第三十七話





「お兄ちゃーん! はやく飴買ってー!」
「あーもう、はいはい分かったよ」
ぴょんぴょんと飛び跳ね、せかすさくらに透も大股で近づいて行った。
「あっ」
――そういえば、コチニールがいなくなったって光に言わないとな……。
動物に好かれない光が、あんな小さく愛らしいチワワに熱をあげないわけがない。
飼い主のもとへ返したとはいえ、あの光にそんな理屈は通用しない。今すぐ連れ戻して来いと拳で脅されるかもしれない。
「うわ、ちょ、コチニール! やっぱり戻ってきてくれー!」
「わあっ! 待ってよお兄ちゃん!」
「どうしたの新橋君!」
冷や汗を流し走り出した透を追いかけるように、さくらと小雪が走り出す。
せめてお別れを言うくらいの時間を貰ってもいいだろうかと、あの人の好さそうな霙に提案しようと追いかけたが、いくら走っても霙の背中は見えない。もしかして道が違うのだろうか。
「いないし!」
透が諦め、呼吸を乱しがっくりと項垂れた。脳裏に浮かぶ光の鬼の形相が具現化してしまう。
ぽんぽんと、そんな恐怖に戦く透にさくらが慰めるように肩を叩く。
「お兄ちゃん大丈夫?」
「さ、さくらちゃん……!」
絶望の中で心配そうに首を傾げ、顔を覗き込む少女に透はじーんと涙を滲ませる。
だがすぐに袖を引っ張られ立ち上がれと急かす。
「さ、早く飴買いにいこ?」
「さ、さくらちゃん……」
後光がただの豆電球のような安っぽい光になってしまった。ぐいぐいと引っ張られ、透は渋々立ち上がり歩き出す。後ろからついてきた小雪もさくらのようにニコニコしながらついてくる。
「私、ブドウ味のキャンディーが欲しいな!」
「私はのど飴が欲しいな!」
「えっ!? 石竹先輩も!?」
「乗りかかった船だしー」
「だしー!」
「どんだけ飴好きなんですか……はあ、まあいっか」
両手を後ろに回して少し身体を傾げる二人を見て、透は諦めたように奢る事を決意した。百円単位の少ない出費で、後ろでハイタッチしている二人の幸せな姿が見れるなら安いものだ。
「ね、光ちゃんにも何かお土産買ってあげようよ!」
「いいねー! 私もお母さんに!」
「じゃあ私はお姉ちゃんに!」
「いやいや! この場にいる人間だけ! この場限り!」
両手を振って更に家族や隣近所にと言い出しそうな二人を制止し、今度は透が二人を引っ張って歩き出す。
丁度透が膝をついた一つ先の角には、霙がコチニールを抱いてゆっくりと歩いていた。
うつらうつらと子犬が歩くリズムに眠気を誘われつつあったが、おしゃべり気質がそれを止めた。少し上を向けば美女の顔があるのに、何故瞼を下ろさなくてはならないのか。
「それにしても姉ちゃん、ワシの飼い主ってどない? 男? 女?」
「男の人よ」
「そうなんかー……なんや、一気にテンション落ちてきたわ」
「女の子の方がよかった?」
「そりゃあ、男よりかはええ臭いするやろ」
「ふふっ、犬らしい理由ね」
コチニールがふくよかな胸にもたれかかり、がっくりと力なくしなだれていると、希望を持ったように瞳を潤ませ、顔を上げる。
「姉ちゃん包容力あるなあ」
「そう? ありがとう」
「セクハラで訴えんといてなー」
「?」
分かっていない様子で首を傾げる霙に、コチニールは小さく笑った。その振動もまた睡魔を呼び寄せ、身体から力が抜けていく。
包容力という言葉を選んだが、実際には違う。
犬の身体のせいなのか本能なのか、この石竹霙の身体から発せられる熱は、コチニールを温め眠りに誘うがどこか違和感を覚える。
見た目と声と温かみで、コチニールの警戒心をゆっくりと解いているような、そんな不躾な空気を感じた。
「姉ちゃんはよく家に来るんか? また会える?」
「そうね、また会えると思うわ」
「ほんまに? 絶対やでー! 軽い口約束やからて邪険にせんといてな」
「もちろんよ。だって、貴方がいないと私の野望が敵わないのよ」
「野望?」
「そう、あなたは私の夢の象徴よ」
ゆっくりと、慈しむように頭を撫でる。チワワの小さな額を白くて細い指が撫でる。
――……アカン、起きてられん……
大きな瞳を細めながらコチニールは瞼をおろし、ぬくもりに包まれて眠りに落ちた。
その頭上で霙が深海のような冷たく黒い瞳をして笑って見下ろしていた。
「もうすぐなのね、嬉しいわ」
その為には早く届けないとと、霙は歩みを進めた。その先には燐灰の出口、背後には針入の街に向けていた。十字町に入る前、長い曲がりくねった坂の先には、高台にある大きな病院があった。
ひっそりとした住宅街や団地の中にあるその病院につくころには、すでに空は暗くなっていた。
「帰りはタクシーで帰るから、大丈夫」
霙はコチニールを引き渡した後、帰りを送って行こうかという申し出に片手を振って断った。
「どうせ貴方の顔でタダになるんだから」
タクシーを引き留めた。見送りに来た人物を見て、運転手は走り出した。
実際は顔ではなくそのバッジのせいだと思ったが、霙は何も言わず目を閉じた。小雪の待つ自宅から少し離れた場所で降りて、運転手は何も要求せずに走って行った。
街灯の下から自宅を見上げる。月が明るく光っていた。小雪のいる部屋の電気が仄かに明るい。まるで燃えているようだと小さく笑って霙は帰宅した。
同時刻、透に北斗から連絡が入った。
『松平ちゃんは元気か?』
「めちゃくちゃ元気でしたよ」
瑪瑙の不良を全員倒してしまうくらいには。と、ソファーに座ってコントローラー片手に思っていると、冷蔵庫からプリンを取り出している光と目があった。
頬には白いガーゼが貼られており、右肩には大きな痣があった。
――また派手にやったなー。
見て見ぬふりしながらゲームを中断した画面を見ているとチャンネルをかえられた。
別に今していないからいいか、と、当たり前のようにテレビの目の前の場所を変わった。
そのまま廊下に出て携帯を耳に押し当てながら、向こうでがやがやと騒がしい音の中、北斗は言った。
『悪いな、俺が帰るまで気にかけてやってくれ』
「まあ、別にいいですけど、でもそこまで心配するほどじゃないと思いますよ」
『馬鹿野郎。そこらは治安が悪いから、頭の悪い奴らが寄ってくるだろ。あの瑪瑙高校の連中も、松平ちゃんを人質に取るかもしれねぇ……もしそうなったらアイツ等全員皆殺しだ』
すでに実行されましたと言えば、旅行先から一直線に瑪瑙高校へ殴り込みに行くであろう事は想像が付いた。
心配すべきはさくらではなく、さくらに絡む人間の方だと透は思う。
『まあ、俺もそこまで気をもんでるわけじゃねぇ。ボディーガードをお願いしているわけじゃないが、松平ちゃんが困ってたら手を貸してやってほしい』
「それはもちろん貸しますよ。友達ですから」
『ああ、ありがとう……だが、手は出すなよ?』
「小学生に出す手があるなら他の事に使いますよ」
リビングからケタケタと笑う光の声が聞こえ、透は携帯をポケットにしまいながら光に恐る恐る言った。
「なあ、電話終わったからゲームしてもいい?」
「は? 何言ってんの。テレビは私の物よ」
「いや、皆の物だろ……」
「だって名前書いたもの」
「えっ!?」
ふてぶてしくソファーに座りながら指差す方向を見ると、確かに隅に『光』と書かれていた。
「おまっ……何やってんだよ!」
「なーによ。別にいいでしょ。勝手にいなくなられるより。アンタ、教科書にも名前書かないタイプ? そんなんじゃ駄目よー、誰かに拾われた時『ネコババしたらこの私がお礼参りに来るわよ』って威圧しとかないと」
「名前書く理由はそうじゃないだろ!」
プリンを食べながらドラマを見る光の横に腰を下ろした。飽きて立ち去った後続きをしようと、背もたれに身体を預けた。
「あ、この人番長のお兄さんでしょ」
「え?」
「タレントよタレント、藤黄西治。イケメーン」
主役の女優の腕を掴み、砂糖を奥歯に隠しているかのような甘い言葉を吐いている俳優の顔をよく見てみると、確かに藤黄北斗にそっくりだった。
テレビ画面の中に現実が紛れ込むと、見方が少し違う。穿った見方、真正面から見ていたテレビ画面から3Dのようにその人物が浮き彫りになる。
演技をしているせいかどうなのかわからないが、隣でプリンを食べている光と似た感じを受ける。
きらきらと輝く瞳の奥には、水面の反射のように見せかけて、実は誰かに鬱憤を発散したいだけの刃の鈍い光が内包されている。
――……まあ、会ったこともない人間をそう評するのもどうかと思うけど。
「けど、絶対この男性格悪いわよ。私が保証するわ。そういう臭いがカメラ越しに感じるもの」
隣でダイヤモンドのように強固な値札を貼られた以上、やはり透の勘はその通りなのかもしれない。
「はは、それって同族嫌悪?」
「黙れ」
「もごぼっ!」
食べ終えたプリンのカップとスプーンを口に突っ込まれもがく透を置いて、光はさっさと部屋に戻ってしまった。
嵐がゴミを置いて立ち去ったとゴミ箱に捨てに行き、ゲームを再開した。
敵を倒すこの爽快感を、光は現実で実行している。透は視力が落ちるリスクを持っているが、光は肉体に傷を負うリスクを背負っている。
「んー」
最近の若者はスリルが好きすぎる、と、周りの人間を思い浮かべて息を吐き出す。
若者だけじゃなく、きっと誰もスリルは好きだ。
画面の中で血反吐を吐いて倒れる人間は生きていないが、殺している。
きっぱりとそれを仕事にしている浅紫は透よりもリアルとバーチャルを隔離出来ているのかもしれない。
片足を突っ込んでいる。
古代紫に戦う方法を習いながらも、まだ自分はゲームで満足できている。
透はコントローラーを投げ出して布団にもぐりこんだ。そして喉に手をあてて声を出さずに息を吐き出した。
ボールをコントロールするように、足の裏に意識を向けて走り方を調整するように、歌手が喉の違和感に敏感なように、今までと接してきたように喉に対して適当にできないでいた。
これはいつか武器になるかもしれない。子供の頃お遊びで握っていた包丁が持つ現実性に触れて恐れるように、透は自分の喉に違和感を感じていた。
そうして眠りに落ちた次の日、松平さくらと新橋光が行方不明になった。












20140523



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