第三十八話





覚えている。苦い味の記憶は決して忘れない。とどのつまり、新橋光にとって自分より胸の大きな人間を見ると苦味を覚えるのだ。辛酸は決して忘れることの無い痛みだ。
屈辱を何より嫌う新橋光は、相手にその屈辱を与えるべきか、よく吟味する。親しい人間にはもちろん、初対面の人間にも、ほんの数秒だけだがその時間を割く。
その痛みを知っているからこそ、有効的に利用しなければならない。普通の女子高生にはそれはあまりに辛すぎるので、光は鉄仮面をつけて我慢する。
だが、特定の人物、自分の領域を犯そうとする人間。特に透や千歳、浅紫もそのカテゴリーに属される人間に対しては躊躇なく屈辱を顔に塗りたくる。
屈辱を叩きつける場合は大抵、光の意のそぐわない事があったときだ。
「ゲッ」
思わず声を漏らすと、その相手は聞こえなかったようでにっこりと微笑んで近づいてきた。住宅街の細い道での出来事だった。
「光ちゃん! こんな所で奇遇だね!」
しかも今日は休日で、光も小雪も私服を着ている。あまり胸部を主張しないお堅いセーラー服とは違い、小雪の胸元は、少し暑い太陽のせいで薄地のもので、飛び跳ねるたび胸がわさわさとその質量を見せつける。
商店街を抜け、住宅地を抜け、バスに乗ってやってきた場所は街ではなく山だった。
なだらかな坂を上ってきたのは、そこにいる友人に会いに来たのだ。久しぶりに家で遊ぼうと誘われたはいいものの、少し早く来すぎてしまった。約束の時間よりも早めにつくのはいいが、家に押しかけるわけにはいかない。
ここら一帯住宅地で、団地か工場しかない。下よりも遥かに風の通りがよく、土地が広々としているが、家が建つ一帯はぎっしりと詰まっている。暇を持て余した人間を受け入れる施設と言えば病院とコンビニくらいだ。コンビニで暇を潰そうかと歩いていると、後ろから石竹小雪が話しかけてきた。
「本当に、こんな所で会うなんて」
「もしかしてお見舞い? 大学病院に何か用が?」
「いえ、友達の家に遊びに来たんです。あまり土地勘もないから、迷わない様にと早く来たんですけど……」
「光ちゃんはいい子だねー!」
「いえ、そんな」
当然だと謙遜する顔の下で思っている光を、微笑ましそうに見る小雪は気が付いていないように見える。
もしかして気が付いているのか? と、光は小雪を見る。
薄いブラウスに小さなカバン、淡い青色のショートパンツからにょき、と伸びた白い足は、まるで幽霊のようだった。
――この女自体幽霊だったりして。
霊感だのなんだのと言っていたけれど、実際は自分の人気に嫉妬した哀れで醜い心を持った実体のない姿なのかもしれないと、光は鼻を鳴らすが、太陽の日差しが春の陽気を地面から浮かび上がらせ、寒さを守ってくれている。心地いい程の晴天。
「で」
「で?」
同じように首を傾げる小雪に光は顔を元に戻して、皮肉を込めて言った。
「そちらは一体どのような用事で? 先輩」
「あー、私はねー、病院に用があって」
「病院?」
――まさか本当に幽霊?
「あ、違うよー? 病気とかじゃなくて、お姉ちゃんに用事があって……いや、用事というか……うん……なんていえばいいんだろうね?」
「知りませんよ……お姉さんって、あの子犬を連れて行ったっていう」
「うん! その節はありがとうございましたー!」
「絶対に許しません」
「へ?」
「どういたしましてって言ったんですよー! もしかして、お姉さんが病院に?」
「うーん……」
最初、なんていえばいいか分からない小雪を見てすぐに鞘に刃を収めるべきだった。深くつついたのは薄いブラウスを持ち上げている肉の塊のせいではなく、この無邪気な女が気に食わなかったのだ。
――霊感があって、霊と会話できるくせに私と会話するのを難しがるなんて、ムカツク。
顎に指をかけて数秒黙った後、ぴっ、と、住宅地の奥、病院のある方へ人差し指を向けた。
「よかったら一緒に行かない? ご飯、奢るよ」
「えっ」
「詳しい話は現場でしよう!」
「殺人でもあったんですか……」
げんなりとしつつも、奢ってもらえるならついていってしまう。軽い女の兆候だなと思いつつ、先輩の背中を見る。歩きなれたサンダルで、歩きなれたような道筋で、行き慣れたように病院の独特の空気の中を歩いていく。
具合の悪そうな人間が集う場所にしては、中々活気に満ちていた。待合室のロビーでは身体のどこが痛むだとか、誰さんがどうしたとか、白髪の混じった腰のまがった老人たちが、若者のように口を動かし続けていた。
本当に具合の悪い人間がいるんだろうなと見渡していると、大声で笑ったおばさんが思い切り咳き込んでいる姿を見てさっさと通り過ぎた。
光の病院の食堂のイメージとは、食券で質素で暗く味の薄い料理というものだったが、料金は後払いでオムライスやハンバーグなどがあり、普通のレストランのようだった。
「まさか病院でラーメンが食べられるとは思いませんでした」
「あははっ、まあ、普通の人は大きな病院は関わり合い無いよねー」
「いえ……」
時々入院しているが、頑なに病院食は食べず、近くのコンビニからこっそりと弁当を買って、こってりしたものをおいしく頬張るのが好きだった。
光の前にはとんこつラーメンが置かれていた。小雪はAランチを頼んだようで、漬物、味噌汁、ご飯にから揚げがついている。
「もしかしてお姉さんここでバイトしてるとか?」
ずぞぞぞっ、と、麺を啜りながら適当に会話を放り投げてみる。その石は波紋を広げただけでただ沈んでいくようだった。
「うーん」
――まだ言いたくないのこの女。
じゃあ何がしたいのかと考えると、もしかして一人で昼ごはんを食べるのが嫌だったのかと、安直な考えが浮かんで首を振った。
確かに、一人は嫌だろうが一人では食べられないような人間ではないだろう。
特に、こんな病院なんて小雪にしか知り合えない霊がうようよしている筈だ。ロビーにいる人間の数より多いだろう。小うるさく、自分がしゃべらなくともしゃべりかけつづけて来る。
目を眇め、咀嚼し小雪を見る光の瞳に、小雪の真っ直ぐな視線が貫いた。
「ねぇ、光ちゃん」
「……なんですか」
ごくん、と飲み込んだ後返事をした。
「お願いがあるの」
「だから、なんですか?」
「……ここ最近、お姉ちゃんの様子がおかしいの」
「頭がやられたとか?」
「違うよー! ……なんていうか、その……変な友達とつるんだ子って、こんな感じに変化するのかなーって感じにおかしいの!」
「お姉さんじゃなくてあなたでしたか」
「もー! 冗談じゃないんだよ光ちゃんっ」
――こっちこそ冗談で言ったつもりはない。
麺を豪快に啜り、スープを飲みながら両手を上下に動かし、頬を膨らませる小雪を見る。何とも突きたくなる頬だ。
「大学に行くようになってから帰りが遅くなるし、変だなって思ってたんだけど……色々調べたら、この病院によく行くみたいで」
「別に、大学生だから帰りが遅くなるのも普通だし、病院だって一々家族に報告なんて……ハッ!」
「えっ!? 何か分かったの!?」
「……いやっ……だって、ここ、産婦人科もありますよね……?」
もごもごと一生懸命口の中の物を飲み込んだ後、少し身を乗り出して小声で言った。
「もしかして……」
「も、もしかして……?」
「妊娠しているんじゃ……」
「にっ、妊婦に!?」
「かもしれない」
「そんな……お姉ちゃん……家族が増える……私おばちゃんになるの……!? どうしよう! 楽しみ!」
「石竹先輩……」
おつむが足りないのだろうと憐みの目を向ける光に、後輩の前ではしゃいだという羞恥心が働き、慌てて腰を下ろして深呼吸した。
「そ、その可能性もあったね……! いや、実はね、透輝大学病院で不思議な事が起きてるって聞いてね。その子のお父さんが入院していたんだけど、なんか、夜誰もいないのに廊下から音がするとか、下の階から動物の唸り声がするだとか……その下の階の人も下から下からーって感じで、殆ど地面から音がするって。それを調べていたら、お姉ちゃんがこの病院に足しげく通っているのを発見したの」
「類は友を呼ぶ。曰くつきの場所には曰くつきの人間がやってくる、と」
チャーシューをがぶりとかぶりつきながら、適当に聞きながら適当な返事をしていると、小雪が頬に軽く手をあててぱちり、と光を見た。
「光ちゃん、そんなに食べても大丈夫? また変な幽霊に憑りつかれてるんじゃないよね?」
顔に影を落とし無言で箸を折った光に、小雪はご飯を食べながら困った様に言った。
「でも、病院って幽霊とか、本当に多いの。だから光ちゃんは気を付けた方がいいかもしれないね。『あ、あの子軽そうだな』って狙われちゃうかも。憑依体質かも」
「もう二度とそんな事はありません絶対に」
「まあ、私がいるからとりあえず交渉はできるね! あの世のお母さん泣いてるよって!」
「憑依を立てこもりみたいに言うのやめてもらえませんか。私のセキュリティーが甘いみたいじゃないですか」
「最近はパソコンにウイルスが感染して遠隔操作とか言っているけど、それって絶対幽霊の模倣だよねー。霊なんてPCにも人間にも乗り移れるから凄いよ。やっぱり人間じゃないと駄目な事もある!」
「パソコンは死んでも遺恨を残さないからいいじゃないですか。壊れたらそのままゴミになりますし」
「確かにそうかもー。でも幽霊さんっていいよ。誰も人がいない時に話し相手になってくれるし!」
「誰もいない場所にいたいときもあるでしょう。お姉さんも家族と離れたいときもあるでしょう」
「光ちゃん……」
安易に突っ込むべきじゃないと諭された小雪は、がたりと席を立ってトレイを運ぶ光を見て小さく笑った。
「そっか……そうだね。お姉ちゃんにあまり干渉するのも、よくないか……」
戻ってきた光がぺこりと頭を下げた。
「御馳走様でした」
「こちらこそ、付き合ってくれてありがとね! また学校で!」
「はい」
光が食堂から出て行くのを温かく見送っていると、いきなりバッと光がこちらを向き走ってきた。
「えっ、な、何……?」
がたがたと机の下に潜り込む光を小雪は見下ろした。足の間にしっかりと隠れた光は、しーっ、と人差し指を口につけて息を顰めた。
病院内では奇行に走る人間はそう珍しくないのか、食堂にいる人たちはまったく意に返さない。
小雪がおろおろとしていると、ざわざわと喧騒が近づいてきた。十人ほどの女の子の声だ。雑談に花が咲いている様子ではなく、どこか重々しげな空気だ。
「……だから、私達だけで大丈夫ですから!」
「そりゃ、戦力的にはもちろんダウンですけど、それでも姐さんが完全離脱するのは、絶対いやッスよ!」
「椎名先輩死んじゃいやですぅー!」
「勝手に殺すんじゃねぇ! とにかく、アタシは戻る。何さ、右腕が折れたくらいで! まだ両足と左腕と首も残ってるっつーのに! これで喧嘩しないでいつするんだよ!」
「今口喧嘩してるじゃないですか」
「口先だけの人間にはなりたくねぇ。いいか? もう約束しちまったんだよ。全身粉砕骨折になろうとも、一度決闘の約束をしたからには相手にも、そしてアタシ自身にもそれを守る義務がある!」
「かっこいい!」
「うおぉぉ……! 一生ついて行くッス姐さん!」
「よし、ならこれからついてこい! 瑪瑙高校と決闘だ!」
「「「おぉぉ!!」」」
大量の女子の集団が入口を通り過ぎて行った。燐灰中学の制服に身を包んだ集団の真ん中、おそらく集団のリーダーであろう女の子は、入院着に右腕にギブスを吊るしながら、左手を突き上げ堂々と歩いていた。
遠くまで響いたその声に、ナースがバタバタと駆けつけた。
「椎名さん! また貴方なの! いい加減に犬みたいに脱走するのやめなさい!」
「ゲッ! ナース島谷! 逃げるぞアンタ達! あの女元陸上部でゴキブリ並に早い! というか白いゴキブリだ! 捕まったら無駄に注射を刺される!」
「ぎゃあああああああ!!」
「ゴキブリとかマジ勘弁してほしいッス!!」
「しかもアルビノって希少価値高くないですか? 白衣の天使みたいな」
「ゴルァァアアクソ餓鬼ども止まれェェエ!」
「白い悪魔!!」
「逃げろォォ!」
病院に似つかわしくない慌ただしい音がトラックのエンジン音のように爆発し、通り過ぎて行った。燐灰中学の椎名真赭率いる集団の一番最後、両手をあげて白衣の天使とは思えぬ形相をして走り去ったナースが消え失せた時、光はゆっくりと机の下から這い出てきた。
「ったく、病院なんだから静かにしなさいよね」
ふ、と幾度か脱走するたびにあのようにナースや医者に追いかけまわされている光は、後輩の間抜けな姿をせせら笑った。
「でも辛気臭いよりいいよー」
「よくない」
ほっぺにご飯粒をつけた小雪がのほほんと笑っているのを、ぴしゃりと言い返した瞬間、小雪は目を見開き硬直し、ガタガタと光のように慌てて机の下に隠れた。
避難訓練以上の真剣さだが、今揺れは感じない。
「何してんの?」
机の脚を持ちながら、しーっ、と、人差し指を口に当てて亀のように顔をひっこめる。
食堂の前の廊下はちらほらと人が通り過ぎていた。その中に高く長い髪を結った美人がまっすぐ前を向いて歩き、去って行った。
光はぴんときた。一目見ただけではっきりと、この小雪の関係者だと思った。
「彼女……」
「……うん、そう、お姉ちゃん……」
目を見開き、ふらふらと出入り口に身体を寄せてこっそりと後ろ姿を見た。少し身体に張り付くような服を着て髪を揺らして歩いている。
その両脇の下から、後ろから見ていても分かる胸の膨らみが見て取れた。光が掴んでいた壁に罅が入った。霙の後ろ姿を、目を血走らせながら凝視した。
「危ない、見つかるところだった……もう来ないでって言われたのに来るなんてマジギレだよ」
ガタガタと震える小雪の手首を引っ張り、机の下から引っ張り上げる。腕を掴まれたまま、ぱちぱちと数回瞬きをする小雪の鼻に自らの鼻を押し付けるほどに顔を至近距離に寄せて言った。
「お姉さんの秘密、暴くの協力します」
「えっ、本当に!? ありがとう!」
「あの胸に手をあてられないくらい後ろ暗いものがあれば私は満足です。さ、行きましょう」
こそこそと、病院のリノリウムの床の上を歩く霙の後ろ姿を小雪と共にこっそりと見つめ続けた。長い廊下を右折したところで、二人はその曲がり角まで近づいて行った。そしてまた奥へ奥へと進む。一本道を違えた閑静な住宅街よりも静かな廊下をついて行く。窓から差し込む光りがどんどん消え失せ、星空が輝きだしても、二人は戻ってこなかった。











20140617



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