第四十一話





燐灰町の商店街を抜けた先に透たちの住む家がひしめく住宅地がある。中心部は駅の傍にあるこの商店街だが、東に抜ければ針入町へ続き、西に向かえば日長山にぶつかる。商店街を東側に、針入町の方へ一本道をずれればそこは人気のない静かな通りに出る。進むにつれて細くなる道は、車がやっと通れるかどうか。更に進むと、道は狭まり、標識が車の進入を禁ずる。日差しが入りにくい細い路地だ。
家と家の間にふと見上げると、薄暗い雰囲気のカフェがあった。看板には細く不安定な文字で『LABYRINTH』と書かれていた。比較的駅から近い場所だが、閑散とした様子が広がっている。古びた洋式のドアを開けるとベルがカランコロンと鳴る。
目の前にはカウンターがあり、右側に大きな窓でできるだけ日差しを取り入れようとしているが、場所が悪いようで日光のピークである午後だったにも関わらず、薄暗さが晴れない。
入って来た菫はカツン、カツン、と、カウンターの中で煙草を吸っている女店主の愛想の悪さも構わず、すでに座って珈琲を飲んでいる席へ腰を下ろした。
「ごめんなさい。少し遅れてしまったわ」
ふー、と疲れたように息を吐く菫に答える気配はない。自嘲気味に小さく笑って顔を上げる。目を細めて誤魔化すように微笑みかける。
「こう見えて、中々忙しいのよ。出る前にもごたごたしてしまって……はぁ、一度何か起こると連鎖するように起きるのね。厄介ごとは芋づる式なんて、手におえないわ」
だがまだ向こうの反応が無い。額に指をついて、まだ機嫌を直さないの、というようにちらりと上目づかいで見上げる。
甘えた仕草は自然さを滲ませておらず、演技臭いものだった。それすらもカバーできない程疲れているのか、菫は眉を下げて肩を揺らした。
「どうでもよかったわねそんな事。そうね、それより今を楽しみましょう。折角の二人きりなんだから……」
そっと手を伸ばして頬を触る。ゆっくりと芸術品を触るような手つきに、ぴくりと反応する。
「あら? 少し見ない内に太ったのかしら……? 駄目よ、貴方にはずっと強くいてもらわなくちゃいけないんだから。鉛君の為に……ん? 新橋君、髭生えてたの? すごいざらざらしてるわ……」
「あ、あの?」
「へ?」
予期せぬ相撲取りのようなくぐもった声に菫は呆気にとられるように瞠目した。
身を乗り出した身体をゆっくりと直し、そしてゆっくりと丁寧に、牛乳瓶の底のような眼鏡をかける。
向こう側には同じような眼鏡をかけた男性がいる。身長は高く、だが横幅も広い。赤いチェックのシャツにボンレスハムがジーンズを履いたようにパツパツの足。
横の席には紙袋から飛び出ているポスターを丸めたものが何本か飛び出ている。その紙袋には大きな瞳と目もくらむピンク色の髪をした少女がウインクしている。
額から汗を滲ませ、いきなり目の前に座って来た菫を見て戸惑っているようだ。
「さっきから、一体なんですか? そちらさんは誰ですか? オラに何の用が?」
訛ったしゃべり方で告げられたその奥、二つ程離れた席に、携帯を片手に持って唖然とこちらを見つめる待ち合わせの相手、新橋透を発見した。思考が停止した。



「殺しなさいよ」
「いや、その……」
新橋透の前の席に座りなおした菫は机に突っ伏し絶望を背負ってしょげていた。
「いいから殺しなさいよ。というよりも……なんで……! なんで言ってくれなかったの……!」
「すみません。何か意味があるのかと……」
「いきなり! 勘違いして! かっこつけて話していた相手が見ず知らずの人間で、ただただ困ってる姿を見て死にたいと思わないわけないでしょ! 殺せ! 殺しなさいよォォオオ!!」
うわーん! と叫ぶ店内には先ほどの男性はおらず、気まずい空気を放つ二人の内一人が出て行かなければならないだろうと気を使ったのだ。その気すらも菫に重くのしかかる。店内の薄暗い雰囲気と相まって、菫は絶望の淵でコサックダンスを踊っている。
「もう嫌! 碌に睡眠もとれてないしストレスも溜まってて、それでこれって何!? 私の美貌とスタイルに嫉妬した女の呪いでもかかってるの!? あぁあああう!!」
「ちょ、ちょっと落ち着いてください……」
「無理! 暫く放っておいて頂戴!」
頭を振って喚く菫に、店長はジロリと透を見た。痴話げんかならよそでやれという視線だが、透はここから動けずにいた。
しっかりと机の下の足は踏みつけられ、机に伏せた菫はぐすんぐすんと鼻を啜る。
透は大きなため息を吐き出しながら、長いウェーブした髪の毛が机の上に散らばっている様を見下ろす。
事の発端は朝八時、携帯が鳴りだしたことだった。折角の休日で暫く寝ていようと思っていたというのに、また光がどこからか連絡を寄越してきたのだろうと寝ぼけながら携帯に出ると、電話番号を教えた覚えのない菫から話があるとの事だった。
「は、はあ」
ほぼ起きていない頭でとりあえず返事をした。
『8時30分にカフェ、LABYRINTHで待つわ』
「はあ」
『それじゃあ』
プツ、と通話が切れてまた布団に戻り寝始めた透は20分後、バッと布団を蹴りあげるようにして立ち上がり、慌てて着替えてカフェへと向かった。
「やばいやばい遅刻だ!」
しっかりと言葉を咀嚼して理解した時にはすでに約束の時間だった。初めて行く場所で少し道に迷いながらもついてみれば異様な雰囲気の店。恐る恐る入ってみると異様な店に似つかわしい不健康そうな店主が煙草を吸いながら向かいいれた。菫はまだ来ていなかった。
それから10分後、あの太ったオタクのような男性が入ってきて、更に10分後、菫が入ってきて、堂々と別の男の席に腰を下ろしてあの醜態をさらしていた。
――なんで俺がこんな目に……
遅れてきた菫を咎める暇もなく、菫はふらふらと透の席に近づいて座った途端泣きだしてしまい、透は言葉も行動も全てタイミングを見失っていた。
「ご注文は?」
煙草を咥えた店主が、慇懃無礼な態度で注文を取りに来た。
「あー、と、ミルクティーと……」
「エスプレッソで」
鼻をすすり、くぐもった声でしっかりと注文した菫は店主が去るとゆっくりと顔を上げた。不機嫌そうに眉を顰め、目元を赤く染めて透をジロリと見た。
「……遅れてごめんなさい。大切な話があるのよ」
「そうですよね、そのために俺来たんですからね」
「うん……ぐすっ……こんな恥ずかしい事、誰にも言わないでね」
「分かりましたよ」
ハンカチで目元を吹いた後、パンパンッ! と、自分で頬を叩いた後キリッ、といつも通りの四季菫に戻った。自信満々で美人でスタイルのいい、鉛の右腕の四季菫に。
「実は、昨日からさくらが帰ってこないの」
「え!?」
思わず声を出すと菫は更に続ける。
「おばさんから昨日の夜、さくらを知らないかって連絡が来てね……針入の不良たちで探したんだけれど、どこにもいなかった。私も鉛君も別件で用事があって捜索には参加できなかったんだけれど……」
「だ、大丈夫なんですかそれ!? 警察に言った方がいいんじゃ……」
「まあ、心配だけれど、相手はあのさくらよ。普通の女子小学生じゃないわ」
「で、ですけど……」
「それに、警察に連絡できない理由は……隣が鉛君の家だからよ。ヤグザの跡取りが近くにいる現場での事件なんて、世間的にも内部的にもよくないわ」
そうはいっても、と、遠くにいる藤黄北斗の姿を想像する。腕を組み、俺に全責任を持たせようとする番長の姿。
『俺は確かに言ったはずだぜ。松平ちゃんを頼むと……お前、一体何してたんだ? アァ!?』
不条理に責められる未来が簡単に想像できる。
「……それで、俺に、どうしろと……」
菫の放つ言葉が簡単に想像できるが、あえて透は聞いた。
「さくらを探してほしいの」
――やっぱりか!
「探しますけど、でも警察に連絡は……」
「駄目よ」
「駄目って……そっちの事情は分かりますけど、いくらなんでも情報が少なすぎるでしょう」
「さくらは昨日、同級生の友達と出掛けたっきり帰ってこない。その子に事情を聞くと、午前中遊んだ後、昼前には別れたそうよ」
「はあ」
「普通なら家に帰るはずなんだけど、さくらは今まで戻ってない。そこから消息が不明だったの」
ごくり、と唾を飲み込む。カフェの薄暗い空気に飲まれそうになっていると、どこからともなく珈琲の香りが漂ってくる。煙草の煙と混ざり合った、あの臭い。
「だったって……何か知ってるんですか?」
「もちろんよ。私を誰だと思ってるの? 情報収集ならこの眼鏡さえあれば何でもできるもの」
「じゃあここに入る前からかけておけばよかったんじゃ……痛っ!」
きらり、と自慢げに眼鏡を取り出す菫に思わず突っ込むと、踏まれていた足を踵でぐりぐりと踏みなおしてきた。
「遊んだ相手、桔流君の話だと、さくらと公園でブランコやらゲームやらで遊んだ後、かくれんぼしながら帰っていたそうなの。」
「かくれんぼ?」
何とも子供らしい遊びだと思っていると、カウンターから面倒くさそうに店主がミルクティーとエスプレッソをトレイに乗せて持ってきていた。菫の肩越しにちらりと確認する。
「裏路地をね。家と家の隙間とか、30秒待って探すの。そうやってゆっくりゆっくり帰っていると、ある場所でさくらを探していると、どこにもいなかったのよ」
恐怖を煽るように、ゆっくり、声はどんどん小さくなっていく。あのツインテールのさくらの後ろ姿が、暗闇でふっ、と煙のように消える様を想像して少し怖くなった。
「桔流君は気まぐれなさくらの事だから、飴が切れたから自分だけ帰ったんだろうって思ったらしいけど、さくらは帰ってないの」
「お待たせしましたぁー、ミルクティーとエスプレッソ……」
かちゃん、と透の前にミルクティーを置いた瞬間、菫の左手がバッと持ち上がり、店主の首に何かを突きつけた。
早い動きに真正面にいた透も遅れて反応し、目で追った。
喉に突きつけられていたのは、席に備え付けられていたフォークだった。
「ここで消えてからね」
ギラリとフォークの銀色を輝かせ、菫はにっこりと笑って店主を見上げる。濃い化粧の女だったが、眉だけは剃って描いていない。ヴィジュアル系バンドの一員にいても違和感のない容姿をした人が、トレイを持ったまま硬直している。
「……ちょっと、何だよオイ」
「透君、トレイ取ってあげて」
そう言って片手で持っていたトレイをおそるおそるとると、店長は憮然とした態度で両手をポケットに入れて菫を見下した。
「客は神だとかいうが、この場合は何なんだろうな」
「ただの学生です。私、この店の客になったつもりないですから」
媚びた声音で挑発した後、店主が身体ごと首を反りながら菫へ距離をとった。菫が横にフォークを振るが簡単にかわし、菫の胸倉を掴み上げた。
ガタガタと音を鳴らしながら、そのまま前へ引っ張り机から距離を取らせ、床に叩きつけようと思ったのだろうが失敗だった。
広い空間で優位になったのは菫も同じく、足を払い、そのまま床に押し倒し腹に足を乗せ踏みつける。
一瞬の出来事に透は思わず席に座った。柔道を見ているような見事な流れに思わず拍手すらしそうになった。
「びっくりしました」
素直に感想を漏らすと小さく笑った。
「ただのお飾りで鉛君の右腕やってると? これくらいできなくちゃね」
「このガキ……!」
「助けを呼んだって無駄ですよ。人通り、ごらんのとおり無いみたいだし。警察を呼ばれても困るのはあなたの方ですしね」
「な……」
「どこでしょうね。もしかして、カウンターの珈琲豆のどこか? それとも冷蔵庫の中? 店の裏? どこかに穴でも掘って隠してる?」
ぐりぐりと腹を踏みつけても、店主は珈琲豆を奥歯に仕込んだように苦々しい顔をするだけで反撃してこない。
「陣副橡。二十九歳、元殺し屋で今は毒専門の殺し屋に毒専門の店を構えている……まあ、裏の顔はって事ですけどね」
「なんでそれを……!」
「調べただけです」
「何が目的だ。顧客の名前は言わないぞ!」
「別にこの店はどうなってもいいんです、が、ここ、宝野組の島ですけど、よくこんな事できますね」
「…………」
「この事は黙ってますから、これから私が聞く事を真実で答えてください」
「……会話なら机と椅子が必要だろ」
憮然と答えた店主に菫はじっと見つめた後上から退いた。
少し崩れた椅子を直し、窓際に陣副を座らせてその隣に透、陣副の真向いに菫が座った。
完全に壁にさせられていると思いつつも、隣の陣副は煙草を咥えて火をつける。
「別に逃げやしねぇよ。ここは私の店だ」
「世の中には、ヤグザの取り立てが怖くて自分の店を放火するような人間もいるんですよ。さて、昨日小学生の女の子が来ましたね?」
「さあな」
ふん、と鼻から煙を出しながらふてぶてしく返事をした。菫がにっこりと微笑んだまま、机の下で踵を思い切り叩きつけると、ぎりっ、と歯を食いしばって机に額から倒れた。
「〜〜〜っぐぅー! こんの……!」
陣副が蹴り返し、更に菫が応戦すると沸騰した鍋の蓋のようにガタガタと机が揺れ、カップや備え付けられた小さな瓶が倒れはじめた。
「ちょ、こぼれる! 壊れる!」
「年上に対する敬意がねぇな!」
「敬意って年齢で計れるものじゃないでしょう?」
暫くするとお互いに息を切らして動きが止まった。
呼吸を整えた後、お互いに何事もなかったように煙草を吸い始め、髪の毛を整えて仕切り直した。
「昨日、女の子が来ましたね?」
「…………ああ、来たよ。ツインテールの子だろ?」
「その子は今どこに?」
「昨日この店からすぐに出て行った」
「それはいつ?」
「正午過ぎくらいか……店にいた男と一緒に」
「男?」
「若い男だよ。正午前に入って来た女の子に、そこに座っていた男が手を振ったんだ。そうしたらニコニコと笑って駆け寄ってすぐに出て行ったよ。兄弟だと思ったが……なんだよ、その子が行方不明なのか?」
「まさか、さくら誘拐されたの……?」
「あらあら、そりゃ困ったね」
「ここで誘拐が発生したなら警察も介入しますよ陣副さん」
「チッ、餓鬼が粋がってんじゃねぇぞ」
「年増が威勢のいい事言ってんじゃないわよ。切符持ってこられて踊れるほど、貴方に後ろ盾はあるの? あったらこんな所でカフェの蓑被って商売してないわよね」
二人の女から放たれる殺気に、透は背筋を伸ばして固まっていた。椅子の上に座っているのではなく、椅子の上に置かれている状態だった。
緊張した状態で、さくらが行方不明という現実を加味していた。
「その男の特徴は?」
「さあ、覚えてないな」
「金でも握らされましたか。まったく、いい年して金に目が眩む女って、みすぼらしいというか浅ましいというか……」
「ハァ!? ふざけんな違ぇよ! 本当に特徴のない野郎だったんだよ! 人ごみの中石を投げたらソイツにあたるような……」
これ見よがしに挑発する菫に眉を吊り上げ机を叩き、息巻く陣副はちらりと透を見た。言葉を切って数秒考えた後、まじまじと透を観察し始める。
「な、なんスか」
「……いや、なんとなく……似てるっちゃー、似てる気がして……」
「は!?」
「透君が犯人だとでも? だったら簡単でいいわね」
「ちょ!?」
「冗談よ。で、他に何か特徴は?」
小さく笑った後、頬杖をついて陣副に顎をしゃくって促すが、煙草の煙を菫の顔に吹きかける。
「さあね、別に、アタシもコイツの面は忘れねぇって、思ってたわけじゃねぇしな……ああ、そういえば、どうにも臭かったな」
「……お風呂に入っていない臭い?」
鼻を摘み、眉間に皴を刻み込みながら煙をはらう。これ以上波風を立てないでおこうという様子だが、とても不快そうな顔だ。
「いや、薬だよ。病院のあの臭い……消毒薬とか、ああいう菌を殺そうとする嫌な臭いさ」
「病院……」
そう言うと菫は立ち上がり、透も立つように促した。
「情報提供、どうもありがとうございます」
「おーおー、さっさと出てけ」
「いくわよ、新橋君」
「え、でもミルクティー……」
「毒専門の店で出されたミルクティーを飲む気になれるの?」
「………」
透は黙って立ち上がった。菫がにっこりと微笑み陣副に言った。
「御馳走様でした」
からんころん、と、ドアのベルが鳴り、静かにドアが閉じた後、陣副は背もたれに身体を預け、鼻で笑った。
「子供のくせにいっちょ前に……ムカツクねぇ」
ぴんっ、と、菫が置いていったお金を指で弾き、独り呟いた。











20141219(20140701)



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