第十四話





体育館の二階のキャットウォークに腹ばいになって覗き込む千歳は、思わず手に汗を握った。
――あんな攻撃大したことはない……! 私の方が何倍も速いのに!
遠回りをして人に何度も道を聞き、最終的に道を尋ねた着物を着た老人に一緒についてきてもらい、なんとか体育館に侵入した千歳は、あっけなく攻撃を受け、周りの不良たちが調子に乗っている光景に歯ぎしりをする。
――何を笑われてる新橋透! 私に勝っておきながら許されない事よ!
もしここで負けることがあった時は、その時は……! と、決意を固めてナイフを握りしめる。

「どうした、先ほどの一撃はたんなるまぐれなのか?」
「ふふ……いえ、いや……久しぶりの喧嘩だから、テンション上がって……ふふ……やっぱりさ、何でもいいものがいいんだよね。食べ物でも、喧嘩する相手でもさ」
ざっ、と光も構えなおし、血の滴る口元には堪えることのできない笑みが浮かんでいた。
「肥えた舌には最上級の物が必要なように、それなりの力を持った奴にはそれなりの奴と戦うのが一番。切磋琢磨、素晴らしい」
「ふっ、貴様と俺が同等だと? ライバルになりえるというのか? それもおもしろい、いいだろう」
「勘違いすんなよ。そこらの雑魚とは違うってだけで、お前はまだ庶民の味だ。その中でただ高級な醤油を使ったってだけ。唯一筋肉があるってだけだ」
「なんだと……!」
額に血管を浮かび上がらせ、怒りを滲ませる鉛に鼻血を拭いながら光は笑った。
「それだけ頑丈な筋肉なら、ずっと立っていられるだろう? 想像以上にいいサンドバッグだと感動したんだよ」
「っ! 貴様ァ!」
眉を吊り上げ、憤怒の形相をした鉛に菫はタオルを投げ込むように声をかけた。
「鉛君!」
頭を冷やせという声に、鉛は怒りを鎮めた。感情を操作することも大切だと菫はよく言っていた。
――そうだ、これもインストラクターに必要な事だ……。
ずれた考え方で怒りを鞘に納めた鉛は、いつも通りの表情に戻り、そしていつも通り自信に満ちたように腕を組んで立ち直した。
「サンドバッグか、それもよかろう! 俺は貴様のパンチなどでは倒れん!」
「へえ、頑張って」
「俺がたとえ倒れても、俺の肉体が倒れることは決してない!」
バッ、と制服を脱ぎ捨てた鉛はぴくぴくと動く筋肉を見せつけるように腕を上げポーズをとった。
不良たちの歓声が体育館を揺らすほど大きく膨れ上がった。
「ウオォー!」
「いつ見てもかっけぇ!」
「本当に同じ人間かよ!」
「まるで宝石のような筋肉!」
「番長やっちまえそんな奴ー!」
まるでスポットライトが当たっているかのように、鉛の上半身の筋肉は輝き始めた。夕日に照らされた筋肉の凹凸が、眠れる力となって周りの男たちにこれ見よがしに照り返す。
「ふふ……そうよ、鉛君は流されやすくって小物で、目標も低い駄目な人間だけれど、あの身体はカリスマ性を持っている。どんな男の子も憧れ、平伏せ、啓蒙せざる負えないもの……私にはさっぱりわからないけど、私の計算には抜かりない! さあ、新橋透君、彼の前に跪くがいいわ!」
菫が勝利を確信したように手を広げて叫ぶ。鉛の至近距離、まるで彼の為に鉛がポーズを決めている。
歌姫がたった一人の為にバラードを熱唱しているような、そんな神々しさを感じている。周りの不良以上に、そのオーラは強く感じているはず。
――立っていられないでしょう? 膝をついてその筋肉に憧れ、尊敬してしまう……さあ、早く私達の傘下に!
鉛も菫も勝利を確信していた。いつでも跪いてくれても構わないと、転校届を用意している。
だが、彼は跪かなかった。
それどころか、首を傾げ、馬鹿にしたような視線を鉛に向けた。
「んなっ……!」
ぴしり、と、鉛に罅が入った。今までこの肉体で陥落しなかった男はいない。同じ男なら、この筋肉さえあれば敬うはずだ。
今まで積み上げてきた肉体のプライドが一気に瓦解する音を鉛は無防備に聞いていた。
「な、何故! 何故新橋透は動じないの!?」
菫が理解できないと驚く。その横で透が口に手をあて、静かに涙を流している。
「……神だ……」
バッと菫が隣の光を見た。針入高校の番長が制服を破る光景を見るといいことがあるという噂は、おそらく事実なのだろう。
だが、それは女子には全く通用せず、その幸福が巡ってくるのは男のみ。
――あの筋肉は男を自信に満ち溢れさせる……希望だ……!
神々しさを感じ、両手を合わせて拝んでいる光に扮した透に、ただただ困惑した。
「な、何故!? 何故そんな風にあがめられるの!? 意味が分からない!」
女にあの筋肉の良さはこれっぽっちも分からない。鉛は男に崇拝されても、女には煙たがられる存在だ。菫自身個人的にあの筋肉を評するとなりそこないのプロテクターだ。はっきり言ってみて楽しいものではない。
「あの筋肉暑苦しくない?」
「分かるー、夏とか視界に入るだけで嫌だもん」
と、クラスの女子に言われ泣くようなじめじめした男の暑苦しい筋肉に、何故、新橋光が感涙しているのか。何故新橋透は跪かないのか。菫は二重に混乱する。
「エキサイティンッ……」
ずび、と鼻水を垂らしながら更に声を漏らす透に、菫はぶるぶると震える。
「こ、この子……頭おかしい……!」
透のかわりにするように、光は目の前でショックを受けて震えている鉛の前でティッシュを取り出し、鼻をかみ始めた。
「ッ! テメェ! 何してんだぁ!」
「黙れ! 鼻が詰まったんだよカス!」
「おま、ふ、ふざけんな! 目の前に、男の理想像があるんだぞ!? 何呑気に鼻の詰まり気にしてんだ!」
「美術館でしてみろ殺されるぞ!」
「薄汚れた体育館じゃ鼻もろくにかめねぇのかよ」
ぽい、と背後に鼻血のついたティッシュを放り投げ、光は手を上に向けてくいくいと手前に動かす。
「鼻も通ったしやろうか」
だが鉛は動かず、両手を上げたポーズをとったまま彫刻のように固まったままだ。
「見事なサンドバッグね」
思わず地声でしゃべるが鉛には聞こえていない。
光は言った通り、鉛をサンドバッグのように殴り始めた。
見事にバキバキに割れた腹筋を叩き割るように、大木のような背筋を折るように、左右背後に移動しながら鉛にダメージを与えていく。
パンチを繰り出すたび、光の身体が残像を残すほどにスピードを上げていく。
――アイツ、前より早くなってる?
透が思わず涙と鼻水を止め、合わせていた手を解いて光の動きを見た。
山にこもりダイエットに励んだ代償は喧嘩に顕著に表れているようだが、
――でも、前より軽くなってるような……
体重ではなく、パンチ力が。
いくら鉛の身体が頑丈とはいえ、あれほどのラッシュを浴びれば普通は倒れる。以前よりも筋力が落ちているのかもしれない。
殴られ、ダメージを受けた鉛は意識を取り戻し、目の前をちょろちょろとすばしっこく動き回る光に、筋肉を膨張させパンチを放った。
風を切る音がするほどの勢いだったが、光は簡単にそれを避けた。
余裕を見せる光だったが、下から勢いよく振り上げられた膝が見事に顎にヒットした。
「――!?」
ぐらぐらと視界がぶれる。そのまま背後から倒れると、巨大な山のような威圧感を持って鉛が光を見下ろした。
「許さん……貴様だけは……! 俺の肉体を持って屈服させてやる!」
ぞわぞわと、ただ身体が大きいだけの敵の背後から、暗雲のような殺気がにじみ出るのを光は見た。
ぎちぎちと筋肉が怒りになる音を光は聞いた。
そしてニヤリと、揺れる視界の中光は笑った。
「やった」



立ち上がり、お互いに攻撃を繰り広げる光景を頭上から見下ろす形の千歳はナイフを握りしめたまま観戦していた。
鉛も透もダメージを蓄積しあって戦っている。スピードもパワーも目に見えて、手に取るようにわかる。
「前より強くなってる……」
ここ最近、透は喧嘩は全くと言っていいほどしていない。噂にも時折攻撃を仕掛けるときに見るときも、煉瓦と一緒にいるかふらふらと歩いているか、普通の生徒のように過ごしていた。
何度攻撃を仕掛けても殺気一つ返してこない透に、自分以外の誰かに負けてしまいそうな危うさを感じた。
身体が鈍っているはずだと危惧してついてきたのだが、
「喧嘩もしていなかったのに、何故、こんなにも……!」


「脱糞して何かが変わったとでもいうの!?」
たった20分で筋肉への耐性が付いた透に、菫が叫ぶ。
二人の攻撃は雷撃のようだった。拳と拳がぶつかるたび、骨が軋むような音が響く。
鉛の連打と光の連打は同じ数、同じスピードで打ち込まれていた。
――コイツ、まさか俺と力比べをしているのか!?
殴り続けながら、拳の隙間から帽子の影になって見えにくい光の顔を見ながら唇を噛みしめた。
――俺の肉体は裏切らん! こんな薄い男に負けるはずがない!
ほんのわずかに見えた敗北という言葉に、鉛が踏ん張ろうと身体全体に緊張を込めたその瞬間光の姿がブレた。
山のように不動のまま連続で殴り合っていた光は、長くて太い鉛の腕の間を縫って、また懐に入り込んだ。
身を屈めて鉛を下から見上げながら呟いた。
「もう飽きた」
鉛の鋼鉄の腹に光の拳がめり込んだ。衝撃を吸収し撓る筋肉は衝撃を受け流すことなく、そのまま一直線に頭上に飛んだ。
「ぐはッ!」
息を詰まらせ宙を飛ぶ鉛を、菫も透も不良たちも驚きながら視線で追った。
丁度千歳の視線の高さまで飛んだ鉛は、その重たい筋肉を体育館の固い地面に落下させた。
その筋肉によって重力が加算され、そのダメージを最小限にとどめることができた。
不良たちは口を開けてその光景を見ていた。男の夢が殴り飛ばされ、宙に浮かび、瓦礫のように落下した。
「……な、鉛さん!」
慌てて一人の不良が鉛に駆け寄る。それを皮切りに見守っていた不良たちは動きだし、鉛の元へ近づいた。その道中、数人が光に殴りかかったがカウンターを食らって鉛のようにのびてしまった。
それを見ていた大勢の不良が光に向かって殴りかかる。
「テメェ! ふざけんじゃねぇぞ!」
「ぶっ殺してやる!」
正々堂々の勝負と銘打った側の言葉とは思えぬほど殺気に満ち、光一人に一気に飛びかかった。
光は小蠅を叩き落とすように不良と戦い始めた。
「おいおい……」
透がもはや無礼講と言っていい状況に表情を引き攣らせ、この騒ぎの中逃げ出そうと一歩下がった。
ぼふ、と、何か柔らかいものにぶつかった。透がそれが何か判断する前に首に腕が巻き付いた。
「新橋透! 今すぐ降伏しなさい!」
ぎち、と喉を締めあげられる。菫が透を人質に光に叫んだ。
「アンタたちも止まりなさい! ふふ、妹が病気になったら意気消沈して喧嘩しない程のシスコンだって事はすでに知っているのよ!」
だが、菫の声に従う不良はいなかった。
「この野郎! よくも鉛さんを!」
「この人からプライドを取ったらゴミ屑なんだぞ! 分かってんのかコルァ!」
「菫さん! 鉛さんが目が覚めた時、コイツがのびてたら色々言い訳できるじゃないッスか!」
「筋肉しかない人間の打たれ弱さ分かってんのかゴルァ!」
全員、鉛が目覚めた時の最悪の状況を考えて躍起になっていた。菫も不良たちも、無計画に動いていた。
――鉛君にここで折れてもらったら困る! 何年越しだと思ってるのこの男!
「新橋透! 妹がどうなってもいいっていうの!?」
菫が吠える。その声に反応してやっと光がちらりと視線を寄越す。不良の頬を殴り飛ばし、襟首を掴み投げ飛ばしながら、透が拘束されている姿を確認する。
そしてその背後にある、これでもかと押しつぶされできた谷間がとてつもない存在感を放っていた。押し上げられた二つの双丘は、苦しげに服の中に詰め込まれている。
光の燃え上がる殺気めいた瞳が、氷点下に落ちたように冷たいものになった。
「好きにしろよ雑草」
喉の奥は北極に繋がっているのかと思えるほどに冷たく、鋭い声音で菫に吐き捨てた。
まるでゴミを見るように見下され、欠片も菫の言葉に動揺すら見せない透に呼吸が止まった。
――……何? 今、なんて言った……?
ぐるぐると、プライドを打ち砕かれた鉛のように目の前がぐらぐらと揺れる。
――好きに……雑草……? 私を、雑草……?
四季菫は自分のすべてに自信を持っていた。鉛の筋肉と同じようにその計画性、そして女の魅力を武器として生きてきた。
針入高校の不良たちがいう事を聞くようになっているのは、鉛の右腕だからではなく、四季菫の力もあるからだと自負している。
――……あんな目を向けられるなんて……雑草……この、私が……?
菫の拘束が緩んだ。透が慌ててしゃがみこみ脱出する。
「……?」
透が追撃を予想していたにも関わらず、菫はマネキンのように固まっている。
菫は呆然と、あと残り少しの不良を倒していく光を見つめていた。











20140219



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