第三十四話





チャイムが鳴り響く。重低音のその音は重く身体に伸し掛かる事は無く、むしろ身体の中の重みを霧散させてくれるものだった。生徒たちは授業を終え、学校から逃げ出すように校門から出て行く。
「お前どうする?」
透が教室の後ろのドアから出て行こうとするのを止めて尋ねた。光は長い髪を揺らしながら振り返り、拳を軽く握って答えた。
「私はちょっとあのバッグ野郎の口縫うから、アンタは先帰ってご飯あげといて」
「やっぱりそうか……」
「何よ、分かってるなら一々聞かないでくれる? 時間がもったいないわ」
つんけんな態度をとっていた光が、急ににっこりと余所行きの笑みを透に向けた。
「もう、何言ってるのお兄ちゃんってば、私は急用があるから無理なのっ」
「は? 何をいきなり……」
「やあ新橋光! 一日僕に会えないと思って意気消沈していた? いやいやそんな事は無い! 僕が会いに来た!」
背後から体育会系の腹から出る声が、廊下の天井、壁、窓をピンボールのように跳ねかえり、作り笑顔を作った光の側頭部に激突したように、壊れかけの人形の首のようにかくん、と曲がった。
張り付けた笑顔はそのままに、あまりにも衝撃が大きすぎたためだろう。
「まあ、海老杉先輩じゃないですか。練習出ずにこんな所で道草くってどうしたんですかぁ?」
「ふふ、照れなくてもいいよ! もう一度、いや、何度でも言おう。この僕が、君の大好きなこの僕が君に会いに来た! ふふ、練習はもちろん大切だが、それよりも大切なものは愛だ! 聞いたぞ、となりのクラスに来た転校生が君にからもうとしていたと。だがもう安心だ! 僕がなんとかしてあげよう! 失礼します! バスケ部エースの海老杉だ!」
堂々と一年B組のクラスに乗り込んでいく海老杉に、光がなんとかしてくれと透に視線だけですがったが、この男がどうにもできるわけがないなと鼻で笑われた後、とってつけたように手を打って言った。
「さあ、あの馬鹿がやられるまえに着替えなくっちゃ!」
「ま、まさか制服貸せっていうんじゃ……」
「こんなこともあろうかと、学校の中に着替えを隠しておいたわ。アンタは女装せずにそのまま帰ってOKよ」
変装する為に急いでいる光の背を見送った後、透はアリバイ工作の為にさっさと学校を後にした。下手にのろのろと帰っていると、騒ぎに巻き込まれるかもしれない。
帰りに商店街にあるペットショップに寄ってドッグフードを買った後、早足で家に戻った。
子犬にドッグフードなんて食べれるのか少し不安だったが、元気になるならいいだろう。ミルクの方がいいのなら、家に牛乳がある。
靴を脱いでリビングに行くと、部屋の隅には少し前に従姉の新から飴を貰った時の段ボールが、蓋を開いておいてあった。
その中にはタオルが敷かれており、その上にはすやすやと眠っているチワワの子犬が眠っている。
音を立てない様に近づいて覗き込む。
くりくりとした瞳は今は下ろされて見えないが、ゆっくりと上下に揺れる小さな体はとてもかわいらしいものだった。
だが、透は訝しげな、静電気を警戒するようにおそるおそる段ボールの中に手を入れて、その身体を撫でた。
「んむ」
犬に似つかわしくない眉の動きの後、子犬はゆっくりと目覚めた。
「くぁー……あぁっ……ん? なんや? 朝かいな」
「いや、もう夕方だよ」
「ホンマか、ならワシずっと寝とったんか。いつか牛になっても知らんでーっちゅー話やな! がはははは!」
「はあ……」
「ん? おぉ! 何や君めっちゃでかいな! 巨人か!?」
「……やっぱりめっちゃしゃべってる……」
「酔っ払っとったんか……? いや、にしても記憶が無いわ……酒飲んだ記憶も君に会った記憶もない……なんや? ここ何処や? ……ん? ワシはなんや? 名前は分かるけど、昔の記憶がさっぱりない……」
まるで頭痛を押さえるように、前足を額に押し付け唸るチワワ。声高々にキャンキャンとタマのように吠えるかと期待していた。もしかしたらあれは雨が見せた幻なのではないか、幻聴だったのではないかと期待していた透は、未だ己の頭がおかしいのではないかと、チワワのように手を額に押し当ててうんうんと唸った。


春の雨はむせ返るような湿気を、花の香りと共に立ち上る。光に肩を貸してもらうという、これから先あるのかどうなのか分からない経験をしながら歩いていると、通り雨だろうか、雨が降ってきた。
「最悪」
光がげんなりした様子で呟いた。歩くたびに雨脚は早くなり、殆ど先が見えない程のスコールとなった。そのまま濡れながら河川敷の橋の下に透を置いて、鞄を簡易傘にして飛び出て行った。
「俺おいていくのかよ!」
「馬鹿! 傘とってくるのよ! そこで大人しく待ってなさいよ!」
「あ、うん」
そう言って走り去った光の背中が、強くなってきた雨に掻き消えて見えなくなり、透はゆっくりと腰を下ろした。
日差しを遮られている土はひんやりと冷たくてあまり居心地のいいものではない。
少しかび臭く、陰気な雰囲気が漂っていた。
前髪から落ちる雫を指で拭った後、ぴっ、と手を振って放す。
背中にもたれかかる橋の足のコンクリートは灰色で、なんだか埃っぽい。
傘を取ってくると言った妹は珍しいくらい優しいのだが、それにしてもこんな所に放置しなくともいいだろうと思う。
「はあ……腹減ったな……」
腹を押さえて空腹を嘆くと、足元から同意する声が響いた。
「せやなぁ」
「……?」
誰かいたのか、雨宿りをしているのか、もしくは元からここに住んでいるのか。一瞬で可能性が閃いたが、どうやら前者でもあり後者でもありそうだ。
冷たいコンクリートに寄り添うように、灰色の塊が横たわっていた。
それはずぶ濡れの毛の塊で、ぶるぶると震えている。どうやら生きているみたいだ。
「……猫……? いや、犬……?」
そっと手を伸ばすと、びしゃ、と濡れた毛の嫌な手触りだった。ぴく、と耳らしきものを持ち上げた後、顔をゆっくりと持ち上げた。
犬だった。
子犬だった。
チワワだった。
「何や、子供かいな……なあ、おっちゃん腹ペコやねん。メシくれへんか」
大阪弁だった。
その言葉通り、ぐりゅりゅりゅー、と、洞窟から轟くような胃袋の音が、小さな子犬の身体から発せられた。
叩きつけられる雨の音が透の沈黙を緩和してくれている。
「……犬が……」
つんつん、と、幻ではない事を確かめるように突いた後、ごくりと唾を飲んだ。
「……犬が、しゃ、しゃべった……」
「あかん、ええ年していい年した子供に犬扱いされとるわ……やっぱり熱あるんやなコレ……脳みそスライムになってしまうんかコレ、ワシ死ぬんか?」
チワワのくりくりの瞳がどんどん閉ざされていく。よく見れば呼吸は荒く、身体も濡れて冷たくなっている。
透は慌ててその身体を抱き上げ温める。
「えっ、ちょ、だ、大丈夫!?」
「あー、昔死んだばあちゃんが昼寝しとるわ……川の向こうで昼寝しとる……手くらいふれやババア……」
ぱくぱくと犬の口が開いて大阪弁を話すチワワの子犬は違和感の塊だった。だが、ぽっくりと死んだように静かになった姿はただの捨て犬にしか見えなかった。
透が困惑した顔で犬を見下ろしていると、傘をさして光が戻ってきた。
「お待たせー、って、うわっ! 何それ!」
「いや、なんかいて……」
「馬鹿! 早く帰るわよ! その子かして!」
バッと豹変した光が、透から子犬をひったくって傘を押し付け、そのまま大事そうに抱えて雨の中を一人颯爽と帰って行った。
「俺は!?」
「傘あるんだから大丈夫でしょ!」
「肩は!?」
「レンタル不可!」
軽やかな足取りは、冷蔵庫の中にケーキが置いてあるかのような楽しげなもので、透は同じように飛び跳ねることはできない。
「くそー、本当に先行きやがったあいつ」
傘をさして歩くよりも杖にして歩いた方がいいと、ひょこひょこと歩く。土砂降りの雨が頭に叩きつけられ、頭を冷やしていく。
霞むいつもの帰り道を歩きながら、聞きなれない大阪弁を思い出す。
「……気のせいだよな」
ずきずきと、足の痛みが鮮明に開け、霞んだ視界と思考を振り払う。うん、気のせいだよなと再度呟いたところで透はチワワがしゃべったことは白昼夢のようなものだと思い込み始めていた。
だが、段ボールの中にはそんな忘却した記憶が引き出され、真実だとこれ見よがしに存在している。
まるでオッサンのようにだべーっ、と横たわり、欠伸を噛み殺し、仰向けになり、大の字になって寝転がっている。











20140521



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