第十一話





燐灰高校もゴールデンウィークを目前にして、生徒達が休みに浮き足立ってくるころに新橋光が復活を遂げた。学校に来る前に整えた髪の毛はさらさらといい香りを放ち、歩くたびに柔らかそうに揺れている。お風呂にも入り、身体はぴかぴかだ。
堂々とスカートを履き、エッグスタンドのような足もフラミンゴのように細く可憐に引き締まり、堂々と学校の廊下を歩いていた。
まるでモデルのように、ここが自分が輝ける場所だと言わんばかりの光に皆が気軽に声をかける。
「あ、新橋さん! よかった、病気治ったんだね!」
「うん、心配かけてごめんねー」
「光ちゃん! 元気になったんだ!」
「お陰様でー」
「インフルエンザ大変だったんだってなー」
「そうなの、本当に辛くて苦しくて」
「そういえば盲腸の手術乗り切ったのかお前! すげー!」
「え、えぇ」
「新橋、若いのにいぼ痔になるなんて災難だな。尻には気を付けろよ」
「………」
「おう! 水虫の調子はどうだ? 女だからって気にすんなよ! がっはっはっは!」
「…………」
歩けば歩くたび生徒や先生からいたわりの言葉が貰える。だが、会えば会うたびに光の歩みは淀み、最後は立ち止ってしまった。笑顔も引き攣り、振っていた手も指先が痙攣していた。
豚以上に肉をつけた事実は漏洩していないようだ。光が絶対に誰にも口外するなと関係者に口を酸っぱくつねりあげた結果だ。太っているなんて知られたくない。それよりも仮病を使った方がましだと思った。満足のいく状況なのに、何故か光の感情は台風を孕んだ海のように荒れ狂っているのか、彼女も分からない。
休んだのは二週間、とても長く感じられた。前半一週間は動けないため、家の中でダンベルなどを持ち上げて最低限の肉を削る作業に励み、残りの一週間は見舞いに訪れた小雪と忍によって変わることになった。



「えっ、二人知り合いだったの!?」
光がダンベルを置いてゆっくりと立ち上がり、足を上下に持ち上げおろしを繰り返している光の部屋の椅子に座った透が驚いたようにそう言った。片づけられた部屋に入るのは初めてらしい小雪が、小奇麗な光の部屋を見回していた小雪がのほほんと頷いた。
「そうそう。忍さんも霊感あるみたいで、よく清めのお塩をあげるんだよー」
「いやあ、彼女のお姉さんの塩は本当によく効いてね。切り落とされた髪もまるで生きているみたいに輝くんだよ。暗雲を焼き払うようにね」
「ちなみにこの髪も忍さんに切ってもらってるんだよー」
自分の髪を指差して果物とエクササイズのDVDを持ってきた小雪はと忍は顔を見合わせ笑いあった。
「まさかそんな関係だったとは……」
なんかこの二人危ないなと、透が忍の狂気が霊を伴って更に強く感じ、若干引きつつも、地面を揺らす光の存在に目を向けた。
少しは痩せたとはいえ元の姿と比べると雲泥の差だ。誰もこれが光だとは気が付かないだろうという程に別人だった。
ダンベルを持ち上げ、汗をだらだらと流す光は、単なる巨漢だ。
わが妹ながら見るに堪えないと透が目を伏せた瞬間、
「くっ……もう、もうダメだ……!」
ふらりと忍が立ち上がり、頭痛を訴えるような表情で光を見た。
「今日は我慢して早く帰ろうと思っていたけど……あぁっ! 叫んでる! 彼女が叫んでいるっ!」
「はぁ……はぁ……」
息切れを起こしている光は何も答えず忍の奇行をただ黙って見守っている。
頭を押さえてロックシンガーのように頭を降りだす忍は、上下に頭を揺さぶりながら叫ぶ。
「頭皮の血流が悪い! べたついて炎症を起こしている! 皮脂が! 皮脂がと叫んでいる! 僕に訴えかけている……! 駄目だ、こんな所では! そんな事では許されないっ! 透、暫く光を僕に預けてくれないか。山にこもるぞ!」
びしっ、とポーズを決めて光を指差す忍に、ガタッと透と光が声を荒げる。
「はあ!? 何言ってんだよ忍!」
「や、山ですって……そんなの、絶対に嫌に決まってるでしょ……!」
体中の肉を揺らしながら光が怯えたように言った。過去、忍とその師匠と共に修行と称して夏休みに一か月程籠った事があり、戻ってきたときの光は痩せ、更に鋭さを増していた。透が目の前を通るだけで罵詈雑言とビンタ一発くらわされる、歩く地雷と化した時期があった。
――冗談じゃない! これ以上我儘になられてたまるか!
兄の悲痛な思いとは裏腹に、過去の出来事を苦々しく反芻しながらも、光はキッと眼光鋭く忍を見た。
「……でも、確かにアレなら痩せられるかもしれない……!」
ぐっ、と奥歯を噛みしめ、俯き、己の腹を見下ろした。自分の足元すらも見えない状況にそれを甘受するしかないと、たい焼きのような手をぎゅっと握りしめた。
「今回、師匠はいないが手加減はしないぞ。毛根の為に鬼になろう」
「……くっ! 背に腹は代えられない……!」
「光ちゃん、背中もお腹もお肉たくさんだねー! あははー」
小雪が喧嘩を売るように、むっちりと膨らんだ胸部を醜く出た腹に押し付けながら、抱き付き背中の肉を撮む。
光はそんな小雪を見下ろし、その決意を更に固くした。
――この柔らかい贅肉を全てそぎ落とし、この女の胸に押しくらまんじゅうで勝ってやる!
目標も持った光は忍と共に山にこもった。その間、更にひどくなった千歳の襲撃に耐えながら光が戻る一週間を妙の凌いだ透に、光はメラメラと脂肪を燃やすように闘志を燃やした。
――あのクソ兄貴……! 嘘が過ぎるわ……!!
悪魔のような忍の毛根への執着のおかげで、見事に肉をそぎ落としたが、その荒療治は乳の脂肪にまで優しさを見せてくれることはなかった。無残にも元の絶壁に戻った光はその怒りも燻っていた。そこにガソリンをぶちまけられ、一気に炎上した。
「っ!」
静かな怒りの炎に満ちた光の背後から、何かが通り過ぎた。耳元をかすめ、髪の毛数本が廊下にぱらりと落ちた。光の背後に気配が生まれた。光が振り返ると、そこには櫃本千歳がサバイバルナイフを片手に暇そうに立っていた。
「いや、悪いわね。あまりにもそっくりすぎて。髪の毛見たらわかるのに」
まったく申し訳なさそうにしていなかった千歳は、そのまま背を見せて歩き出した。
透に見間違えられたのだろうとは分かっていたが、
――……あの子、また透にちょっかい出し始めたのかしら……
まったく迷惑な話だと、光は肩を竦める。双子の兄に小蠅がたかっているのを見るように、うっとおしいだろうが別に放置していてもまったく問題はないとそのまま千歳とは反対方向へ歩き出す。



透が自分を暗殺し返そうとしていると分かってから二週間程経ったが、透からのモーションは全くない。こちらから攻撃を仕掛けているとはいえここまで何もないなんてと、千歳は拍子抜けだった。
一方的に殺そうとするのも別に悪い気はしないが、心の中で父の存在がちらつく。
――私は暗殺が大嫌いなんだ。特にする人間がな
千歳の中の公式で暗殺と暗殺をかけ合わせたら殺し合いになるとあるのだが、透から暗殺らしい暗殺は何もない。ただなされるがまま、攻撃を受けている。
――これじゃあ私が暗殺してるみたいじゃないの。
殴って殴り返されるのが喧嘩なら、今の千歳の状況は単なるいじめっ子だ。こちらが殺しに行っているのだから殺し返せばいい。
そして何より、透がまったく力を見せてこない所にも歯がゆさを感じていた。
千歳の実力が喧嘩するに値しないとでも思っているのだろうか。ぎりぎりと思い通りにならない事に歯ぎしりをしていると、チャイムが響き渡った。
「ああ、もう帰らなくちゃ」
時刻はすでに昼を過ぎ、授業は全て終わっていた。ゆっくりしていると夕暮れが近づく時間帯だった。



同日、朝。

透は一人で学校に向かって歩いていた。
光が忍と共に山にこもって一週間。先日、連絡をつけようにも圏外の為音信不通になっていた妹からやっと連絡が入った。
『ふははは! 終わったわ! あの変態ともこれでおさらば! 明日戻るわ絶対にね!』
一方的に狂ったようにそう言って切られた。だがその次の日になっても妹は戻ってくること無く、透はまた一人で家を出た。
「アイツ迷ってるのかな」
遠くの山に入ると言っていたが、それがどこなのかは聞いていない。聞いても面倒くさがられて一蹴されるのがオチだろう。
戻るなら戻るで早い方がいい。毎度毎度仮病の言い訳も底をついてきた。
「……でも帰ってくるのか……」
はあ、と、光の喧嘩三昧の日々を思うと憂鬱な溜息を吐くしかない。
光がいない今、危険と言えば千歳だけだがそれも何とかかわせている。
それよりも新たな恨みを作るような喧嘩を、そこかしこで大盤振る舞いで売る方が問題だ。
その売り子が今山にこもっている。その間に新しい恨みは生まれることはなく、すこぶる、千歳をカウントしなければ平和な日々が続いていた。
妹のいない家も快適だし、悪い事ばかりではない。
「でも、喧嘩した奴に絡まれたら一発で終わりなんだけどなー」
あはは、と、あと一日の辛抱だと祈りながら歩いていると、背後に人の気配がした。まさか、自分に用があるんじゃないだろうなと半ば気づきつつも、気づかないふりをして歩き続けた。
ここはボロアパートや駐車場などがあり、あまり人気のない場所だ。喧嘩を売られたりしたらどうしようと不安に思いながらも必死に歩く。
「あ、あのー」
だが、予想していたようなドスの利いた声音ではなく、か細い、透と似たような波長を感じさせる弱々しさがあった。
「はい?」
振り返るとそこには分厚い度の入った丸眼鏡をかけた、三つ編みのおとなしそうな女子生徒が、困った様に立っていた。
「えっと、針入町はどっちにいけばいいんでしょうか……?」
「針入って、隣町の?」
「はい。今朝早く起きたので、ちょっと寄り道していこうと思ったら迷っちゃって……遅刻しちゃうかもしれないんです」
おどおどと内股になって透を見上げる女子生徒は、針入高校の制服を着ていた。
「高校の方へ行きたいなら、ここを右に曲がってまっすぐ行ったところを左に曲がれば……針入町に入るので、後は大丈夫だと思いますよ」
「ご親切にどうもありがとうございます! このあたりの人ですか? いつもここを通られてるんですか?」
「はい。通学路に行きも帰りも」
「そうなんですか。……あの、お名前は?」
「え?」
どうせ悪名が轟いているのだから知っているのだろうなと思ったが、どうやら全く知らないらしい。
透の名前と顔は針入高校の不良には有名でも、こうした大人しい一般生徒には誰だか分からないのだろう。透は僥倖だと言わんばかりに微笑んで堂々と名乗った。
「新橋透です」
「ありがとうございます新橋さん。またいつかこのご恩はお返しいたしますので!」
ぺこり、と、律儀に頭を下げた三つ編み生徒は、そのまま慌てたように透の言った方角へ走り出して行った。
朝からいい事したなと清々しい気分で透はまた歩き出す。ここ最近知り合う女の子は中々普通じゃないのが多すぎた為、身構えていたが、こうして道を聞かれただけの相手は本当に普通の人で、とても丁寧な人だった。
「光のせいで女という生き物を勘違いしそうになってたなー」
不良を簡単に倒してしまうような女なんて女じゃないかと頷き、透は朝礼に間に合うように学校へ向かった。
曲がり角を曲がったはずの女子生徒が、じっと眼鏡越しに透を最後まで見届けていたが、透は気づかずにその無防備な背を披露し続けた。
案の定教室には光はおらず、今日も光は帰ってこないのかと頬杖をついて一日を過ごした。
煉瓦にも光の事を心配そうに何度も尋ねられるが、その度に嘘を塗り重ねていく。
喧嘩をしないというメリットもあるが、さすがにこれ以上はキツイ。
透は家に戻って連絡してみようと、授業が終わってすぐに学校を出て行った。
商店街を通って住宅地へ入り込み、今朝三つ編みの針入高校の女子生徒と会った場所へたどり着くと、今度は人数が増え、三人になっていた。
しかも女子ではなく男子で、一般生徒ではなく不良生徒に見事にメタモルフォーゼを遂げており、透はすぐに方向を変えたのだが、彼らに呆気なく発見されてしまった。
「おい! 新橋透!」
「無視かコルァ!」
唾を飛ばしながら透の足を怒号で止める。たらたらと冷や汗が顔じゅうからあふれ出す。とても嫌な予感がする。
透は振り返り、改めてその三人を見た。
――針入高校の制服だ……
改造されて、好き放題に敗れ、規則も起立も彼ら三人には糠に釘のようで守られている気配はない。
スキンヘッドにモヒカンにと、どこの世界の人間だと言いたくなるようないでたちで三人は透に近づいてきた。
「テメー喧嘩売ってんのかコルァ!」
「い、いえ、売ってないです……」
「そうか! なら来いやコルァ!」
「どこに?」
「番長がお呼びだコルァ!」
「アン? それともテメー鉛番長なんか眼中にねぇっつーんじゃねーだろうな? アァ!?」
「えー……」
ポケットに手を突っ込み、顎をしゃくり透にこれでもかと絡んでくる三人から視線を下に逸らす。そこでようやく気が付いたのだが、膝ががたがたともれなく全員フルマラソンを走り終えたかのように震えていた。
――……もしかして……
「……も、もしかして、その、俺と喧嘩したこと、ある?」
「!? ハッ、はぁ!? テメーなんて初対面だし! 勝っても負けてもいねーし!」
「不戦勝も不戦敗もしてねーし! ハジメマシテだし!」
「何ふざけた事抜かしてんだコルァ! テメーなんざ怖くもなんともねーぞ! おぉ!? マジワッチャーネー!?」
だらだらとトラウマをつつかれたような反応を見せる三人に、とりあえず向こうから攻撃を仕掛けて来る可能性は減ったなとほっとしていると、視界ががくがくと揺れている事に気が付いた。
そっとまた下を向くと、三人の膝は相変わらず震えていた。その真向いにある自分の膝がマナーモードにしているようにがくがくと震えていた。
「おい! とりあえず番長の所へ来いやコルァ! 暴力なしで穏便な方がお互いにいいぞコルァ!」
「膝蹴りしたくてうずうずして痙攣起こしてるぞコルァ! 悪い事は言わねーからおとなしくついてこいやウルァ!」
「どうしてもっていうなら千円やるぞコルァ!」
「……い、いきなりすぎる。急ぎの用事があるから、できればまた後日お互いにいい日にちを選びたいんだけど……」
まくしたてる不良三人に、光が帰って来るまで時間を伸ばせないかと切り出すが、更に唾と強面が近づき噴射された。
「ハァ!? この状況で何言ってんだテメェ! このまま帰ったら番長に怒られるだろうがコルァ!」
「人の事情も汲み取れやコルァ! 諸事情があんだよコルァ!」
「どうしてもっていうなら千五百円やるぞクソが!」
バイクのエンジン音のように爆音を放つ不良三人に、透は一歩後ずさった。
びくりと震える三人だが、お互いに目くばせをして頷いた。
何かやるつもりだと、透が更に一歩身を引いた瞬間、全員が透に飛びかかって来た。
「うわ!」
思わず腕を交差させて頭の上に置いたが、拳も足も武器も何も飛んでこなかった。
そのかわり変な浮遊感を感じ、慌てて目をあけると青空が視界に広がっていた。
「よし! このまま戻るぞコルァ!」
「大人しくしとけよコルァ!」
「菫姉さんも褒めてくれるぞコルァ!」
「えっ、ちょぉお!?」
神輿のように担ぎ上げられた透は、ムカデのように三人の足で針入町まで運ばれた。その間にたくさんの人に好奇の目で見られながら、透は敵地へ運び込まれる事にゾッと青ざめていた。


透と不良三人が立ち去った場所は静寂が包まれた。先ほどまでの煩さは息を合わせて針入高校の方角へ走り去り、そこには誰もいなかった。
だが、駐車場近くの自販機の影からスッと人が出てきた。
もう先に帰ったと知って透を追いかけてきたのだが、何やら面白そうだが間抜けな現場を目撃してしまったようだ。
「……なんなの今の……」
櫃本千歳が怪訝そうに眉をよせ首を傾げて呟いた。











20140214



Back/Top/Next