第三十三話





隙間風が通った。幹と透と、その間に入った身体の間を森の爽やかな風が通り抜けて行った。
「何?」
本棚から落ちて来る本を押し戻すような気軽さで、光は片手で巨体な幹を支えていた。
そして顔を下に向けて、顔を隠すカーテンのような髪の先が透の額を擽った。
「今、何してたの?」
同じ顔を張り付けた光が、俯いたためか、瞳に光りを入れることなく透に問い掛ける。
真顔のまま見下ろされる透は、膨らんでいた風船に穴をあけたかのようにぷしゅー、と、空気が抜けていくのを感じた。
「……死を覚悟してた……?」
「私が行くまで生きてなさいって言ったのに? 馬鹿ね。ん、よいしょー、っと」
ぐっ、と両手を使って木を押し返した。ぐん、と起き上がった幹は一瞬、元の直立に戻った後、反対側へ身体を倒した。
地面を揺らす音と衝撃に、もしあれが自分の身に降りかかっていたらと透は身体を震わせた。
手を叩いた光は、くるりと振り返った。そこにはイノシシに押し倒されているエンブリオの姿があった。
イノシシは木を倒したあと、動きを止めた。エンブリオが勝利に警戒を解くと、イノシシはまた動きだし、油断したエンブリオの身体に木をへし折るような一撃を食らわせた。
「ぐっ……クソ……油断した……!」
呻き、イノシシの下から逃げ出そうとするエンブリオに、イノシシは涎を垂らし、もがく獲物を威嚇する。そして鋭い牙を光らせ口を開ける。エンブリオが悔しげに歯を噛みしめていると、イノシシの真後ろに光が立った。
「久しぶりね、ドン・北村」
バッとエンブリオから離れて光から距離を取る。最大級の警戒と、最大級の親しみが凶悪なイノシシに宿っていた。
「まさかこの山もアンタの縄張りだったなんてね。危ないわ」
「……え? 北村? 誰、それ……」
「私のライバルで友達でイノシシよ」
「最後のは見りゃわかるけど」
腰に手をあてて向き合う光はニコニコと笑う。
「小さいころから、山に籠るとドン・北村がいたのよ。最初はウリ坊だったけど、私と会った時、逃げ惑う他の兄弟とは違って全然私に怯まなかったのよ。そこでピンと来たわけ。ああ、コイツは私のライバルになるな、ってね……!」
額に指をあてて離し、声を低くして決める光に透は頬を引くつかせた。
「何言ってんだよお前……頭おかしいの?」
「ぶち殺すわよ。ふふ、ドン・北村。久しぶりにやろうかしら?」
肩を回し、好戦的にイノシシに話しかける妹は、クラスの中で見せる笑みよりも素に近い表情だった。動物には本当の姿を見せるのだろうか。
ドン・北村は言葉がわかるのか分からないが、エンブリオを相手にしたように前足を闘牛のように数回蹴って突進した。
光は子供がじゃれて来るのをあしらうように、牙を掴み背後へいなした。木に当たることなく方向転換したイノシシは、再度光へ突進する。
その芸のない攻撃は本当に子供がじゃれついているかのようで
「あはははっ! ドン・北村、相変わらず重いわね!」
――本当にじゃれあってる……
イノシシと戯れる妹、十六歳を見る兄、十六歳としては何とも奇妙な絵面だった。話には聞いていたが、本当に動物相手に修行をしていたとは。熊、イノシシ、狸には逃げられ、狼は中々一匹だけでは話にならないと笑っていたが……と、大地を揺らしながら遊ぶ一人と一匹は満足したのか、それぞれぴたりと動きを止めた後、くるりと背を向けてそれぞれ別方向に歩き出した。
「さ、帰るわよ」
「うわっ、お前イノシシ臭い……」
「ドン・北村ー! 帰るついでにコイツも跳ね飛ばしてくれるー!?」
「やめろー!」
悪魔のような声をイノシシに向けるが、イノシシはあっさりと森の奥へと戻って行った。
「何それ」
光が眉根を寄せてしゃがみこむ。やっと透の足首を噛んでいる物体に気が付いたらしい。歯に指を引っ掻け、透のように左右に開こうとする。
「おい、指切れるし無理だってそんなもん……」
「ふんっ!」
指が切れる前にかぱり、と、ポテチの袋を開けるように簡単に開けた。
ぶしゅ、と、足首から新たな血が流れ落ち、透は奥歯を噛みしめた。
「―――っ、ぐぅう……!」
「足元がお留守だったのね。まったく、上ばっかり見て歩くんじゃないの」
「どちらかというと下を向いて生きてる方なんだけど」
じっと怪我を見られ、透は居心地悪そうに肩を竦める。光の方がよく怪我をして帰ってくる。その時の怪我を比べたら大した事は無い。透はまったく大したことではないのだが、光は初めて怪我を見るように、じっと注意深く見つめていた。
「光……?」
そんな光を物珍しそうに見る透が、ゆっくりと痛みを抱えながら身体を起こすエンブリオの姿を捕らえた。
「くっ……なんて事だ、この俺がイノシシなんぞにこの始末……」
ぶつぶつとイノシシに負けたショックが大きすぎたのか、目の前に光が立ち、見事な蹴りを決めるまで存在に気付けないでいた。
足の甲が顎下に決まり、そのまま上へ蹴りあげた。
のけ反り口から血を噴き出すエンブリオの胸に更に足を乗せ地面に押さえつける。
「透を殺そうとしてたの?」
光の足裏から声の振動が響くほど、光の声は低かった。
まるで仰向けになったカメムシを見るように、エンブリオを見下ろす。
「誰だ貴様は、関係ないだろう」
「私はコイツの妹で、関係ないわけない。しかも怪我をしている。ならば貴方を殺しても何の問題もないわけじゃない」
親指で指し示す同じ顔に、エンブリオは何度か見比べてようやく理解したようだった。
「殺し屋を気安く踏みつけるものじゃないぞ」
「ドン・北村にこんな様で殺し屋なんて冗談でしょう? ガキがプロって言いたいだけのままごと遊び以外に、何があるっていうの?」
「貴様……!」
「何よ、言い返せることがあるなら言い返してみなさいよ。場外ホームラン決めてやるわ」
エンブリオが眉を吊り上げ、光の足首を腕で跳ね上げ立ち上がる。
体制を崩した光だったが、すぐに殴り返す用意は出来ていた。エンブリオも武器のない今、戦えるものと言えば拳だけだ。
お互いに殴りかかる。腕がクロスし相手の顔面へと拳が伸びていく。
「おい光、やめろって!」
時すでに遅し、相手のパンチが顔面に直撃し、二人とも口から血を噴き出させる。
「これが殺し屋のパンチなの? そこらの不良と大差ないわね」
ぺっ、と地面に血を吐きだし言い放つ光に、エンブリオは袖で血を拭う。
「貴様こそ、女にしてはそれなりだが、やはり俺の敵ではないな」
「敵ってイノシシとか? そりゃ私はお呼びじゃないわね」
ぴしっ、と空気が凍り付く。春の暖かな日差しの中、まるで氷河期がやってきたかのような冷たい空気に透はおいおいと四つん這いで木の幹に隠れた。
一触即発の中、森の奥から二人に向けてくるくると回転しながら紙が飛んできた。
「!」
「っ!」
エンブリオがそれを手で薙ぎ払い、光がしゃがみそれをかわした。ひらひらとエンブリオの足元に落ちた紙と、幹に手裏剣のように刺さった紙を拾い上げ読んだ。
『喧嘩はやめてよ』
と、紙を投げた古代が透に肩を貸しながらじっと二人を見ていた。透は痛みと安堵で顔を歪めながらその名前を呼んだ。
「こっ、古代さん……!」
『ありゃー、噛まれてたかー。イノシシは全然引っかかってくれないのにねえ』



「痛っ!」
古代の道場前に正座させられたエンブリオが、自分の頭に落ちたげんこつに思わず涙目になりながら頭を摩る。
「クッ、何故俺がこんな目に……!」
『喧嘩両成敗』
「アイツにはお咎めなしか! 俺の方がげんこつ一つ分多いぞ!」
『そりゃ君は弟子じゃないからね。透君は弟子割りが通用するから』
「俺も加入したいものだな」
『もういっぱいだから』
「何故腕が二本あるのか、それは弟子のパンチを二人分防げるためだろう」
まだ弟子になる事を諦めていないエンブリオを呆れながら見る透は、光がきつく締めあげた包帯に思わずうなり声を出す。
「うっ……ちょ、もうちょっと優しくしてくれよ……!」
「煩いわね。これくらいでいちいち泣き言いうんじゃないわよ」
更にきつく締めあげる光に、透はもう何も言うまいと口を閉ざした。痛みに耐える兄を見つめながら、喉のチョーカーを見る。
「……その首のやつ、変なおしゃれだと思っていたけど、どうやらあのお爺さんの差し金だったみたいね」
――一体どんなものなのか分からないけど、なんとなく想像が付く。
透が息を吸いこんだ瞬間、光の中にある警戒心が初めて、弱い兄に向かった。
その微々たる危険にぞわりと、頬を舐められたような感覚に震えた。
「ん? あー、うん、まあね」
「どんな効果があるの? 肩こり解消?」
「いや、そんな通販的な効果はないと思うけど」
「おんぶとだっこどっちがいい?」
「肩でいいよ肩で」
いくらなんでも恥ずかしすぎるだろうと、光に肩を貸してもらって立ち上がる。玄関先でタマがエンブリオと古代の周りで楽しげに尻尾を振っていたのだが、光が来るとその動きも止まり、キャンキャンと思い切り威嚇された。
「……行くわよ」
「……ああ」
真顔でタマを見つめた後、真顔で前を向いて歩き出した光は、古代よりも表情が読める。明らかに落胆している。
――コイツ、昔から子猫とか子犬とかめちゃくちゃ嫌われてたからなー
因果応報、いい様だと思っていたが、ここまで目に見える嫌われ方を目の当たりにして少し同情した。
身長差が全くない光は肩を貸してもらう相手にぴったりだった。歩幅もちゃんと透に合わせているのか辛くない。
「古代さん、それじゃあ俺帰りますね」
『あ、ついでにこの子もつれってくれない? ちょっと僕には手におえないよ』
「両手塞がって無理ですから」
『えー、そんな透くーん』
「そんな文字で甘えられても」
「いい年なんだから貴方がなんとかしなさいよ。こんな子供に子供押し付けてどうするの?」
最後に光にばっさりと切り捨てられた古代は、しょんぼりと老人らしく肩を落とした。
日長山をゆるりと下山しながら、双子は無言のままだった。
まだ喉にはチョーカーがあるような違和感を覚える。古代に肩を貸してもらった時、スリのようなゆるやかな動きで外されたのだ。
――まったく自覚はないけど
隣の光の横顔を見る。透には無遠慮な仏頂面は、愛嬌という物を知らない。
――コイツは何か感じ取ったみたいだな……
強いものにしか分からない感覚なのだろうか。すこし羨ましく思う。だが、それよりも光が思っているのは、
「アレ、アンタの師匠なのね」
「え、あ、うん。言ってなかったっけ?」
「言ってないわよ。びっくりした。アンタが殺し屋に目をつけられてない状況ならば、さっそく手合せお願いしたのに」
「古代さんはそういうのやらないと思うよ」
「もちろん手土産一つ持っていくわよ。せんべいとかおまんじゅうとか」
「絶対貰わないよそれ」
「え、嫌いなの? 老人皆大好きでしょそういうの」



二人が帰っていくのを見届けた後、エンブリオにさっそくお帰り願おうと振り返るとそこには誰もいなかった。
ふと耳を澄ませるとキャリーバッグのキャスターがコロコロと鳴る音が聞こえる。
古代は怯えつかれたタマが犬小屋に戻っていくのを見て小さく笑った。だが、表情筋は相変わらず動きを止めたままだ。
玄関に入り、下駄箱の上に置かれた救急箱を持つ。透の為にと出したのだが、それを治療していた光を思い出す。
――チンピラに型を教えたようなものだね。見事に喧嘩用に昇華している……どこかで見たことある動きがちらちらとあったけど……まさかね……。
ぽりぽりと頬をかきながら奥の戸棚に救急箱をしまう。
――あれが噂の妹か……確かにめちゃくちゃ強かったけど、なんだかなー。透君は何か勘違いしてるみたいだよね。
町に買い物に行くとよく聞く透の悪行、畏怖され恐怖され警戒される透は、不意を食らう事を恐れている。
――別にあの子自身がそれを怖がっているわけじゃないんだろうけど……やっぱりアレかなー。
腕を伸ばし背筋を伸ばしながらリビングへ入る。机の上に置いていた饅頭を取り出し、袋を開けて齧る。
「…………」
歯型をつけたまま饅頭をゆっくりと口から取り出し、ゴミ箱へ放り投げる。
袋を裏表見る。買ってきた饅頭だが、古代は訝しげにそれを見る。
他の二袋を持って窓際に行くと、そこには烏が羽を休めていた。
袋からまんじゅうを取り出し放り投げると、烏二羽がそれぞれ一枚ずつ加えて遠くに行った。
屋根の上で嘴で突いて全て食べ終えた瞬間、嘴を開けて口から泡を吹いて、木々をがさがさと揺らして落ちた。
――……あの子いつ入ったんだろ。
最近の子は怖いなー、と、ゆっくりと窓を閉める。
その頭上の屋根の上で覗いていたエンブリオはチッと舌打ちを漏らした。
「かけらも油断を見せないジジイだな……クソ、正攻法は無理か」
親指の爪を噛みながら悩んでいる様子のエンブリオだが、風で揺れる木々の擦れる音にまぎれるように姿を消した。



「何スか透さん、喧嘩行くなら俺も呼んでくださいよー! 水臭いなあ!」
「別に喧嘩行ってきたわけじゃないからね」
「じゃあその足の怪我何だったんスか?」
二日後学校に通学した透に、煉瓦が嬉々として話しかけて来る。未だ足は痛いが、日常生活に支障が出るような事は無い。
珍しく怪我をしている姿に、クラスメイトが少しざわついている。見知らぬ時、見知らぬ場所で見知らぬ危ない相手と見知らぬ種を蒔いたのだろうか。自分たちにその火の粉が降りかからなければいいがと更に距離を広げる。
背後ではその遠くなったクラスメイトを惹きつける光が、相も変わらず学生生活をエンジョイしている声が聞こえる。耳だけですでに辟易するのに、一々目で確認することもない。
――古代さんは古代さんで見舞いに伝書鳩寄越すし。俺の周りにはあんまり一般的じゃない奴が多すぎる。
はあ、と、目の前で拳を握りしめ、空中をパンチする煉瓦は普通の高校生に見える。喧嘩が好きというだけで、意外と普通の人間なのかもしれない。
チャイムが鳴り教室に教師がやってきた。教壇の上で今日中に終わらせるプリントを数枚掲げて全員に見せびらかす。
「すまん、これ先生が忘れていたようなんだが、提出日が今日までだ。皆この時間を使って頑張ってやってくれ」
「ええー」
「いやですよそんなのー」
「もー」
ブーイングが沸き立つ中、ピシャンッ! と、勢いよく教室のドアが叩きつけられるように開いた。
乱暴に開かれたドアを大股で入ってくるのは、見覚えのある顔とキャリーバッグだった。
そのまま一歩踏み込み、教壇の上に飛び乗る。
少し状態を反らし人差し指をまっすぐに透に向けて堂々と叫ぶ。
「また会ったな新橋透! これから貴様と同じ学校、同じクラスだ! もう日中安心して背中を晒すことはできんぞ! ふははははははっ!!」
全員硬直し沈黙する教室内で、腹から笑うエンブリオの声はよく響いた。
その声を聞きつけた隣のクラスの担任が困った様にA組の教室へ入ってくる。
「こら! 浅紫君! 君のクラスはB組でしょ!」
「何を言う。ここにはターゲットがいるんだぞ?」
「またそういう事を言って! 君さっきも違うクラスに飛び込んでいったでしょ! 先生の後ろをついてきなさいって何度言えばわかるの! ほら、来なさい!」
「何だと! このクラスじゃないのか!?」
「この隣! あとドア一個分向こうね! 早く! ハリーアップ!」
「そ、そんな! おい! 新橋透! 貴様こっちを……! あっ! 貴様もいたのか! クソ、何が何でもこのクラスに、グェッ!」
光も見つけ更にヒートアップするが、首根っこを掴まれ引っ張り下ろされたエンブリオは、キャリーバッグのように担任に引きずられ退場した。
そして隣の教室のドアが開き、閉じた音を聞いた後、クラスはまた動き出した。
「……えー、あれは隣のクラスの転校生の、浅紫君だね。皆も彼から元気を貰ったね、さ、プリントプリント」
机の上にプリントが配られ、名前を書きながらクラス中の視線が自分に集まっている事を透は理解していた。
「透さん、今日アイツしめるんですか?」
わくわくとした面持ちでこっそりと話しかけて来る煉瓦にも返事をせず、もくもくとプリントに向き合った。
今日中にどうにかしなければいけないプリントならば、さっさとどうにかしなければいけない。
ちらりと後ろを振り返った。光は優等生の顔をしてしっかりとプリントに目を落としていた。
だが、バチリ、と視線が合うと、口元だけ笑みを浮かべた後、またプリントに向き合った。
――やるならやってやるわよ
と、視線だけで言っていた。
知らぬ存ぜぬを貫き通せばいいはずの光だったが、はっきりと自分の力を見せてしまった相手には容赦がない。
おそらく口封じを行うだろうと、肘をついて透は深い溜息を吐いた。
静かな教室によく聞こえる、隣のクラスのエンブリオの声と千歳らしき声が聞こえた後、机がブルドーザーに押されたようにガチャガチャとなぎ倒され、阿鼻叫喚の声が響き渡る。
「新橋透は私がずっと狙っているのよ! 転校生が生意気な事を!」
「アマチュアが偉そうに! 素人なら眼球穿り出してプロの仕事を見ておけ! だから奴は今も生きているんだろう!」
「姉御! そんな野郎やっちまいましょう!」
「マジヤベー」
知らぬ存ぜぬは透だけではなく、他のクラス全員のようで、まるで石化したかのように誰も何も言わず黙々と授業を続けている。
おそらく日長山は春の暖かな日差しの中、絶好の昼寝日和だろう。畑の食物も光合成し、タマも小さく身体を上下させながら寝ている事だろう。
――……考えるの、やめよ。
授業中に思考を放棄した透は耳をふさいでがっくりと頭を下げて目を閉じた。












20140510



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