわ。回収して頂戴」
「はは! まさに飛んで火にいる夏の虫! 孔雀さん、手伝ってください。珊瑚さんに見つかる前に」
るんたったー、とスキップで研究室を出て行く赤丹に、孔雀も渋々ついて行く。
霙の横を通り過ぎる際に、ジロリと横目で見た。
涼しげな顔をして孔雀と視線も合わせない。その小生意気な姿に、孔雀は更に眉間に皴を深く刻んだ。
――この女が来たせいで、ここは桔流の独壇場になってしまった……
霊だの魂だの、持っていて困るものではないのだが、赤丹と見事に利害が一致し、赤丹以外には協力姿勢を見せない。
金を貰っているわけでもない霙は、すぐにここから消えてしまうだろう。
その身軽さも孔雀は良しとしていなかった。霙の能力は欲しい、だが、霙は個人的に動いているだけで、これからの研究に関わる事もない。
――何を考えているんだアイツはぁ……何故この女の言う通りに事を進めている……
もう少し先延ばしにしてもよさそうなのに、と、白衣のポケットに手を突っ込んで赤丹の後を追う。
「あっ」
声を漏らして、赤丹はぴたりと動きを止め、一点を凝視して固まった。
「どうしたぁ?」
ひょい、と赤丹の前を見てみると、そこにはうつぶせに倒れた透を肩に担いで立ち上がり、こちらを見ている光がいた。











20150110



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