第三十五話





「もう若い時みたいにはいかんわなー、そりゃこれだけ寝れば腹もでるわ……よっしゃ! ジョギングしよ!」
「えっ、いきなり!?」
「思い立ったが吉日言うやろ! な、悪いけどここから出してくれへん? おっちゃん出られんわコレ」
子供の様に両手をあげて出せ、というチワワに、透は素直に頷いて床におろした。両足をしっかり拭いているので汚れていない。
「さ、行こか! ありゃ、靴でっかいなー! 最近の流行か?」
すたすたと玄関まで行き、透の靴を前足で履くチワワを慌てて抱き上げる。
「ちょ、それ俺のだから!」
「ええやんけケチ。じゃワシの靴はどれやねん」
「そのままいけばいいんじゃ……」
「ハァ!? 裸足で行け言うんか! 最近の子供はホンマ信じられんこと言うな……ま、たまには裸足で歩くのも悪くないな。そういう健康法とか流行るかもな」
靴を履くにしても前足ではなく後ろ足ではないのかと思ったが、爛々と楽しそうに歩く小さな身体を見下ろしながら、透はリードをつけるのも忘れてとぼとぼとついて行った。
――まるで俺が散歩されてるみたいだ……。
「あー、ええなー、腹膨れた後の散歩は! 清々しいわ!」
「はあ」
「若いのに元気ないのー。ワシが君くらいの年の時は……はて、何してたっけな……ん? あれ? おそらく女の子にモテモテだったのは間違いないんやけど……はてさて」
そう呟いて青い空を見上げる。その澄んだ空のように輝かしい過去があるとはとうてい思えないが、コチニールは無い記憶を脚色し、満足げに鼻息を出した。
「ま、そんなのはどうでもええか。今は全く関係あらへんし。お、たい焼き食べたい。なあ、買ってきてくれんか?」
「いや、今財布持ってきてないから……」
「なんや、男ならいつでも財布持っとかんとあかんで。いつ女の子とデートになるかわからんのに」
「そんな子いないよ」
「なら作ればええんや。たい焼き買うみたいに気軽に」
「それはちょっとなー」
「子供のくせにえり好みするんやない! かわいい女なら誰でもええやろ!」
可愛いという時点で限定されているが、コチニールはのびのびと歩いている。まるで苦手な親戚のおじさんと会話しているような居心地悪さを感じながら、透はコチニールから目を離さず歩いていた。
「今日はゴミが沢山見えるわ、なんやろね、ワシの心がクリーニングされたからか?」
「視点が低いからじゃ……」
「そんな事ないやろ! 君が大きすぎるだけやって! ……いや、それにしても周りもようでかなっとるわ……いくら近代化が進んだとは言っても、こない大きせんでええやろ……」
「普通に普通の家々だけど」
「草もぼーぼーでジャングルか! 思う場所もあるし、緑あるのはええ事やけど、もうちょっと刈り取った方がええで。あんなんイノシシが住み着いてまうわ」
「せいぜい蛇くらいの高さだよ……」
小型犬から見る世界はそりゃ大きくて高くて広いだろう。見下ろしながらとてとてと歩く愛玩動物は、しゃがれたおっさんの声でキョロキョロとあたりを見渡していた。
「それにしても中々進まん……もしかして最近は道がランニングマシーンみたいなんついとるんか?」
「そんなオートウォーク機能はないよ」
てしてしと固い地面を柔らかい肉球で叩くコチニールの傍にしゃがみ込んだ。
首を傾げるチワワの子犬の頭を撫でると、ぺいっと前足で払われた。
「気安く触んなや」
「犬なのに?」
「ワシが犬になるのは女の前だけや!」
まったく何が悲しくて男に触られなあかんねん。と、ぶつぶつ言っているコチニールをしばらく見た後、透はUFOキャッチャーのように上からコチニールの脇を掴み上げ、川へ降りて行った。
「おいっ、こら! なにしとんねん!」
そしてゆっくり地面におろし、なだらかに流れる水面を覗き込んだ。
コチニールも一緒に覗き込む。そこには揺らぐ空を背景に、透とチワワの顔が並んで写っていた。
「…………」
くりくりとした大きな目が更に見開かれる。そして凶暴な大型犬に出会ったかのように、身体をぶるぶると震える小型犬は、一歩後ずさり
「なっ、なんじゃあこりゃァァァァ!?」
と、腹の底から叫んだ。
「もっさもっさやん! なんやこれ! 肉球や! 手のひらにぷにっぷにの肉球があるわ! なんやこれ! 愛らしっ! かわいらしっ! こんなん歩いとるだけで金稼げるわ! たい焼きなんてタダでもらえるわ! えっ、何これ。ワシ人間とちゃうんか!? 普通に人間の女好きなんやけど違うんか!? 雌犬好きなん!?」
自分の前足を見たり遠吠えをしたり、くるくると自分の尻尾を追いかけながら絶叫するコチニールに、透はやはり自分が犬だと気が付いていなかったのかと肩を落とした。
ごろごろと懊悩するチワワは、自分が犬だと気が付いた悲嘆さがまったくない。広い場所に出て、有り余る体力を元気よく消耗しているほほえましい光景にしか見えない。
どこからか酔っ払ったおじさんのような声が聞こえ、母親が不審に思うが、河川敷で腰を下ろす少年がそれを見守っているので、買い物途中の親子もそのまま通り過ぎた。
チワワが絶叫した後、丸い腹を仰向けに大の字になって寝転がった。
「ハァ、ハァ……」
「大丈夫?」
「大丈夫に見えるか? これが」
「さあ……?」
「……まさか、犬畜生になるとは思わんかった……」
「人間だったの?」
「いや、それも、記憶が不確かなんやけど……でも、こんな肉球じゃ煙草も吸えんやろ。ヘビースモーカーだったのは覚えとる。犬の臭い舌でも煙草が恋しくてしゃーない」
舌をだらりとだしている姿も、何とも愛らしい子犬だ。だが、声はやはりしゃがれたオッサンのものだ。
「なんなんやワシは……人間だと思っとったのに……性同一性障害ってこんな感じなんやろか。一生知らんでよかったわ」
「つまり、記憶障害でもあるわけ? どこから来たのかもわからない?」
「せやなー、絶世の色男やったのは間違いないんやけど」
「自分も見失ってるね」
「おまっ、本当かどうかなんてわからんやろ!! 色男じゃなくて美男子かもしれんけども!」
「その声で!?」
「声も関係ないやろボケ!」
じたばたと四肢を暴れさせ飛び起きたコチニールが、透の腕に噛みついた。
「痛ぇっ!」
「フガー!」
ぶんぶんと腕を振って遠心力で脱しようと試みたが、コチニールの歯は固かった。まるでイノシシの罠のような頑丈さだが、血が迸る事は無い。
子犬でなければ噛み千切られる程の勢いにたじろぐ透の背後から、坂を駆け降りる足音が近づいてくる。
「どーん!」
かわいらしく効果音をつけて、枕を投げつけられたような衝撃を背中に受けた。そこには首に巻き付いてくる腕があり、さくらが機嫌よさそうに透の頬に頬を押し付けて笑っていた。
「こんにちはー!」
「こ、こんにちは……」
「何してるのー? あっ、面白そうな事してる!」
「全然面白くないよ!?」
「わんちゃんと遊ぶなんて面白いにきまってる! わんちゃん! わんわんっ」
「わんっ」
「そこはのるんだ」
おじさんが犬の真似をしたような可愛げのない声だが、さくらは可愛げのある笑顔を振りまいて透の腕に噛みついていたコチニールの頭を撫でた。
「これお兄ちゃんのわんちゃん?」
「いや、ちょっと拾っただけで俺のじゃないよ」
「拾ったらその所有権は拾った人にあるんだよ。だから飴を拾っても、私は交番には届けないの」
「届けなくてもいいけど広い食いはどうかと思うな……もしかして、それも拾ったやつとか?」
 透が訝しげに指差すのは、さくらの右手に握られた棒付きキャンディーだ。
 くいくいと手慣れたように指で弄りながら咥え、にっこりと笑う。
「違うよー! これは貰ったの!」
「知らない人から?」
「ううん、友達から。明日一緒に遊びに行こうって約束の証に!」
「何か買収みたいだよね、普通に約束すればいいのに」
「んー、私がちょっとなーって言ったの。なんで言ったんだろ…………あっ、そうだ! 男の子だからだ! 二人で遊びに行こうって言われたから、んーって言ったらこれくれたの!」
「安い女だなー……」
「? えへへっ」
「褒めてないよ」
 首を傾げながら照れ笑いをするさくらに申し訳程度に釘を刺しておく。コチニールは少し頭の悪そうな少女を見上げ、濡れた鼻で笑った。
「何でも褒めときゃええねん」
「ん? なにこの声」
「気のせいじゃない?」
「木の精!? どこどこ!?」
キョロキョロと見回す小学生に、馬をあやすようにぽんぽんと頭を叩いて落ち着けとたしなめる。
「それにしても、藤黄先輩がいるのにいいの? 言わなくて」
「んー、よくわかんない。電話番号知らないし」
「そ、そっか……」
「あっ、でも昨日会ったよ! その時言えばよかったかな!」
「誘われたのは今日でしょ?」
「あっ、そっか……なんかね、あのお兄ちゃん旅行行くんだって」
「旅行?」
「うん、家族皆丁度休みが出来たから、家族旅行行くんだって。その間、困ったことがあったらお兄ちゃんに頼れって言われた!」
「俺に?」
「うん!」
にっこりと微笑んで頷くさくらに、透はここまで頼りにされる人間ではないと思いながらも、頼られて悪い気はしない。
学校一の番長が御指名してくれたのは、一体何の意味があるのか。
「お兄ちゃんなら小さい事でもすぐに警察に通報してくれそうだから、だって!」
「そんな110簡単に押せないけど」
「でも携帯持ってるじゃん」
「俺じゃなくても殆どの人持ってるよ!」
「それに飴くれるから」
「俺じゃなくても殆どの人からもらってるよね?」
「うん!」
「意味分かってないよなあ」
呆れたように言い放った透の後ろから、何倍にもなった声が響き渡った。気が付けば、嫌なざわめきが後ろに集まっていた。










20140521



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