第四十話





髪に櫛を入れている最中に他人と目が合うのは、何ともいたたまれない気分になる。いきなり生で視線が絡み合うのも少し嫌だが、ガラス越し、客と店主という立場でそんな風にぶつかると少し戸惑う。
だがすぐに目を見開いた。櫛を置いて頭を撫でながらドアを開けた。明るい日差しが差し込む午後の事だった。
日曜日だというのに客は誰一人として来ることはなく、いつもと変わらず一人寂しく自分で自分の髪を弄って時間を潰していた。
ドアが開き、新鮮な空気が店内に流れ込んでくる。長い間忍しかいなかった空間に新たな人間が足を踏み入れる。やっと店が店として生き返ったように、空気がクリアに済んでいく。
「驚いたよ。まさか君が来るなんて」
「本当に、何年ぶりだろう。元気そうで何よりだ、藤納戸」
小さく笑うその顔は昔と変わらずに綺麗なままだが、その頭部を見て忍は目を細めた。生えかけの雑草のように短く刈られた柔らかい髪の毛は、見るたびに勿体ないと思う。
「……まだその髪型なんだね……」
「ふふっ。似合わないか?」
「そんな事は無い。君にはロングもショートも似合うと思うよ。さ、どうぞ木朽君」
入ってきた人物は制服を脱ぎ捨てた同級生、木朽星だった。彼は今日は彼の姿になっていた。だから忍は木朽君と呼んで店に招き入れた。
木朽も慣れた様子でそれを受け入れ、中に入った。
「誰に聞いた? 繁盛はしてないから噂も何もないと思うんだけど」
「その噂だよ。不気味な店があると聞いてピンときてね。君がやっているのだろうと思ったら案の定だ」
「もっと僕の腕を見込んでほしいものだけどね」
「まあ、君はロリコンが保育士をしているようなものだからね。皆から煙たがられるのも致し方ない事だと諦めた方がいい」
例えに悪意を感じるが、在学中に警察に厄介になった身としては言い返す言葉はない。店内を見渡した木朽は客が待つソファーに腰を下ろす。
「中々綺麗にしているんだな」
「意外?」
「いや、まあ、相手が髪なら納得か。藤納戸は髪に対しては紳士だったな」
「一応女の子にもそれなりの対応してたと思うんだけど……」
「はははっ。それ、彼女たちに言ってみなよ。頬が腫れあがるから」
その中に木朽も入るのだろうかと、忍は鏡の前に立って木朽を見下ろした。
昔から一体どこに本体があるのか分からないような人だった。初めて木朽星を認識したのは燐灰高校の入学式の時だ。新入生代表として壇上へ上がった木朽は、学ランを着てキリッとした目元と少し高い声だったが、確かに男子生徒であった。背筋を伸ばし、声を張り、堂々とした姿に女子生徒はくらくらと眩暈を起こしたものだ。
教師たちも新入生の凛々しさに、これからを大いに期待し満足げに頷いていた。
壇上の生徒がこれから、生徒達を引っ張っていく大きな存在になると確信していた。
入学式が終わり、そんな木朽と同じクラスになったと、きゃあきゃあと女子生徒が騒ぐ中、教室に入ってきた木朽は騒ぎたつ女子生徒と同じ制服を着て入ってきた。生徒は目を白黒させ木朽を向かいいれたが、木朽は小さく笑みを浮かべながら自分の席についた。しっかりとスカートを押さえながら着席する姿は、壇上の学ラン姿の人間と同一人物だとは思えなかった。
それから毎日、殆ど一日毎に学ランとセーラー服を着まわしていた。不思議な事に、驚いたのは最初だけだった。二日目には新しい環境になじむように、他の生徒は木朽の姿も新しい授業や教科書のように徐々に目新しさをなくしていった。
「あれ、木朽さん今日はセーラー?」
「あー、今日火曜だっけ?」
「じゃあ木朽さんと体育一緒なのね!」
といった具合である。
体育の授業で着替える時は、学ランを着ていれば男子の方に、セーラー服を着ているときは女子の方に行く事に、誰も何も疑問を持たなかった。
学年一位の学力と、学級委員を率先して立候補するほどの面倒見の良さ、運動神経抜群でスタイルもいい。学校一の有名人になった木朽は三年の時には生徒会長の役目を果たした。
ショートカットに小さな顔に、薄い唇、象牙のような鼻、少し切れ目の瞳のパーツは、男でも女でも通用するように配置されていた。
細い首に似つかわしくないごつい肩幅の下には、女のように細い腰があり、キュッと引き締まった尻は少年のように薄く、足も女のように肉付きは無く、男のように頑丈でもない。
女は木朽のファンクラブを作り、男は木朽を面白い奴だと眺めていた。
だが、その中にも下賤な奴はいるもので、ある日木朽を体育館の倉庫へ呼び出し、男か女か確かめようとした。男子三人相手に、細い木朽は向かい合っていた。袋の鼠だった。
「お前どっちなんだよ」
「どっちって何が?」
「とぼけんなよ。今すぐ全部脱いでみろ」
「何故?」
三人相手に怯むことなく、いつもの柔和な笑みと声音で相手をする木朽に、苛立った三人は胸倉を掴み服を捲ろうとした。
それを、セクハラを窘める女子のように手の甲を思い切りつねって引きはがした。
痛みに眉を潜ませたが、やっぱり女かとニヤりと笑った。
「おい」
仲間に顎を癪って自分達の勝利を確信した瞬間、ガチ、と、歯と歯が噛みあう音が耳元で爆発したように響き渡った。
木朽の細い足が振り上げられ、先ほどの授業で女子の歓声の中、ゴールを決めた時のように顎を蹴りあげた。一人は気絶し後ろへ倒れた。
「おい!」
一人が慌てて駆け寄ろうとすると、今度は右耳を狙って回し蹴りを決めた。そのまま横へ倒れた。
「お、おい……」
後ずさる一人が壁に背をぶつけ、びくっと怯んだ瞬間、震える膝の間に足の裏を通過させる。股間ギリギリを狙った足技に腰を抜かせる事もふさぐ様に足の間から微動だにしない。
「おい」
「は、はいっ!」
「私が男だろうが女だろうが、何か関係あるか? 女の子ならそういう意見を言うのはもっともだけどね」
「はいっ!」
「君たちには迷惑をかけていないだろう? これは私個人の根深い問題でね。単なる自主性で個性で趣味なんだ。分かってくれるね?」
「はいィィ!」
「すまないね。次絡んで来たら全員の睾丸を潰す事になる。それは私も嫌だ」
胸に手をあてて申し訳なさそうに首を傾げる木朽に、肩を竦ませそう叫ぶしかなかった。
生徒会の不祥事だと騒がれたが、事件の内容を知ってどんどん炎は沈静化した。その後、木朽は変わらず男や女になっていた。
その頃、忍は髪フェチになり、髪の声を幽霊だと思って引きこもり、山にこもり、露出狂として警察に逮捕されていた。二年の夏の事だった。
久しぶりに学校に行くと木朽が生徒会の人間として口頭で注意しようと忍に廊下で声をかけてきた。
「やあ、藤納戸忍君だね?」
「あ、はい」
 同学年だが思わず敬語になる。相手は生徒会の腕章をしており、入学時から有名人の木朽星だったからだ。
「久しぶりに学校に来たと思えば、まったく……皆心配していたよ」
「はあ……」
「? どうかした?」
「いや、髪……」
「あぁ……やっぱり気になる? 女の方がよかったかな……少し似合わないね、この格好では」
学ランを身にまとった木朽が毛先を摘まむ。髪の声が聞こえ、生きているように思えた忍は暫く髪を切らず、肩にかかるまで髪を伸ばしていたが、木朽も肩につきそうなほど伸びていた。
「へえ……」
「……さっきから、間の抜けた顔をして、どうした? 体調がすぐれない?」
「いや、木朽君も苦労していたんだなと思って」
「え?」
顎に指をかけ、まじまじと木朽の髪を見る。痛んでもない、艶々とした髪の毛はほつれもなく綺麗に流れ落ちている。
入学時のようにショートヘアーなら印象も変わっていただろうが、今学ランを着ていても女に見えてしまっている。今のベクトルは女に傾いているのだろうか。女ブームが来ているのだろうか。様々な所で噂が流れていた。
だが、その見た目の美しさとは裏腹に、髪は悲痛な声を上げている。
「よくわからないけど……春くらいに何か大きな転機があった? ……うん、ストレスが解消されてる……それからは小さな波しかない……今はとても気分がいい時期?」
「…………」
「……? 木朽君?」
「……ああ、うん、そうだね。春だったからね」
暫く呆然とした後、取り繕うように笑みを浮かべて身体を忍からずらした。すぐにでも逃げたいというような、そんな空気を放っていた。
「春は新しい季節だからね」
大した注意もかけずに木朽は去った。忍は前科が付いた自分の噂でもちきりであろう自分の教室に行くのが面倒くさいなと頭をゆっくりと撫でた。自分の髪に慰めてもらおうと思ったが、髪は何も話さなかった。
翌日、校門で木朽が朝のあいさつ運動をしているのを見て、忍だけではなく、行く生徒全員が目を見開いた。
「そ、そんな……!」
「どうして!?」
「いきなりすぎるだろ!」
「おはよう! 今日もいい天気だね」
にっこりと微笑む木朽星は、修行僧のように頭を丸めて学ランを着ていた。まさしく男にしか見えないその姿に、男子も女子も目玉を飛び出させていた。
一体何がどうしてそうなったのか。木朽の考えは常に読めないが、今回ばかりは暫くこそこそと、明るい噂として髪型を持ち出せはしなかった。
「何かあったのかしら」
「もしかして失恋?」
「木朽様を振るような人間がいるの?」
「というか振ったのって男? 女?」
「あー、せっかく見た目女みたいだったのになー」
「残念だな」
その時忍は自分のせいだとは微塵も思わず噂を噂として受け流していた。元々接点のない二人だったが、それ以降同じクラスになっても一言もしゃべる事は無かった。
そんな木朽が約十年後、自分の店にやってくるとはどういう事だろう。昔話を咲かせられるほど種を持っているわけでもない。忍は何か大切な用事があるのだろうとじっと木朽から切り出されるのを待っていた。
「いい店だね」
「だろう? 閑古鳥に愛されてるけどね」
「はは、違いない。まあ、落ち着いて話はできるな。私がここに来たのは仕事でね。学校を卒業してから外国にいたんだ」
「ああ」
学年一位の学力を持っているのに、木朽は進学を選ばないと教師も巻き込んだ騒ぎになった。一体何故と他人がごちゃごちゃと質問攻めにしても、木朽は人当たりのいい笑顔でそれをかいくぐっていたのを知っている。
「本当にもったいないと今でも思うな。木朽君はどんな目標があったんだ?」
「目標なんてそんな大層なものはない。親にも申し訳ないと思うが、私はここから逃げたかったんだよ」
「それでいきなり外国に行くって、結構極端だね」
「……とにかく逃げ出したかったんだ」
「で、逃げた木朽が何故ここに?」
散髪用の椅子に腰かけ尋ねると、木朽は少し唇を尖らせ、考えるそぶりを見せた。
「親に会いに帰ってきたんだけど、ついでに仕事もまかされてね……その仕事について調べていると君が出てきたから。ちょっと尋ねたいことがあって来た」
「僕? 何かしたかな」
色々やらかした事件は棚にあげてさっぱり分からないと首を傾げる忍に、木朽は鞄を漁りながら簡単に聞いた。
「新橋という家を知っている?」
「うん、小さい頃からの友達だよ」
「私の仕事は料理人でね。そのついでに派生した仕事が殺し屋なんだ」
「へぇー」
 どうでもよさげな返事に、木朽が目を見開き忍を見た。身体にはどこも緊張した部分は無く、自分の店の中でリラックスしている。
「……もっと驚くかと思ったよ」
「いや、なんていうか、人間らしい仕事だなと思って」
 適当に理由を言えば、木朽は目を細めて笑った。忍が見た中で一番自然な笑顔だった。
「……君は本当に変わってるな」
「そうかな? 君も大概変だと思うけどな」
「それはよく言われるよ」
にこりと、性別不詳の同級生は黒いスーツがよく似合う。殺し屋か。手に血がついたら現場からすぐ離れないで蛇口を捻ってしっかりと指の間も綺麗にして立ち去るのだろう。
几帳面そうで潔癖そうで、他人を受け入れる顔を見せる癖に、その足が踏み入ろうとすると蹴り返すような、幼稚な残虐性を持っていそうだと、自分の髪の毛を撫でながら眺める。髪の毛が短かく、一体彼にこの十年何があったのかうかがい知ることはできない。
何故殺し屋になったのかも、その時の感情も何も分からない。
そして今この瞬間すらも。
「実はその家族を殺してくれと言われてね。旧友の知り合いかもしれないという事で少し躊躇していたんだが……どうだろう。殺してもいいのかな?」












20140622



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