第十六話





五月の暖かい日差しが朝の通学路を照らす。生徒がざわざわと通学する燐灰高校の屋上から門を見下ろす影があった。太陽を背に見下ろすその巨躯は身体は風に吹かれても揺らぐことはない。
ばたばたと学ランをたなびかせ、眩しそうに目を細めてじっと人の群れを見つめる。
何かを探しているその視線は、グラウンドに入ってきた一人の生徒の姿を捕らえ、ぴくりと反応した。
すっ、と、フェンスから離れたその影はグラウンドから見上げると逆光で全く見えず、透も他の生徒も誰も気が付くことはなかった。
「そうそう、そういえば今朝変なチラシが入ってたんだけど煉瓦知ってる?」
「あ、俺の所にも入ってましたよ。あれ何なんスかね?」
「悪戯かなー?」
朝ポストを覗くと、新聞と共に一枚のチラシが入れられていた。明らかに広告ではなく、個人としてポストに入れた形跡があった。
白いA4の大きさで筆で描かれた『最強求む者求む』という文字と共に、住所と電話番号が書かれていた。
もしかして果たし状か何かかと怪しんだのだが、どうやら他の家にも同じように届いていたようで、お隣さんも真向いの家もそろって首を傾げていた。
煉瓦の家にも入っていたという事は、範囲は燐灰町なのだろうか。
「そういえば昨日貸したゲームどうでした? 俺結構手こずったんスけど」
「煉瓦はスポーツもの結構苦手だよね」
「殴り合いとか殺し合いならうまくいくんスけどね。なんでなんでしょ」
朝から危ない言葉を発しながら首を傾げる煉瓦に、透は軽く笑う。
「スポーツマンじゃなく不良だからじゃない?」



シューズのスキール音が響き渡る。何人もの生徒が反復横跳びを繰り返し、バスケットのボールを弾ませる音に倣うように呼吸も弾ませる。いつものバスケ部の朝練風景が広がっていた。汗を流す青春の光景は、バスケ部エースの海老杉智彦は心地よく見渡していた。
「よし! 最後はパス練して終わりだ!」
「ウッス!」
海老杉がバスケ部をまとめ上げ、部活の中心的存在となっていた。
「海老杉さん、気合入ってるなー」
「そりゃ、最後の年だしな」
一年生が汗を流し、言葉を投げながらパスをする。
「あの人のバスケへの情熱は凄いよな」
「かっこいい顔してるし、スポーツマンで成績もいいしずるいよなー」
「ああ、俺達も負けてられないな!」
体育館の出入り口には女子生徒が中の様子を伺っている。それに気が付いた海老杉が爽やかに微笑み返すと、小さなざわめきが生まれる。
黄色い歓声を受けても海老杉は澄ました顔をしてバスケットボールに触れていた。
「きゃーエビちゃん!」
「かっこいいー!」
後輩からも女子生徒からも好かれているバスケ部エース、海老杉智彦は部活のハードな朝練が終わり、すでに自分に満足していた。
――バスケの才能もある、女子にも嫌われていない、後輩からは好かれていて、先輩からはかわいがられる。
何て充実した人生だろうとまざまざと感じる。パスを出しながら、そのバスケットボールの感触すらまざまざと幸福感を覚えるほどだ。この世のすべてが自分を肯定してくれているようだ。
――今まで僕は一度として、誰にも劣等感を抱いた事はない……自分より強い選手を見ても、いい目標として見ている……。
――普通、自分よりかっこよくて背が高くて強い相手にそんなポジティブな視点を持てるか? いや、持てるはずがない。負けたときの敗北感と合わさった劣等感ははっきりと顔に出る。
――だが、僕はまったくそんなことはない。
――顔に出ないどころか、抱く事すらない。
――ありえないだろう人間として。出来過ぎている。人気者で大抵の事が出来る劣等感を抱かないただの好青年。
朝練を終え、ボールを片付け体育館を掃除した後、教室に戻る道中、溜息交じりに思う。
――こんな殆ど勝ちが決まっているような人生なんて楽しいのだろうか……もっと他のコンプレックスを持った凡人の人生を汲み取るべきなんじゃないのか?
海老杉は三年生になり、受験も差し迫るというのにすでに合格が目に見えている現状の中で見据えるべき所を見据えていた。
これからの人生、更に勝ち続けていくであろう人生のゆるやかな波に、荒々しさがほしい。
――もっと波乱万丈な人生がほしい。この僕に似合わないどん底に一度落としてほしい……誰か、劣等感と一緒に送ってくれないか……
不幸が無い事が不幸だと額に手をあてて歩いていると、生徒のざわめきの中、聞きなれた単語が放たれた。
「―――で、バスケの事なんだけど」
ぴくりと反応したのは、バスケ部として中高と培ってきた時間の為だ。特別な思い入れは特にない。
バスケ部エースの海老杉が顔を上げた先には靴を脱いでいる煉瓦とシューズに履き替えている透の姿があった。
「あれって結構簡単だよねー」
「え、マジっすか? 結構難しいと思うんスけど……」
「そう? 俺昨日数時間しただけだけど、完璧にマスターしたって感じたけど」
「すっげー! さすがッスね! 透さんには不可能はないんスか!」
「いやいや、だって……」
「ねえ」
透の言葉を遮ったのは海老杉の冷たい声だった。
波乱万丈な人生、不幸、劣等感。今まで考えていたくだらない暇つぶしは一気に頭から取り除かれられた。
目の前にいる制服に着られている新入生に、三年生の海老杉が近づき見下ろす。
「今の話は何かな?」
「え、……あの……」
「おいコラテメー何透さんに絡んでんだ」
「ちょ、煉瓦」
「透……新橋透か、聞いたことがある……」
ここ最近危ない新入生が入ってきたともっぱらの噂である。知らないはずがない。
――この人三年の人だ……
石竹小雪を探しているときに一度ぶつかったことがあるのだが、海老杉はまったく記憶にないが透は覚えていた。
確かバスケ部のエースとか言ってたな。と、記憶を呼び起こしていると海老杉が透の胸倉を掴み、顔を近づけ睨み付けた。
「喧嘩が強いのか知らないが、バスケの事を軽々しく扱ってほしくないな」
「へ……?」
「志の無い君の軽い言葉は不愉快だ。今すぐ体育館に来い。僕とバスケで勝負しろ!」
びしっ、と体育館の方角を指差し叫ぶ海老杉に、透も煉瓦も困惑するしかなかった。相手はバスケ部のエースで、不良ではない。いきなり喧嘩を吹っ掛けてくるなど意味が分からない。
海老杉の荒げた声音に靴箱にいた生徒たちがざわざわと遠巻きに見て来る。
「海老杉君じゃない?」
「何してるんだろ……」
「あっ、一年の新橋だ!」
「喧嘩か?」
「嘘だろ?」
ざわざわと様々な憶測が飛び交う中心、透は胸倉を掴まれたまま顔を青くして海老杉の殺気を見てビビっていた。
「あ、あの、何か誤解があるようですが……」
「誤解だと? ああ、そうだね。君の認識の甘さを正してやる!」
「いやいやいや」
「透さん! そんな奴一発殴って大人しくさせちまいましょう!」
「無茶苦茶言うなよ!」
「無茶苦茶は君だ!」
徐々に混戦する三人に、野次馬が更にざわざわと興味を持って見つめている。その中に光は慌てたように、双子の兄がなぜか絡まれており、妹としてはいてもたってもいられないという健気さを装って三人に近づいた。
「お兄ちゃんっ! 何してるの……?」
「ひっ、光……」
猫なで声に思わず鳥肌が立ったが、どうやら助けてくれるらしいと汲み取ってほっとした。
兄の胸倉を掴んでいる海老杉は、光を見て透を見た後、さすがにまずいと思いぱっと手を離した。
光はわざとらしく胸に手をあてて安心したように微笑み、海老杉に頭を下げた。
「すみません、兄が何かご迷惑を……?」
「いや、少しズレが生じただけだよ。君は気にしなくていい」
女子生徒用の笑みを浮かべて小さく手を振る。柔和そうなその微笑みが、透へ再度視線を向ける瞬間に切り替わる様は、まるで職人技のようだった。
「新橋透君、今日昼休憩に体育館に来い。そこでバスケットボールがどれほど奥深いものか、君に指導してあげよう! そこの君も来たまえ! 試合をする!」
「え、えぇぇえええ!?」
「もちろん! その勝負乗ってやるッスよ!」
「なんで煉瓦が返事するんだよ!」
ちらり、と助けを求めるように光を見たが、もうすでに光は白けた目をして透を見ていた。興味をなくしていたのだ。
――そんな!
わけのわからない事でいちゃもんをつけられてはいるが、相手はバスケ部エースで、はっきりとバスケットで勝負しろと言っている。誤解だと知らない光は自分でまいた種ならどうにかしろよと、自分の事を棚上げで双子の兄の事を他人のように眺めている。
「……わ、わかりました……」
「そう、じゃあよろしくね。ほら、皆もボーっとしてないで、早く教室へ戻るんだ」
がっくりと肩を落とし頷いた透に頷いた後、周りのギャラリーに散るようにと手を振った。
「さすがッスね透さん! 応援するッス!」
「あのさー……」
透がとぼとぼと歩きだし階段へ向かった。海老杉の横を通り過ぎる際にわざととしか言いようがないほどに、バレエのようにすっ、と、透の足に足先がひっかけられた。
「ぶへっ」
呆気なく転んだ透に海老杉は驚いたように謝った。
「おや? あぁ、すまない。足が当たってしまったようだな」
顔から落ちた透は赤くなった鼻を押さえながら立ち上がった。周りの生徒も透がどんくさく転んだように見えただろうが、光はしっかりと、海老杉が足を狙って出していたのを見ていた。
透がまた階段へ向かうが、光の姿が見当たらない。振り返ると光は立ち止り、背を向ける海老杉を鋭く見つめていた。
殺気を滲ませてはいないが、不機嫌な事は分かる。めらめらと光から炎が立ち上っているのが透には見えた。
「………」
「透さん? どうかしたんスか?」
「あー、いや……」
嫌な予感程よくあたるものだ。











2014021



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