第三十二話





倒れた木の幹の切り口は、鋭利な刃物で切り落としたような綺麗なものではなく、木の抵抗を見せるかのようなサメの歯のようにギザギザとしたものだった。
その威力は頑丈な木の幹すら潰してしまう程の威力を持っていると、倒された木の悲鳴のようなざわめきが物語っていた。
そこに棒の先端から煙を出しているエンブリオが、どこに顔を向けるでもなく森全体へ叫んだ。
「見たか!? まさかパチンコ玉だけだとでも思ったか? 穴があれば何でも詰める。鼠だろうと虫だろうとぶっ放せる!」
だが、その自慢げな声も静寂が帰ってくる。それも分かっているように、エンブリオは棒の柄をカチャカチャと弄る。
「プロは酔狂に技を見せないものだが、貴様だけは特別だ。お前を殺して古代紫の弟子になる」
自らに言い聞かせるように呟く声は、息を顰めていた透にちゃんと聞こえていた。
茂みの中から目を覗かせ、動物のように見やる。腹ばいになって匍匐前進でエンブリオから距離を取る。
――うげっ、口の中に土が……! くそー、古代さん完全に面倒くさがって手かしてくれない! イノシシの時は簡単に倒したんだから、軽くできるはずなのに! 絶対丁度いい相手だと思ってるんだ! 力量差が分かってないよあの人は!
嘆きながら進んでいくと、草の茂みにサメの歯のようにギザギザとしたものがギラリと光り、透の指先が触れる前にその存在に気が付いた。
――これ動物用の罠! 危なっ! これイノシシ用かな……
よかったーと自分の運の良さに胸を撫で下ろしていると、ポケットに入っていた携帯が悪魔の来訪を告げる着信音をけたたましく響かせた。
「うおおおおおお!!」
 その瞬間、透は後ろも見ずにそのままクラウチングスタートを決め、一目散に走った。
「貴様ァ!」
背後からエンブリオの声が聞こえるがそれでも悲鳴をあげながら逃げ出す。そして元凶を作った携帯電話を取り出して耳に押し当てた。
「もしもし!?」
『いきなり半泣きとはいい事あったみたいね、お兄ちゃん』
ふん、と、鼻で笑う妹に透は額に血管を浮かび上がらせ、キョロキョロと木々の群れを見渡した。
「おっ、まえなぁ! タイミング悪すぎだろ! どこからか見てたのか!? 酷い奴!」
『はあ? いきなり私を悪者みたいに言わないでくれる? まったく、心配して電話してあげたのに……』
「やっぱり見てるのか!」
『アンタを四六時中見てるとか、そんなゴキブリでもしなさそうな事するわけないでしょ。噂話を聞いたのよ。針入の不良、番長ともども皆一人の男にやられたって。その男、エンブリオって名乗ってるんだけど……頭がおかしいのか何なのか分からないけど、殺し屋だって言ってたらしいわ。だからもう外出しないで家でゲームしてなさいよ』
「今ソイツに命狙われてる!」
『宝くじ以上の幸運ね』
「こんな運いらねー!」
『って事は本物の殺し屋なのね……いいなー、ほしいなー、私それほしいなー』
「あげる! あげるあげる! かわいい妹にあげる!」
『えー、くれるのおにーちゃーん、ありがとー、妹ちょーうれしー』
背後でまた木の幹が爆発して倒れる音が聞こえる。悲惨な状況だ。一体ここが何処なのか分からなくなり、遭難まで仕掛けている。
「で、お前今どこに!?」
『隣町に来てるわ。競歩で行くからそれまでに生きてなさいよ?』
「ダッシュで来いよ!」
そう言って通話を切った後、ハッと透は妹に頼る兄という図式に気が付いた。当たり前のように光を頼ったが、これでは意味がない。
――ウルトラエコーとか全然意味ないけど……
透は急ブレーキをかけて身体を振り向かせた。意外と近くにエンブリオは追いついており、背中を狙っていた先端から身体をよじらせかわした。
「ようやく観念したか」
偶然の産物だったが、エンブリオは相手が少しは骨があるものかとほんの少し考えを改めようかと、海風程度の判断を下そうとしていた。
その風向きの悪さに気が付かない透は、額に汗を滲ませながら思った。
――相手は俺が弱虫だと思ってる……実際に弱いし虫だと罵倒される日々だが……だが、そこをつけるはず! 油断した相手程倒しがいのある奴はいないはず。現に光もソファーで寛いでいる所を足を引っ張って落としたら顔面からいってたし。その後あの世へ逝かされそうになったけど、でもいけるはずだ!
ドキドキしながら、以前よりも強くなった事を強く自覚し、意識しつつ、透は期待と希望を込めて息を吸いこんだ。
「ワーーーーーッ!!」
思い切り、大声を出した。
子供が威嚇するような単純な方法だった。
――エコーで相手の体内を調べ上げ、弱点がわかるかもしれない!
そんな安直な思いで大声を出した。ただの大声だった。
「……なんなんだお前は……」
エンブリオがわけがわからないと眉を顰めて首を傾げた。いや、と思い直す。あの古代紫の弟子ならば、この拍子抜けするようなただの大声にも何か秘密があるのかもしれない。
「……わ、ワーーーーッ!」
「だからそれはなんだ!」
意味があるのなら言えというように叫ぶエンブリオに、透は何も言えないでいた。考えはあるが、意味がない。エコーというものを使用しようと思ったが、使用方法が分からない。
いくら喉を鍛えたとはいえ、体感としてエコーの出し方など、知るはずがない。
いきなり演技をしろと台本を読むことなく舞台上に押し出されたようなものだった。
――あれ、でも、そういえばチョーカーつけてるのに大声出せた……?
何故だと、チョーカーを触ってみる。いつもつけていたものだが、何かが違う。ベルトの穴を一つずらしたような違和感を感じ疑問に思う。
「古代紫が伝授した技が見られると思ったが……見せないのならばさっさと死んでもらおう」
ぎち、と、キャリーバッグから盤を掴み、空へ投げ飛ばした後、更にずるっ、と折り畳みの棒を取り出し組み立てる。
先端に矢印の形を形成し、それで透を指し示す。
長い矢印が、まるで槍のように見える。
「タ、タイム……」
おそるおそる両手を上げるが、今透が立っているのはコートの中ではなく日長山の森の中。エンブリオは顔色一つ変えずに一歩踏み込み、そのまま透の胸を目がけて突進する。
三角の盤からは、投擲する時と同じく刃が出ていた。鋭利な刃物に体重をかけられればあっさりと貫かれるだろう。
エンブリオは一気に間合いを詰めながら目を細めた。そして古代のメモを瞼の裏に呼び起こす。
『第三に、君は他人の為に強くなろうとしている。僕は、自分の為以外に強くなろうとする人間とは相いれないから』
――ふざけるなよ、誰が他人の為なんかに……! 俺は俺の為に強くなる! ただそれだけだ!
この目の前にいるひ弱そうな、明らかに他人の為に親切や偽善を働きそうな人の好さそうな顔をした男に、それをクリアしているようには見えない。
むしろ絶対の自信すらある。自分の為だけに強くなっているのだと。
胸を張って言える事だ、だが、それでも古代はそうは見えなかったのだという。
――クソ、一番間の悪い時に会ったからな……!
老人の第一印象は鉄鋼の固さだ。若者ぶった態度をとっているが、中々の頑固頭だ。無理に説得して弟子入りはもうできない。いくら毒を盛ろうともそれに勘付いて押し戻される。いくら何度も頼み込んでも首を縦には振らない。
もうやけくそで挑みかかり、力づくで弟子になろうとしたらあっけなく倒され、そのまま姿を消された。
探し出し、思いもよらぬ寄り道を各所でした後こうしてたどり着いた日長山で、何故かあれほど臨んだ椅子が、あっけなく存在し、そこに見知らぬ人間が腰掛けている。
いい加減にしろと、古代を殴りかかりたいが、それをすればまた病院のベッドに縫い付けられ、また煙のように消えるかもしれない。
エンブリオが透を間合いに入れて、後は心臓を貫くだけだと思ったその瞬間、ただの少年の背後からどす黒い空気が垂れ流れてきた。
「!?」
反射的に飛びのいたエンブリオに、一番驚いたのは走馬灯が駆け巡っていた透だった。
「え……?」
背後からがさっ、と草を踏む音がした。
警戒するエンブリオから視線を外し、後ろを振り返った。
そこには右側の腹部に大きな傷跡を持った、凶悪そうな巨大なイノシシの姿だった。老獪な雰囲気を放つその姿は年を感じさせ、そしてその年輪を感じさせる風格が備わっていた。
「ひっ……!」
「フシュー」
蒸気のような鼻息を漏らすイノシシに、エンブリオが構えなおす。
「コイツ……できる!!」
「たとえば人を殺せるとか!?」
「嬲り殺しを知っている顔だな」
「ヒィィィ!」
前足を蹴り、地面を蹴ったイノシシは、まるで魚雷のように地面の上を飛んだ。
透はそこらに生えている雑草のように風だけで倒れてしまった。イノシシの狙いはエンブリオだった。
「ぐっ!」
キンッ、と、イノシシの牙に棒を横にしてそのまま受けた。踏ん張る足がイノシシに押されて線を描く。
まるで大砲を真正面から受けたような衝撃に、眉を顰める。
――だがそれだけ! 所詮イノシシ。少し頭を捻った攻撃を食らわせれば、あとは鍋にして腹の中だ。
じゅるりと涎を舐めとると、イノシシの眼光が光った。
食欲に敏感なのか、鋭い牙で更に体重をかける。踏ん張る地面が抉れる。
重機と重機がぶつかり合うような光景に、透は汗を流しながら、後ろに下がる。その瞬間、がち、と何かを踏んだ感触がした。
「!?」
一瞬にして陸に打ち上げられたサメのような歯が地面から生えていたのを思い出した。そして右足首をがっちりと、噛みちぎられる程の力を持って肉に食い込んだ。
「―――――ッッ!!」
声にならない叫び声は、絞ったのどから空気だけが逃げた。耳に聞こえない声が森全体に轟く。
「………」
そして、タマに餌をあげていた声を出せない古代が、森に顔を向けた。
――何とかウルトラエコー出せたようだけど……
立ち上がって森を眺める。なんだか不穏な空気が漂っているようだが、まあ大丈夫だろうと、自分なら簡単に追い払える脅威に興味が無いように、古代は背を向ける。
――あの変な子がついでにイノシシの親玉倒してくれると助かるなー。人の畑荒らすんだもんなー。しかも僕が近づくとすぐ逃げちゃうし……。
まったく困ったものだよと、お腹いっぱいになったタマの頭を撫でる。うとうととまどろむタマが、またぱちりと目を開けた。そして悪魔の足音に向けるように、必死に高い鳴き声で吠える。
背後の坂から人の足音が聞こえる。
またよくない来客だったらどうしようと、頭を掻きながら立ち上がる。高くなった視界にゆるい坂を上がる人影が何なのか確認した時、古代はすぐに森を見た。そしてまた上ってくる人影を見て首を傾げた。
『透君って女装が趣味なの?』
古代は競歩でやってきた光にそんなメモを見せつけた。





「っぐあああああ! 痛ぇええ!」
指で隙間を作って口を開かせようとするがまったく開かない。頑丈な扉のようにぎっちりと固い刃に、指も切れて血がしたたり落ちる。
緑色の草に赤い血の雫が朝露のように落ち、草の頭を垂れさせる。
そのすぐ傍では巨大イノシシとエンブリオが激しい戦いを繰り広げていた。
距離を取り、すぐに接近し攻撃しあう。
エンブリオはできるだけ距離を広げたかったが、まるでダンスを踊る様にバックステップを決め、すぐに突進してくるイノシシは盤を投げる事も敵わない。
――無駄に隙が無いぞこのイノシシ!
元より、三メートルもある棒は至近距離では何の意味もない。こんな扱いづらい長さにした理由は長いほうが短いよりかっこいいからという理由だが、エンブリオはそれを嘆く事は無い。
――この俺を殺そうとしているというのか!? 動物の分際でふざけやがって!
一瞬、またほんの少し距離が出来た。その時武器を頭上に放り投げ、突進するイノシシをジャンプしてかわした。
そして空中で棒を振り回し、イノシシの頭に棒先を向け、重力に従って落ちる。
「取った!」
そして先端からセットしていた弾丸を打ち出す。
イノシシの眉間に向かって飛び出た弾丸は、まるで頭に目があるかのようにイノシシが後ろへ飛びのいたため、貫通する事は無かった。
「んな!?」
――なんだその危機察知能力は! まるで殺し屋のソレだぞ!?
いくら野生の動物とはいえ、ここまでの動き、感覚を持つことはまずない。
――まるで特殊な訓練を受けているかのようだ……!
誰か人間の差し金かと訝しみ、棒先が地面に落下し、竹のように地中に三分の一程埋まった。
「クソ!」
こうなれば肉弾戦で相手するしかないと降りて木の傍に立って構える。イノシシはエンブリオに向かって突進してくる。
岩すらも砕きそうな筋肉の蠢きにエンブリオはニヤリと笑って身をかわした。
ドゴンッ!
と、太い木に激突するイノシシの巨体が、ぐらりと揺らいだ。
「ははっ! 馬鹿め! 単細胞のイノシシにはこんな子供だましがお似合いか!」
殺気のない木にただぶつければいい。こんな簡単な手があったとはとエンブリオは高笑いする。
めきめき、と、木が斜めに蠢き、緑の生い茂った枝からは小鳥が慌てて飛び立っている。
「えっ」
その傾いだ先には、足首を噛まれた透がいる。めきめきと皮が剥がれ、どんどん近づいてくる太い幹に目を見開く。
「わ、」
すぅ、と、息を吸い込んだ。チョーカーをしていてこんな簡単に、大量の空気が吸えた事はいままでなかった。
家でもお笑い番組で大声で笑おうと息を吸いこむと死にかけるし、カラオケに行って歌おうとすると死にかけるし、遠くにいる煉瓦を呼ぼうとしても死にかけた。
呼吸のありがたさを再確認し、息を吸いこみ、大きく息を吐くという行為の恐怖を知った。
喉の三点の突起がぐい、と喉を押す。
いつもならここで空気が止まり、肺には空虚な苦しみが残るばかりだった。
肺に空気が充満する。まるでリボルバーに弾丸を込めたような重みが、空気の軽さの中にあった。
透は声を出すのを躊躇した。まるで、本当に拳銃を握り、引き金に指をかけたかのような緊張感と警告が指先を揺らした。
――なん、だ、この感じ……
喉が引くつく。だが、目の前には木が倒れて来る。
光を遮る幹の作る影に身体全体が覆われた。
喉を振わせようと、息を爆発させようと口を開いた。











20140420



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