第四十二話





指先で名前をなぞって丁寧に調べてくれる受付の看護士さんを、透は黙ってその様子を見ていた。
「いえ、そのような名前はありませんね……」
「そうですか……ありがとうございます」
消毒液の臭いが充満する病院は、あまりいい記憶がない。ただでさえ印象が悪いのに、病気の時の弱った気分に畳みかけるように、ネガティブなイメージしかついていない。
光が入院していないか尋ねてみたが、案の定いない。
普通に入院しているのなら、家にもすでに連絡が入っているはずだ。分かっていたがあえて確かめた。ならば一体、光は何処にいるのだろう?



「あ、あの、さくらちゃん大丈夫なんでしょうか……」
カフェを出て数分後、透は菫に声をかけた。適当に道を歩いているであろう背中を意味もなく追いかけ続ける気はなかった。
「さあ、どうだろう。それもそれとして、光ちゃんはどうしてる?」
「へ?」
何で光が出て来るのか、素っ頓狂な声が出た。
「どうも何も……元気ですよ」
多分。と、最後は口に出さなかった。昨晩、光は戻ってきていない。普通の家なら心配するだろうがあの光だ。夜道を歩いても心配するどころか、もし間違って光を襲ってしまった相手の方を心配してしまうくらいだ。
「昨日帰ってないんでしょう?」
「そ、そんな事まで調べたんですか……」
「光ちゃんがいないから、透君に助けを求めたんだもの」
「え゛っ」
ぴしっ、と身体と思考が止まった。
「知ってるわよ。でも、あの子いないから、もし見つけたら光ちゃんにもお願いしてほしいの」
「……あ……えっと……」
「見つけたらだけどね。調べたら、光ちゃん友達の石竹小雪って女の事、透輝大学病院から出た気配がないのよ」
「えっ、石竹先輩と!?」
「よくある事なのかしら? だとしても、病院の臭いのする、透君に似た男に誘拐されたという事実が関係ないとは思えないけど」
「……ま、まさか……!」
意味ありげに呟く菫の言葉に、透はハッと何かに気が付いたように顔をあげた。
「アイツがさくらを……!?」
「……いや、それはないと……思うんだけど、えっ、そういう可能性もあるの!? だって男よ?」
「俺に変装するくらいなんだから、簡単でしょう!」
「……いや、だとしても、さくらを誘拐して何のメリットがあるの?」
「それは……藤黄先輩とタイマン勝負を求めてって事では!」
「な、なんですってー!?」
すってー、すってー、と、菫の薄まった声が消えた時、こほん、と、誤魔化すように菫が一つ咳払いをした。
「ま、まあ、それは思わなかったけど、もしかして、光ちゃんとさくらは無関係じゃないのかもしれない、って事を言いたかったのよ」
菫のポケットから携帯電話の着信音が鳴った。ちらりと透を見たので「どうぞ」と一言言うと、菫は背を向けて電話に出た。
「もしもし……はい、もう用事は終わりました、すぐ戻ります……はい……はい、おそらく……もう来ているかもしれません……できる限り、私が調べます」
神妙な声に、さくらが誘拐された事に関する事なのかと思ったが、どうやら違うみたいだ。他にも色々ごたごたしていると嘆いていたし、透にすがる程切羽詰っているのだろうか。
「ごめんなさいね。もし透君が受け取ってくれるなら、それなりのお金を出すつもりよ」
「え、いや……えー、じゃあいつかお昼ご飯奢ってください」
「あら、ふふっ! いいわよもちろん。……もし大変な事になっていたら、すぐ私に知らせてね。忙しいからお願いしていると言っても、貴方は一般人だもの」
「な、なんかその優しさ怖いッス……」
「あら、じゃあもっと酷い言い方した方がいい? タダ働きして、私には一切助けを求めないでよね! とか?」
「普通に酷いッスね」
「透君はひどくされるのが好きなの?」
「いやあ、そんな事は……」
「我慢強いというか…透君は鈍そうね」
にっこりと微笑まれて言われた言葉は、まったく嬉しくないものだった。菫とはそこで別れ、透はさくらを探すついでに、光の事も探していた。
病院内には老人たちがロビーで屯して井戸端会議で楽しそうだ。活気のない病院は陰鬱で嫌な空気だが、そこを好んでやってくる人間がいるというのも、珍しい話だ。
ロビーに集まっている老人たちの中にももちろん光はおらず、元気なのかそうでないのか分からない老人集団は楽しそうに話している。
燐灰町も昔に比べれば子供の数は減っている。暫くすると過疎化が進んでいくのだろうか。少し寂しい気分になる。
歩きなれたように入院棟へ続くエレベーターへ向かう。
光や父が入院していたイメージがある場所だが、光はともかくとして父は何だったか。確か盲腸だったか胃潰瘍だったか、とにかく胃を痛めていた気がする。
――父さんも苦労してんのかなー
あんな娘がいるんだもんな。と、思いつつも、両親は光に対して別段気にしている様子は見受けられない。むしろ、問題を起こしているとされる透に対しての方が、手を掛けてくれている気がするような、しないような。
――父さんの次は俺の胃に穴が開きそうだな……
笑えない冗談に自分で引き攣りながら笑う。狭い廊下には右手には売店と食堂、少し進んだ左側にはエレベーターがあった。
少し薄暗い廊下は、通るたびにもう少し明るくしてもいいのにと思う。天気が悪い日は夜のように暗くなるのは、傍にある県営アパートやらのせいなのだろうか。
入院患者もエレベーターや階段を使って売店に下りてきている。暇つぶしを探し、運動がてら来るのだろう。
点滴台をガラガラと押しながら漫画雑誌を買っている。
そんな光景を眺めていると、その中に異質がある事に気が付いた。
「ゲッ」
思わずそんな声を漏らし、サッと柱の陰に隠れる。
彼女は一線を画していた。健康的な顔色に、好戦的な性格が滲み出ているのか、右腕にギプスをしていても堂々と歩いている。
短い髪の毛を揺らし、瞳は千歳のように奥底に鋭さを潜ませている。
透は心の中で、第二の光と呼んでいる椎名真赭が歩いている。
同じ燐灰中に通っていた一つ年下の真赭は、透の悪名を聞いて目を輝かせるような子だった。
丁度光が更に大暴れし始めた時期で、息苦しさを感じていた透には更なる追い打ちだった。
透の成果でもなく、透のせいでもない事柄を褒められるのも責められるのもいい気分ではない。
だが、ある時を境に透に対して尊敬の目を向けることはなくなった。あまりに極端なその反応に、何かあったのだろうと察することはできた。
その日、帰宅した光がズーン、と、お通夜帰りのような顔をして透の前に立っていた。
「ど、どうかしたのか?」
「……後輩に、バレた……カツラが飛んで……髪の毛バッサァって……シャンプーのCMよろしく……」
「そ、そうか……」
カツラで髪がある事がバレるというのは本末転倒な話だ。さすがの光もそのCM髪を見られてしまっては言い訳も意味がないと思ったのか、腹を割って話し合いをすることにしたらしい。
「とりあえず、私の事は黙っててくれるって! 椎名が喧嘩を売ってきたら、迷うことなく私の所に来なさい!」
ビシッ、と、先日のお通夜は何処へやら、威風堂々と宣言した。
あれほど懐いていた真赭だが、強いのが光だと知ると簡単にそちらへ乗り換えた。廊下で透と会っても無視。完全スルー。
中身のないはりぼてに意味はないと言わんばかりのアウトオブ眼中に、透はほっとしたような、なんだか腹が立つような。
風の噂で、そんな真赭が燐灰中の番長になったと聞いている。
光に負けず劣らずの好戦的な性格と腕っぷしで見事に光が抜けてゆるんだ手綱を締めあげた。
女番長の誕生に合わせて、女の時代がやって来た。番長を侍る不良女子生徒すらも周りから一目置かれるほどになっていた。
元々、燐灰中は一般生徒と不良の別離の象徴として、ブレザーの上着を脱ぐという伝統があった。
他校の不良生徒が間違えて一般生徒に喧嘩を売らない様にとの配慮なのだが、それに合わせてまだ結成して数か月の椎名真赭連合は、それぞれカラーシューズを着用するようになったという。
番長はレッド、ナンバー2はブルー、ナンバー3はグリーンと、七色のシューズがあるのだが、よくこの透輝大学病院に七色すべてが揃う。
――女だからそういうのするんだろうなぁ……
透としては分かりやすくていいかもしれないと思った。足元を見ながら歩けば、不要な喧嘩は避けられるというわけだ。
今、透の行く手を歩いている真赭の靴は、血のように真っ赤なスニーカーだった。
「おやおや真赭ちゃん、今日も真っ赤な靴だねぇ」
己の誇りだと言わんばかりに輝いている赤色を褒める、目尻を下げたおばあちゃんは真赭よりも遥かに小さい。
燐灰中の番長は足を止め、見下ろしながらにっこりと微笑んだ。
「でも、外の方が輝いて見えるんですよ」
「そうかい? ここでも十分綺麗だと思うけどねぇ」
「速く新しい赤色をつけないと、黒く濁っちゃうから……」
――ホラーかよ!
「? ああ、そうだねぇ。洗ったり天日干ししないとねぇ」
「青天させた後に足洗わせるの大好きなんですよー」
――意味違ぇ!
「おやまぁ、真赭ちゃんは家庭的だねぇ。将来いいお嫁さんになれるよ」
「はい、私もそう思います!」
――なんでそこはちゃんと答えるんだよ!
思わず声を出しそうになるのをグッと堪え、柱の陰にしがみつく。
「それにしても、あんまり外に出ない方がいいよ? せっかく入院してるんだからね、その腕治しなよ?」
「そうなんですけど……骨折で入院って、腕だし、不便だけど普通に生活できるはずなんですけどね……」
――つーかそこで話続ける気か? どうしよう……
と、思った矢先、真赭はすぐおばあちゃんと別れこちらに向かって歩き出した。
マネキンになったつもりで身体を固まらせ、嵐が過ぎ去るのをただ待つ。
気配を消した透だったが、横断歩道で左右を確認するかのごとく、目ざとく柱の影にすぐに視線を向けた。
敵が隠れていないか確認するのが癖になっているのかもしれない。あっさりと透は見つかった。
「あっ、パチモンさん」
「パ、パチ……!?」
「何やってんだよそんな所で。入院してるの? もしかして盲腸? 胃潰瘍?」
「なんで胃をやられてる前提なんだよ!」
「胃とか弱そうだなーって思ってさ。ま、他も全部弱そうだけど。神経は図太いよネ。面の皮も分厚いし」
ふふ、と意地悪に笑う真赭に、透は苦虫を噛み潰したような顔をする。
光が故意にそういった説明をしたのか定かではないが、真赭は光の強さを自分の手柄にして、優越感に浸っていると勘違いしているらしい。
だからこそ、この舐めきった態度が出るのだろう。
「そう言えば、ピカさんは元気? あの人、まだパチモンさんの格好して暴れてるんでしょ? そんな事しなくてもいいのにね、強い者が強いって当然なのに」
赤いスニーカーの爪先が、透の爪先にぶつかった。薄らと笑みを浮かべているが、これは完全に絡まれている。
光を思い出して喧嘩がしたくて疼くのだろうか。
それにしても、右腕を骨折してそんな気分になるなんて病気としか思えない。
じっと右腕を見ている事に気が付いたのか、真赭は重苦しそうな右腕をひょいっ、と持ち上げた。
「これ?」
「ちょ!」
「大丈夫、全然痛くないから」
ケタケタと笑ってブンブンと腕を振り回す。ギプスがはめられているが、確かに痛そうな顔はしていない。
喧嘩が好きな人間は大抵傷の治りが早いという、光を基準とした法則があるのを思い出し、制止する腕を下ろした。
「じゃあ、なんでギプスしてるんだよ」
「アタシだってしたくねーよこんなもん。邪魔くさいし。看護婦や医者にはっきり言ってやったよ。もう治ってる、退院させてくれって。でも、アイツ等全然聞く耳持ってねぇ……! クソ、抜け出してもすぐ連れ戻されるし、うちの親には『腕のついでに血液検査をしたら、何か異常がある』とかなんとか言って、ずーっと入院させるし……! 『学校はどうするんだよ!?』って聞いたら『アンタ、いつも学校サボって喧嘩ばっかりしてるじゃない』って言われてー! アタシだって勉強したくなる時があるかもしれないのに。四年に一度の確率だけど!」
「まあ、オリンピック並の確率より、医者の言葉を信じるよね」
「医者の一声は想像以上に重かった……パチモンさんもマジで気を付けた方がいいよ。厄介なのは女より医者だよ、医者!」
「いやあ、医者が嘘言うとは思えないし……」
「医者よりアタシの方が自分の事分かってるつもりだよ! 全く、医者ってだけでこうなんだから……!」
腕を組んでぷんぷんと怒る真赭は、鬱陶しそうにギプスを脇に挟んでいる。がっちりと固定された拳は、喧嘩相手に優しい配慮となるだろう。
「あっ、そうだ、次会ったら言おうと思ってたんだった。パチモンさん、アンタ中学校の時からなんも成長してないのね。強くなろうとか思わないの?」
「いやー……はは……」
何と答えるべきか。軽く笑って誤魔化そうとしたが、真赭は不機嫌そうに眉を顰める。
「アタシなら絶対強くなるね」
「そうかな」
「だって、ふりしてるんだよ。ふざけんなって、アタシなら一発殴るかな」
「でもまあ、俺がいいよって言っちゃったっていうのもあるしね」
そうだ、最終的に、光にいいよと言ってしまったのだ。はっきりと言わなかったが、透は明確に喜んだ。
光が守ってくれると言って、嬉しかったのだ。
今は嫌だが、と、付け足すと、真赭は更に眉根を寄せて、軽蔑すら感じさせる視線を透に突き立てた。
「……すげー、腹立つ。っていうかムカツクね。ああ、だから光先輩はああなのか……」
「?」
「もし、アタシだったら殴るよ。パチモンさんだったとしても、ピカ先輩だったとしても」
ギプスの下で真赭が拳を握りしめているのを感じる。戦闘態勢に入る前の、ぴりぴりした空気に透は一歩後ずさった。
「だから、俺はそんな事……」
真赭は何か言おうと口を開いたが、何も言わずに閉じた。
双子の透が、光の次に光を知っていると思った。他の誰にも言えずに、言わない秘密を持っているから尚の事そう思っていた。
だが、知った風な口をきく真赭に、眉根を顰めた。もやっ、と嫌な感情が胸に広がった。
――なんだこれ。嫉妬? まさか。ならムカついてるのか……?
痛くない場所から血が流れ出ているような、感覚のない痛みに困惑するような感じだった。
似たような性格だから、透とは違う視点で見えているのだろうが、それにしても、
「あっ」
真赭が声をあげた。透の後ろを見ていた。そこにはナース島谷がキョロキョロと周りを見渡していた。
「うっわやっべ!」
真赭が思わず声を出すと、地獄耳のナース島谷が、猛禽類が餌を見つけたような目でこちらを見た。そして羽を広げ飛び立つように、静かに真赭に向かって走り出してきた。
「しーいーなーさーんー」
「ギャアアアアアア!」
 病院や墓地で恐ろしいものにあうと普段の数倍恐怖心が増幅される。名指しされている真赭と共に、透も思わず逃げ出した。
「パチモンさん! ちょっとアタックしてください!」
「嫌だよあんな化け物に触るなんて!」
「なーんーですってぇええ!?」
「聞こえてたあああ!」
失言を漏らし、ナース島谷にターゲットロックオンされてしまった透は、逃げる足を止める事が出来なくなってしまった。
真赭と共に病院内を二人三脚のように走り続ける。背後からは追い上げる白い悪魔。曲がり角から突然現れた移動ベッドを押すナースの驚いた顔を、ハードル選手並の綺麗な跳躍で見事に飛び越え、どんどん病院の奥へと進んでいった。


「ハァ、ハァ……ここまでくれば……」
「はぁ……なんで俺まで……」
「ほんと、なんで一緒に来たのパチモンさん……」
見たこともなく人気もない場所にたどり着いた二人は、ゴールではないが、とりあえず止まって呼吸を整えていた。背後から迫る白い物体に、恐怖から何度も振り返ったが、地獄へ引きずり込まれそうな勢いと力を感じた。
「あの人、本当にナース?」
「ヤベー、次の注射で殺されそう……」
「骨折なのに注射されるの?」
もう立っていられないと、透は近くの壁に背を預けて腰を下ろした。ガコン、と音がした。
「そうそう。なんか、皆血液検査されるみたいだよ、別に金とるわけじゃないみたいだし、異常が見つかったらすぐに治療してくれるし、って、評判はいいんだけど……って、あれ? パチモン先輩……?」
ナース島谷を警戒しつつ、そう言い透のいた場所を見るが、神隠しにあったかのように閑散とした静寂が広がっていた。そこには透はいなかった。
「あれ……? パチモンさん……?」
訝しげに眉を顰めてキョロキョロと見渡す。人気のない場所にぽつん、と、自分だけの気配を感じる。
「どこ行っちゃったんだろ……」
ぽつり、と、呟いた言葉に、後ろからぬっと怪しい気配が色濃く広がった。振り返るのも戸惑う程に、消毒液のつんとくる臭いが鼻に突いた。
「しーいーなーさーんー?」
「は……はひ……」
ガタガタと震えながら、何もされても言われてもないが真赭は静かに両手をあげた。
右手のギプスがサイコガンのように膨らんでいるが、ナース島谷はそこをがしり、と掴み、無造作に吊り下げている布に入れ直した。
「安静にしていなさいと言ったはずですよ?」
「ご、ごめんなさい……で、でも、今ここで一緒にいた人がいなくなって……」
「椎名さん、これ以上とやかく言うとベッドに鎖で縛り付けますよ」
「イエスナース島谷」
見事な敬礼で、調教された犬のように見えないリードでナース島谷の後ろについて行く。
思わず後ろを振り返り、いなくなった透が何処にいるのか知りたい気持ちもあったが、恐怖心が勝った。そのまま真赭もいなくなり、静かな空間が広がっていた。











20150106(20140701)



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