第三十話





春も盛り、ゴールデンウィークが開けて数日経った日、落書きだらけの体育館から針入高校の不良たちを従えて、人生の全盛期のような鉛邦弘が堂々とグラウンドを横切っていた。
その表情は晴れ晴れとした雲一つない空のように澄み切っていて、後ろめたいことなど何一つないかのようだった。毎日が曇天のような日々を過ごしていた黴臭さは晴天にかき消された。
体育の授業は行われておらず、一般生徒はいない。鉛の後ろに控えた不良たちはトップの復活に皆胸を撫で下ろしていた。
「一時はどうなるかと思ったぜ」
「このまま引きこもって出てこなかったらどうしようかと」
「何でも新橋に再戦して勝ったらしい」
「マジかよ! さすが鉛さんだな! ただの筋肉達磨じゃなかったって事だ!」
「あんなボコボコにされたっつーのに挑むなんて……!! 男だ!」
背後からの後押しするかのような会話に鉛の耳も大きくなる。今なら何でもできると気が大きくなった鉛は、行先を変更した。
「よし、燐灰高校は後回しだ! まず鷹目高校で勢いづけてやろう!」
「うおおおお!」
「鉛さん! 鷹目の50勝50敗を破るときがきましたね!」
「ああ、これから先、奴らが俺達に勝つことはありえないだろう……今日から俺達の天下だ! いくぞ!」
「「おおおお!!」」
その不良たちの集団から一歩離れた菫は、腕を組んで彼らを見守っていた。
先日の透を使った簡単な心療治療は成功したようだ。鉛の目は生き生きと輝き、筋肉は生き生きと蠢いている。相変わらず制服は窮屈そうで、一人の不良の鞄の中には破れてもいいように、替えの制服が入っている。
不良たちも鉛の引きこもり期間に吹っ切れたようにいつも通りの品のない荒々しさがある。
――うん、いいわ……このまま一回鷹目学校に勝てるはず。そうしたら、鉛君は更に強くなれる……!
一回くらいの挫折も味あわせるべきだと思っていたが、時期が早かった。透には予定を崩されたがいい風が吹き始めた。菫は暴れる髪の毛を押さえながらグラウンドを横切る集団の後ろについて行った。
「ん? おい、誰だ?」
不良の一人が校門近くにぽつんと立っている人影に気がつき呟いた。キャリーバッグをゴロゴロと引きながら敷地内に入ってきたその男は、私服だが保護者ではなさそうだった。
服は汚れており、ホームレスにも見え、明らかに不審者であった。
「おい、テメェ何してんだ? あぁ?」
三人怪しいその人物に絡み始めたが、彼は動じずキョロキョロと周りを見て、
「おい、ここはどこだ?」
「はぁ? 頭おかしいんじゃねぇのか? 分からずのこのこ入ってきたのか。ここは天下の針入高校、我らが番長がこれから他校に殴り込みに行くんだ、そこをどけ!」
「針入……? 燐灰じゃないのか?」
「燐灰は隣の町だボケ!」
「何だ、俺はまた寄り道をしているのか……はぁ。こんな動物園に来たくて来たわけじゃないんだが……」
「テメェ今なんつった!?」
「ぶっ殺すぞコルァ!」
顎をしゃくりながら不良が詰め寄り睨み付ける。一般人ならすぐにでも逃げ出す状況だが、彼はただ眉を跳ねさせただけだった。
「……殺す?」
「あぁ、ぶっ殺してやる」
げへへ、と品のない笑みを浮かべこれ見よがしに拳を見せつけ、鼻先に近づけた拳を振りかぶった。
「っしゃっ!」
拳は顔に届くことなく、あっけなくキャリーバッグを握っていた手のひらに収まった。
「ぎゃあっ!?」
そのまま握りしめられ、手の関節という関節がぎちぎちと悲鳴をあげ始める。
のけ反り手中から逃げようとする不良の一人に、仲間が慌てて殴りかかる。だが、足でキャリーバッグを蹴りあげ、そのパンチをバッグにうけさせた。
ぴかぴかと輝く鋼鉄の表面は、予想以上に固かった。骨に罅が入る感覚にまた不良がのけ反って叫んだ。
「ぎゃああああ!!」
「貴様が言ったことは、こんな料理俺でも作れるぞと料理人の前で言うようなものだ」
足元で手を押さえている不良二人を見ず、キャリーバッグについた埃をはらいながら言った。
「厚顔無恥もいいところだ。殺されないだけありがたいと思え」
「待て」
「何もしていないぞ」
ざっ、と周りで息巻いている不良たちを押さえながら鉛が前に出てきた。キャリーバッグの取っ手に手をついて寄りかかりながら、彼は首を傾げる。
肩を竦めてリラックスしている様子に、鉛の額に血管が薄らと浮かび上がる。
「おぉ……鉛さんが怒ってる……!」
「あんな小心者の鉛さんが……!」
「今、気が大きくなってるから調子に乗ってるんだな……!」
こそこそと珍しい番長の怒る様子に、不良たちは物珍しく会話を弾ませていた。今にも殴りかかろうとしていた不良たちが一歩退き、鉛とキャリーバッグの男が円を囲むように空間が開かれた。
「確かに今のはコイツ達が絡んだ事が悪い」
「だろ?」
「だがしかし、ここは針入高校の敷地内。関係者でもないお前が勝手に立ちいった事に原因はある」
「ほう」
「何者だ、関係者ならこのまま手打ちにしよう。部外者ならただではおかない」
「フッ、不良が警備気取りか。その見た目からして見せしめ担当というところか? くだらないな。ここが誰の敷地内だろうが関係ない。俺が来たくて来たわけでも、入りたくて入ったわけではない」
「なら何故ここに来た」
 鉛のストレートな問いに数秒固まったが、
「……まあ、それは俺が寄り道をしたというだけの事だ」
ふ、と肩を竦めて笑うキャリーバッグの男に、鉛は会話を続ける事を放棄した。そのままわかりやすいように近づき、拳を振り上げ顔の前でぴたりと止めた。
「ほう……」
「悪いが、針入の敷地は寄り道で跨げるほど安くはない」
「貴様、この俺に情けをかけたつもりか? 安いプライドだな」
下から見上げ、嘲笑うキャリーバッグの男の見下す目に、鉛はカッと目を見開きそのまま攻撃を繰り出した。
今度は寸止めしない拳だと誰もが見て取った。悲惨な光景が待ち構えているだろうと誰もが思ったその瞬間、キャリーバッグの男はニヤリと笑った。



「貴様らのような人間には本気をぶつけるにも値しないな。無駄な時間を過ごした」
喧嘩が始まった瞬間、放り投げたキャリーバッグを拾い上げながら呟いた。鉛は白目を剥いて仰向けに倒れている。そしてそれを囲むように見ていた不良たちも全員意識を失っていた。
死屍累々の中、立っているのはキャリーバッグを持った男と、少し離れてただ見ていた菫だけだった。
かたかたと震える身体は、恐怖からなのか怒りからなのかわからない。わなわなと震える唇を噛みしめ、ぐっと怒りによって吊り上げられた眉を立ち去ろうとする男に向ける。
「待ちなさい!」
「……なんだ、お前も相手になるのか」
鉛と同じ言葉を発した菫に、ゆっくりと振り返る男に菫は一歩も近づかず、腕を組んで問いを投げた。
「貴方、一体何者なの。近隣の学校の生徒じゃないわね」
「ハッ、学校? まさか俺を不良か何かだと勘違いしているのか? 馬鹿め」
せせら笑い、ポケットから名刺を取り出し鉛の胸の上に投げ捨てた。
「強すぎて倒せない奴がいればそこに連絡を入れろ。この殺し屋エンブリオが必ず殺してやる、が、骨が無い相手だった場合、報酬は依頼人の命で払ってもらうがな」
ゴロゴロとキャリーバッグを引きずり歩き出した、が、すぐに立ち止まり振り返る。
殺し屋という単語に眉根を寄せている菫が、警戒しながら見やった。
「……ところで、日長山という場所にはどうやって行けばいいんだ?」




『おいおい透君、日長山みたいな低い山でそんなに疲労困憊でどうするんだ……』
「ハァ、ハァ……古代さん……俺、もうこれ、外したいです……虫の息です……」
『虫の呼吸はもっと静かだよ。聞こえないくらい静かになったら外してあげよう』
「証拠隠滅!」
古代の道場前の敷石の上に倒れている透に、古代はさらさらと筆を走らせる。相変わらず透の喉には強制チョーカーがつけられており、先ほど日長山を駆け降り、駆け上がりを十回ほど繰り返させた師匠、古代は親指を立ててメモを渡す。
『けどまぁ、最初に比べると格段に喉をうまく通してるよ。普通の人間がそれをつけたまま全力疾走すると死ぬからね! 透君才能あるあるよ!』
「ま、マジですか……才能無かったら墓の下だったのか……よかった……」
ゼー、ゼー、とまだ呼吸はままならないが透は虫の息のままポジティブに答えた。
爽やかな春の風が、森の緑の涼しげな音と共に汗にまみれた額をなぞって通り過ぎていく。まるで友達の肩を叩くような気軽さで、春の季節を感じた透は仰向けに身体を動かして青い空を見上げた。
その前には古代と、古代の道場兼家と、森の緑色の頭が茂っているのが見えた。
――……アイツ、山に気軽に籠ってたけど……
古代が水を持ってくるとメモした紙を受け取って身体の向きを横に変えた。
――全然気軽に行ける場所じゃないよな……
古代の丸文字の向こう側の森の入り口に目をやった。あの向こうには古代の畑があるのだが、少し距離があって一目で見ることはできない。うっそうと茂った森は沼のようだと透は思う。
あの奥にはイノシシやらクマやら色んな動物が隠れている。
――……あんまり深く考えたこと無かったけど、結構距離あるんだよな。
呼吸が整いながら、透はゆっくりと身体を起こした。
――そう思うのは、俺が追いかけようかとか思ったからなんだよなー。
さくらに負けて焦って、ついでに光にもたどり着ければいいなと気軽に挑んだ坂道は、思った以上に急こう配で。
距離をおいてみていた景色は案外険しいもので、普通の人間には絶対に無理だと思えてしまう程のもので。
そんな場所に透を押し上げようとする古代がペットボトルを持って透に差し出してきた。
『うん、呼吸もいい感じに戻ってる。日に日に強くなってるね、呼吸が』
「……俺自身が強くなった方がやる気が出るんですけどね……」
『ははは!(笑) 焦りは禁物だよ。焦っていい事なんて一つもない』
「ですよねー……」
『とは言っても、ここまで地道に頑張ってる透君に一つ技を教えようかな!』
「えっ、マジですか!?」
ぶはっ、と水を噴き出しそうになりながら、目の前にぶら下がった餌に馬鹿みたいに飛びついた。
とうとうこの泥臭い修行らしい修行からランクアップする。学生がファミレスからカフェに、カフェからフレンチへと進化を遂げるようなものだ。
『技術はあんまり必要ないものだからね、肺活量が必要だったのさ! その名もエコー!』
「意外とそのままッスね……」
堂々と筆で力強く書いたがそのまますぎる。透もそのまま率直な意見を言うと、古代の無表情が更に深く沈んだように見える。
『そ、そうかな……じゃあウルトラエコー! ってのはどう? ナウイ?』
「えー、あー、い、いいんじゃないッスかね……なうですね……なう……いや! 結構いけてますね! マジ凄いッス! いいですね! いいね!」
今度は雑にオブラートに包んでみたが、古代は更に深く沈んだ。慌てて空元気を取り繕うと、ぱぁぁっ、と強面の無表情の老人の背後に花が咲いた。
『だよね! マジなういよね! 若者だよね! よし、じゃあそのウルトラエコーを実践してみようか!』
とは言っても古代は喉が潰れて実際にして見せることはできない。
それに気が付いたのか、すう、と息を吸いこんでしばらくした後、慌てたようにメモを取り出してさらさらと筆を走らせた。
『まずエコーっていうのは音を出してその反射した音を聞いて、障害物との距離を測る事ができる、つまりエコーロケーションの事だね。目を閉じていてもそれができれば周りに何があるのか、どんな素材かというのを知ることができるようになる。だから両目にものもらいになっても普通に歩けるようになれるってわけさ!』
「ウルトラエコーよりも両目眼帯の方がウルトラな気がしますけど」
『花粉対策にもなるよ!』
「ゴーグルの方が実用的では」
頑丈な対花粉用ゴーグルをするのと、両目眼帯にしてエコーロケーションをしながら歩くのとどちらがいいのだろうか。
「で、そのウルトラエコーの出し方は?」
暫し古代は固まった後、ぽりぽりと筆の尻で額を掻いた後、メモに丸文字を書いた。
『言葉にできない』
「一番言葉にしないと分かりにくい人が」
『だってだってー! 表現できないんだもんー!』
「そんな字面だけかわい子ぶられても!」
これはメモ用紙が何枚も使われそうだと、体力もついでに削られるのだろうなと予感しながら透は起き上がった。
自分の両足の裏にしっかりと地面の固さを感じる。
「古代さんがたとえ出来ていたとしても、俺とじゃ体格とか肺活量が違うからなー」
『まあ、それは単なる飾りみたいなものだからね。素質があるかどうかっていうのが一番重要な所かな』
「お金で買えない物を簡単に要求してきますね……できるかなー」
『できるよきっと!』
「だといいんですけど……」
なんか信用できないなー、と訝しげに肺に思い切り空気を吸い込ませる。チョーカーの圧迫感を感じない、微妙な速さでゆっくりと、慎重に吸い込んでいく。
――肺活量すごくなった気がするなー。
まだ計ってはいないが感覚としてそう感じる。そう意識する事は悪い事じゃないだろうとぎりぎりまで空気を吸い込んでいく。
この声量を光との口喧嘩にでも使用できれば無敵なのだろうが、口喧嘩でそもそも勝てていない。不用意な溜息程度の一言が、光の機嫌によって同じく肺ではなく、右腕を駆使して返される事があれば鬼に金棒ではなくたんなる猫に小判だった。
――あっ、これ吐き出すとき大声出せないじゃん!
最後まで時間をかけて吸い込んだ末、それを吐き出す方法に足を躓かれた透は、焦らず息を吐きだして古代にこのチョーカーを外してもらおうと抗議しようと小さく息を吐き始めた瞬間、森から何かが飛んできた。
それは地面を蹴るイノシシでも、空を飛ぶ鳥でもなかった。
三つ、まるでロケットのように一直線に低空飛行をして古代と透を狙っていた。
回転しているそれらは三角の形をしていて、その外側にはのこぎりのような鋭利な刃物が風を切りながら向かってきた。
「――!?」










20140417



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