第三十九話





喉が焼けるように痛いとはこのことかと、透は地面にうつぶせに倒れながら思った。喉が焼けただれたアルミ缶のように、痛みを吹きすさぶただの穴と化していた。呼吸するたび空気ではなく、硫酸が肺に向かっている感覚に襲われ、呼吸する事を恐怖する。
目の前に立つ古代は顎に指をあてて、ふむ、と、首を傾げて虫の息の透を見下ろしていた。
『僕的にはもう少し頑張ってほしいんだけどな、透君』
というメモを見せようとするが、透は肩で息をするだけで返事をしない。おそらくもっとを望むメモが頭上にあるだろうという想定がついているらしく、自分の息が整うまで顔をあげなかった。
古代は右往左往に動き、メモを見せつけようとしたが不自然なくらい透は顔を伏せつづけ、やっと呼吸ができると顔をあげると、至近距離にメモを押し付けられた。
「み、見えませんって」
ぐりぐりと額に指の関節も押し付けて地味な威圧を与える古代に、透は喉を押さえながらメモを奪い取った。
「っていうか、最近めちゃくちゃスパルタじゃないッスか。山の中で奇声を発しながら一日中走るとか、腹筋100回、スクワット100回、家に帰るときは息をずっと止めたままとか、拷問じゃないッスかこれ」
『別に普通だよ普通!』
「いや、でも前はもうちょっとマイルドだった気が……」
『気のせい気のせい』
そうは言いつつも、光を見た後から徐々に古代は透のトレーニングを厳しくしていった。あの双子の妹がいるのだから、透もあれくらいは強くなるだろうという見本というか、見事に比較対象として扱われた。
妹が強いのだと言っても、あまり信じていないというか、あまりピンと来ていなかった古代ははっきりと理解した。
『これをくりかえせば、とりあえず技術を身に着ける土台ができる。っていうか、もう出来てると言ってもいいね!』
「えっ!? 本当ですか!?」
『マジマジマジだよー』
「古代紫! お前の言う通り学校に通っているぞ! 在学証明書だ! 弟子にしろ!」
『いやー、ぶっちゃけ透君が短期間でここまでレベルアップするとは思っていなかったよー! これなら今年中に光ちゃんに勝てるかも!』
「何勝手に目標立ててるんですか!?」
「おい! こら無視するな!」
『あの子見てたら血が騒いじゃってね! もし僕があの子に恨みを買っても、弟子の透君が守ってくれるんじゃないかって思ってね!』
「古代紫! 俺をボディーガードにしたてあげようというのか!? ふふ、いいだろう! そのかわり弟子になろう!」
「恨み買うつもりなんですか!? やめてください俺に火の粉が飛び散ります」
『まあ、最終的に透君が大変な目にあうだけだから、僕はここで見放してもいいんだけど』
「悪魔か!」
「貴様らいい加減にしろ! 俺を無視するな!!」
ドガッ、と、古代と透の間に武器を振り下ろす。地面が割れたが、透は一拍間をおいて数歩後ろに下がった。
「うわ」
「……貴様、そんな反射でよくここまで生きてこれたな……」
「えっ、いや、反射は魚並にいいはずだと思うけど……」
恐怖を突きつけられれば、水を得た魚のように俊敏に動ける自信があると思うが、今、疲弊している為か、反応は良くなかったみたいだ。
常に学校で友達ができ、透への暗殺を手抜きし始めた千歳の間を縫うように、エンブリオが透の心臓を狙い始めた。
授業中だろうが帰宅中だろうがどこだろうがお構いなしで、千歳以上の手数と力で毎日古代の所に来るまで、中々安心できないでいた。
日長山に来ればエンブリオは古代に弟子にしろと売り込みに忙しく、透は後回しになる。
それもあってか、とりあえず家に帰る前に古代の所でぎりぎりまで修行して、最後の最後にエンブリオを古代に押し付けて足早に帰宅する。その後どうなっているのかわからないが、一晩中自分の価値、将来性を熱く語られるらしく、次の日は恨めしそうな空気を放ち、透を無表情のまま見るのだ。
元々、光のおかげで大きな事件に巻き込まれる事などしょっちゅうあった。透は被害者だと思っているが、だからといって自分は至って普通だとは微塵も感じていない。異質な光よりは、いたって普通だ。だが、本当に一般人とは言い切れない。あまりにも透は押し黙りすぎた。
『普通じゃないよ透君は。喉の柔軟性もそうだけど、あの子はね』
古代が文字だけで言いよどんだ言葉を透は汲み取る事が出来た。おそらく自分が言おうとしても、そのように言葉が切れてしまうだろう。
――俺は普通じゃないけど……アイツは普通になりかけてる。
思い浮かぶのは、高校に入って透を殺害しようとした櫃本千歳だ。ここ最近学校で会うと、おはよう、こんにちは、さようならの言葉の後にナイフが適当に投げられる。それは当初と比べると赤ちゃんのキックのようで簡単にかわすことができる。命を削る反射ではなく、挨拶と同化した反射神経の反応。
殺意をおざなりにしてまで優先しているのは友達だ。休日に見かけた櫃本千歳は、いつもナイフを持ち歩いているような危ない人間ではなく、そこらへんにいる普通の友人とショッピングを楽しむ女の子にしか見えなかった。
それが少し羨ましく思えた。煉瓦とは友達だが、一緒に舎弟という言葉もついてくる。
千歳は当初敬われる立場にあった。
だが、街で見かけた時は横に並んで歩いている。皆同じ空気、歩幅、雰囲気がまとまっていた。一人歩いていた透はよかったと安堵しつつ、憑き物が落ちたかのように短い髪の毛で笑う千歳を羨んだ。
「見切りが早いというかなんというか、危機察知に磨きがかかっているな。無駄に」
「えっ、本当に!?」
「まあ、攻撃のさじ加減を判断しているだけで、俺はいつでも本気で殺そうと思って攻撃しているから意味はないな」
「そろそろやめてもらえませんか」
「やめてほしくば古代紫に言え。俺が奴の弟子になれば足を洗ってやる」
「食器用洗剤つけるので引き取ってくれませんか?」
『高級マンションつけられてもお断りするよ』
「土地が付いても尚駄目なのか! なら菓子折りはクソの役にも立っていないだと!?」
『もー透君適当な事ばっかり言わないでよねー。僕この子苦手だって言ってるじゃん』
「古代さんの苦手と俺の命どっちが大切ですか」
『僕は僕の事だけしか本気で心配してないよ』
学校の教師の方が透の事を心配してくれるだろう。それはお金が間で動いているからだろうが、それにしても古代はやっかいだ。透が古代を大工仕事から始まった尊敬を向けているのだが、それを愛情で帰してくるわけではない。まるでキャンパスに絵を描く様に、自分の技術を費やすが、決してキャンパスを愛しているわけではない。
そこに描かれた自分の能力を他者に浮き彫りにすることによって満足感を得ているだけに過ぎない。年を取ると自分の培ったものを若者に伝えたいという本能が働くのだろう。
「つまり、お前を倒せば弟子になれる。これは奴からの試練……! 全て俺の為のお膳立てという事か……!」
「ちょ、ポジティブにならないで! ないない! 古代さん君の事苦手だって言ってたし!」
「なん……だと……!? この俺を欺いたというのか!? ならば死ね!」
「正解なし!」
キャリーバッグから取り出した棒を振り回すエンブリオの攻撃をかわす透を見て、古代はさらさらと筆を走らせる。
『そのまま森一周しておいで』
「えええ!?」
そう叫びながらも、逃げる先は森である。透とエンブリオが森へと消えた後、タマにエサをやろうと家の中に入る。更にドッグフードを盛りつけながら、古代は森の中のエンブリオの攻撃の音を聞きながら顎を指で触った。
――それにしても、計画が狂っちゃったな……。
本来ならば、古代は普通よりも少し強くなった時点で荒療治を加える気でいた。船で沖へ出て、透を置いて泳いで戻ってこさせようか、高い山の上に放置して一人で下山させようか、色々考えていた。
命の危機を感じれば、飛躍的に力はつくだろうと昔ながらの考えに習い、古代もそう信じていた。
だが、透は常に命の危険にさらされており、おそらく海の真ん中に放置しても、山の中に放置しても、毎日学校へ行くときと変わらない危険しかないのではないかと気が付いたのだ。
――殆ど毎日殺し屋に命狙われてるんだもんなー……師匠である僕の修行方法が生温かったら、透君に舐められちゃうし……
普通の子以上の成長力がある事に喜びつつも、ハードルが上がってしまったような気がして気負ってしまうのも事実。
「ワン!」
タマが尻尾を振ってドッグフードに飛びつく。がつがつと食べる姿は見ていて気持ちがいい。森では木々が倒される音がしているが、透の断末魔は聞こえない。
――……どうせなら殺し屋もう一人くらいつけようかな
タマの頭を撫でながら考えるが、思い浮かぶ元同僚たちはエンブリオのように弱くなく、容赦もない事を思って頭を振った。命の危険があっさりと現実になる。透レベルならお金を払わなくてもプライベートで観光ついでに殺してしまいそうだ。冗談でも提案してはいけない事だ。
――しかも、最近このあたりに殺し屋集団が入ってきたとか言ってたしなー……でもオイスターも引きこもりだからデマかもしれないし……
足を洗ったというのに、こんな島国のとある場所に何故集まってくるのかと古代は溜息を吐いた。



「類は友を呼ぶというわけだな……俺は、ここ最近貴様の評価を変えなければならないと、思っていたところだ……ハァ……」
「……ゼーッ、……ゼーッ、ハッ、そりゃ、嬉しい、よーな、はぁ、はぁ……困るよーな……はぁ……ゲホッ!」
腰をおろし、盤を傍に置きながら棒を抱え、涼しい顔を作ろうとしているエンブリオが軽く息を切らしながら言った。
透は頭が回らず、古代の畑の傍に膝に手をついて死にそうな呼吸を繰り返しながら答えた。
倒れた木は後で古代の下へ運び、薪にしなければならない。資源が勿体ないし、このまま散らかしっぱなしにしていると、後で二人で無表情のまま怒られるのだ。
「あの女二人……そして貴様……中々だ……はぁ……こんな田舎にいるとは、夢にも思っていなかった……だから古代もここに来たのだろうな……」
少し目を細めてしみじみというエンブリオに、透は視線をあげて見つめた。予期せぬ場所に遊び場を見つけた子供の気持ちを押し殺したような表情に、思わず声が漏れた。
「……なんで……」
エンブリオに限らず、光や千歳も当てはまる事だが、ずっと疑問に思っていたことがある。
「なんで、自分と同じくらい……いや、自分よりも強い人に対して、そんなに嬉々としていられるんだ……?」
こうして命を狙われている透は、千歳もエンブリオも歓迎できない。光は家族だから甘受しているだけで、本気でどうでもいいと思っている他人に命を左右される状況は、嫌としか思えない。
エンブリオはそんな透の言葉を聞いて視線を合わせた。そしてニィ、と不敵な笑みを浮かべる。
「簡単な事だ、自分が強いと自覚しているからだ。そして強い自分を高められるのは、自分と同格、もしくはそれ以上の相手しかいないだろう? いくら強くても、貴様のような蠅を潰しても手が汚れるだけだ」
――肥えた舌には最上級の物が必要なように、それなりの力を持った奴にはそれなりの奴と戦うのが一番。切磋琢磨、素晴らしい。
針入の番長と戦った時の光の言葉を思い出す。不敵な笑みに怯みはない。男や肉体や立場や数なんて光にはどうでもいい事だった。
自分よりも強いかどうか。そしてあいつは、まだ強くなる気でいる。
こんな所で息切れを起こしている自分は、光とどれくらい距離があるのだろうか。
――そもそもアイツは、どうして強くなろうとしてるんだ……?
「おい! いくら疲れたとはいえ、畑の中に籠城するのはやめろ! いいかげんそこから出て来い!」
「む、無理無理! ちょっとタイム!」
「クソっ! 古代の畑でなければすぐに耕しているというのに……!」
「この玉ねぎもうすぐで収穫だから、絶対に正座して怒られるよ」
「ぐぬぬぬ」
森一周どころか来た場所を戻ったり横道に逸れたりを繰り返し、エンブリオから逃げ回った透が森から出ると、空は殆ど黒く塗りつぶされていた。
『あっ、お帰りー。もしかして遭難してるのかと思ったよー』
縁側でお茶を飲みながらのほほんとした字面で待ち構えていた古代の前に、葉っぱや枝を髪にひっかけた透がばたりと倒れた。
『あっ』
その瞬間、最後のしめというように森から三つの盤が飛び出て来た。丁度透の頭部のあった場所に時間差で通り過ぎていく盤の先は、湯呑を持った古代だ。
「ふはは! 最後の茶の苦味を噛みしめろ古代ィ!」
噛みしめる暇もなく、古代は手で蠅を追い払うように左右に手を振って盤を叩き落とした。一枚は屋根に刺さり、もう一枚は地面に刺さり、もう一枚は透の頬すれすれに突き刺さった。
「チッ」
『元気あるねー。透君に分けてあげたらよかったのに』
「残念ながら俺は孫悟空ではない」
『それ悟空は透君じゃないと駄目だね』
ふん、と鼻を鳴らして透を跨ぎ、縁側の一番端に腰を下ろしたエンブリオは、丁寧に置いてあったキャリーバッグを引き寄せて武器を丁寧にしまいはじめた。
「いい気なものだな。弟子にもしないくせに、俺には貴様の弟子を鍛えさせて」
『えっ、バレてたの!?』
「バレていないと思ったのか。まったく……ボケが始まっているんじゃないのか?」
日長山で透を相手にする際は、古代の都合を知ったうえで殺しをしかけているが、日常的な殺しはエンブリオ個人の意思があっての事だ。
「確かに、コイツは強くなるだろう。俺の知っている強さとは違う力を持ってな。妹の方が王道の強さ、コイツは貴様のように邪道だな。古代紫の、ハッシュの邪道の強さをコイツに持たせて、あとはどうするつもりだ? まさか殺し屋に斡旋するわけじゃないだろうな」
汚れた刃をふき取りながら言うと、古代はさらさらと筆を走らせエンブリオに投げた。
『ただの老人のおせっかいだよ。盆栽を育てるようなものさ』
「盆栽は鉢植えに植えられているが、コイツの土壌は新橋家にある」
古代は筆を走らせなかった。
「孤児院や孤児や、虐待を受けている子供に一縷の望みとして手を差し出すのは分かるが、コイツには妹がいて両親がいる。そんな人間に入る切符を与えて何がしたい? それなら俺を弟子にすればいいだけの事だろう」
『だから、苦手なんだってば』
「いい年をして苦手だなんだと言って! 好き嫌いはよくないだろう!」
『いい年なんだから好きなもので生きていきたいよ。食べ物も人も環境も生き方も』
ずず、と残ったお茶を飲みほして、下駄を脱いで中に入る。籠に入ったせんべいをエンブリオに差し出すと、少し訝しんだが一袋貰った。
『僕も自己満足だけど、透君も自己満足だからね。僕にも責任あるけど、透君にもあるんだよ』
メモを受け取り読むと、エンブリオは大仰な溜息を吐いてビニール袋を開けた。
「心変わりを待つしかないのか、俺は」
『君って年上の女に騙されて愛人になっちゃいそうなタイプだよね』
「貴様今すぐ殺してやろうか」
せんべいを握りつぶして殺意を放出すると、涎を垂らして固い地面で仮眠をとっていた透が、殺気に反応して鳴き始めたタマとリンクして飛び起きた。
「うおぉぉ!?」
寝ぼけ眼でキョロキョロとあたりを見渡す姿を、古代とエンブリオはぱちりと目を見開いて見た。
そしてお互いに顔を見合わせ、そして透を見る。
「あ、あれ……? 光……? ありゃ、ここは……?」
ふらふらと頭を揺らしながら混乱しながらゆっくりと立ち上がった。日長山から見下ろす町は暗闇の中、点々と明るく輝いている。だが道は暗く、空は黒く、空気は少し湿って冷たい。
擦り傷や汚れを纏った透は、胡坐を掻いて呆れて眺めるエンブリオと、せんべいを渡してくる古代を見て徐々に目を覚ましていった。
「あ、どうも……」
『おつかれー』
「今何時ですかね?」
「8時回った」
エンブリオが身体を傾け、古代の家の時計を覗き込みながら言った。
「そろそろ帰ります」
『それがいいねー』
「じゃあ俺も一緒に帰る」
 キャリーバッグを持って立ち上がったエンブリオを古代は肩を掴んで止める。
『それは駄目』
「何故だ」
『どうせ帰り道に殺すつもりなんでしょ? 駄目だよそんなのー、もうちょっとゆっくりしていきなよ』
「断る。師匠でもない奴のいう事など聞く必要はない」
『最近の君を見て考えが変わりつつあるんだよねー』
「仕方ない、30分だけだぞ」
くるりと方向転換をして靴を脱いで上がり込み、座布団の上に腰を下ろした。しっかりと議論するつもりである。
『というわけで透君、夜道に気を付けて帰ってねー。明日は休みで、自主練怠らないようにー』
「あ、はい。ありがとうございました」
『窒息死しないでねー』
「やっぱりそれはするんですね……はぁ、よし、頑張ろう」
すーはーすーはーと何度か深呼吸をした後、透はダッと頬をリスのように膨らませて走り出した。
タッタッタッと軽快な足音が日長山のゆるやかな下り坂をなぞって暗闇に溶け込んでいく。
古代がエンブリオを時間稼ぎする間に、透は家へたどり着くだろう。
ある日光は師匠を見つけ、教えを乞い、強くなった。
自分も強くなれるだろうかと不安に思っていた透だが、息を止めるという子供じみた行動で何をアピールできるのか分からない。ただ嘲笑うだけかもしれない。
――それより自分の気持ちだよなー。
夜の住宅街を進む中で、光の憮然とした態度を思いおこす。あれほど強気になれれば人生楽しいんだろうな。
――よし、強気になるぞ。強気に……! 逆に息を吐きながら帰るとか!
変な方向に思考が飛ぶ中、光のいない家へと透は走った。











20140620



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