第九話





目覚めた場所は白い天上があった。透は何度か瞬きをして固まっていたが、保健室のカーテンがゆっくりとオーロラのように揺れるのを視界の端でとらえ、そちらを見た。
カーテンを揺らしていたのは今しがたこっそりと覗き込んでいる人物によって生まれた波紋のようで、透の胸中にも同じように波紋が広がった。
「あっ、よかったー。目が覚めたんだね」
のほほんと肩を揺らして笑う女子生徒、ショートカットで小柄でかわいらしい声をしているその女子生徒、透が探していた女子生徒そのものだった。
もしかして夢か幻かと寝起きの頭で透は困ったように言葉を懸命に探した。
「あ、あの。どうも」
「こんにちはー」
 のほほんと微笑み、頭を下げて来る女子生徒に、これは現実なのかとぼんやりする頭を叩き起こすように頭を掻きながら尋ねた。
「えっと、その……あの、名前……」
「私? 私は石竹小雪。2年生だよー」
「2年……あ、先輩だったんですか……」
「あれ? もしかして同級生だって思ってた? あはは」
「すみません」
「いいよそんなの。それよりどうしたの? あんな所で寝ちゃってて」
「寝てたわけじゃないんですけど……あの、石竹先輩は光の友達なんですか?」
「光ちゃん? いや、知らないよ? 会ったこともないし」
「え?」
首を傾げる小雪に、透は呆気にとられた。今まで小雪を探してきたのは光の友人だろうと思っていたからで、何か悩みを抱えているのなら、その一片でも知ることが出来たらと思っていた。
「でも、石竹先輩、光を気にしてあげろって……」
「うん。言ったよ?」
「友達じゃなかったらなんなんですか?」
もっともな疑問をぶつける透に、小雪は顎に指を立てて「んー」と、大して考えてなさそうに唸った。
「会ったことはないわけじゃなくて、すれ違ったことがあるの。その時に、あ、光ちゃん大丈夫かなって思っただけだから……」
「それはどうして?」
「それはシックスセンスとしか言いようがないよー」
証拠無き断定に透は困惑するしかない。だが、兄弟よりも他人、男よりも女の方が気づけるものがあるのかもしれない。
友人に悩みを打ち明けられないというのなら、見ず知らずの人の方がいい時もあるかもしれない。とりあえず、せっかく探したのだからちょっと協力してもらおうとベッドの上で座り直し透は悩みを打ち明けるように話し出した。
「今日、光体調を崩して休んだんです」
「えっ」
「もしかしたら何か悩みがあるんじゃないかって思って……石竹先輩は何か知っているんじゃないかって思って、さがしてました」
知っているなら知っていたで嬉しいが、期待は薄い。短い会話でこの人は少し抜けている所があると感じた透は素直に全てを話してみた。
探していた事を不審がられる事はないだろうと思っていると、頭上から重みを増した声が降り落ちた。
「……新橋君……ごめんなさい」
「え?」
顔を上げるとのほほんとした表情を消し、少し青くなった顔をして透を見下ろしていた。
「それ、私のせい……かもしれない……」




「つまりね、万引きしている子を知っているのに、見て見ぬふりをしてしまったって感じなの。それって共犯というか、それもいけない事だよねって事」
家に友人を招き入れるなんていつ振りだろうと透は過去を振り返る。透の背後には鞄を持った、今日名前を知った石竹小雪を引き連れて帰宅していた。
「えっ、まさかアイツ万引きを!?」
「違うよー、物の例えの話。光ちゃんによくない事が起きているのを知っていながら、黙っていたの。お姉ちゃんが、そういう事は言わぬが花って言ってたから……触らぬ神に祟りなしだったかな? まあ、どっちでもいいや。とりあえず光ちゃんの様子を見たらどうなのか分かるから」
「はあ」
はっきりと何がどうなっているのか言わない小雪に歯がゆく思いながらも、深く踏み込んだら光の逆鱗にでも触れやしないかと杞憂している透は、なあなあのまま小雪を家まで連れてきた。
家の前では慌てて出てきたばかりの母の姿があり、透は光に何かあったのではないかと慌てて駆け寄った。
「どうしたの? 何かあった?」
「あっ、透! 光が……光が……!」
「光に何が?」
縋り付く母に透は狼狽する。こんな事初めてである。
だが動揺する透よりも早く腹を決めたらしい母は、キッと目つきを変えて透を見据えた。
「透、光を頼んだわよ……!」
「え、ちょ……! 母さーん!!」
まるで今際の別れのように、母は財布を片手に走り去ってしまった。
親子の臨場感あふれる軽い離別を目の当たりにした小雪は、慌てて透よりも先に新橋家の敷居を跨いだ。
「大変! 光ちゃんは何処に!?」
「多分部屋に、二階です!」
「新橋透君、これから何を見ても驚かないであげて……」
靴を慌てて脱ぎながら小雪は釘を刺すように真剣に言った。その真剣さに透も真剣に頷いた。
「分かりました!」
妹の身に何が起きても、兄は動じず受け入れよう。どんな悩みだろうと、どれだけ部屋を荒らしていようと、壁に穴が開いても透は妹を受け入れてやろうと決めた。
――そこまで悩むくらいなら、俺に言ってくれればいいのに!
あんな風に母を追い出すような妹に怒りを覚え、二人は階段を駆け上がった。
光の部屋を透がノックしてすぐに扉を開けると、そこには悲惨な光景が広がっていた。
「!?」
「やっぱり……」
透が思わず口に手をあて、驚きを押し殺した。その横で想定通りだったらしい小雪が鞄から何かを漁りながらその光景を凝視していた。
カーテンを閉め切り、日差しがまったく入らない部屋の中は散らかっていた。
本棚には綺麗に本が並べられ、机の上の小物も雑誌もいつも通りの場所に置かれていた。元の部屋が崩された形跡はない。
そう、その綺麗な部屋に上塗りするように、綺麗な絵画の上にべったりと、子供のいたずらな手形を押し付けるように散乱していたのは、スナック菓子の袋である。ビニール袋、お菓子の食べかす、爪楊枝、フォーク、空のジュースのペットボトル。
充満する甘い香り。ベッドの上に蠢く丸い影は何なのか、透は目を凝らしてじっくりと、間違えないように食い入るように見た。
「ひ、光……なのか……!?」
今朝姿を見ていないとはいえ、まさかここまでの変貌を遂げるとは思っていない。先日のスレンダーな姿はどこへやら。身体にはこれでもかと塗りたくられた贅肉が垂れ下がり、それでも飽き足らないのか光はずっとポテトチップスを食べ続けている。
ベッドはギシギシと食べる動作だけで軋み、手のひらは蜂に刺されたかのように全体的に膨れ上がっていた。まるでもみじまんじゅうのようで、そのまま一緒に食べてしまうんじゃないかと透は不安に思った。
顔はおたふくかぜのように膨れ上がり、肉が垂れ下がり殆ど別人のようになっている。
ポテチを全て食べ終わり、袋を逆さまにして残りカスも全て口の中に入れてそのまま袋を投げ捨てた。
「なぁい」
喉まで脂肪で圧迫されているのか、声まで別人に感じられた。
「お菓子なぁい」
「お前、鏡見てみろ! とんでもないデブだぞ! そのままじゃ死ぬぞ!」
「駄目よ新橋君! 刺激しないでっ」
思わずダイエットだスレンダーだ脂肪だと言っている光に対してこれでもかと事実を述べられる事態に思わず興奮してしまった。
――今なら何を言っても許されそうな気がする!
だが、光は聞く耳を持っていないようで、肉厚な手をベッドの上に這わせ、重たい身体を揺さぶって泣き始めた。
「お願い、お願いだからもっとぉお」
「へ……」
『お願いだから、もっと……』
瞬時に思い出されたのは光の日差しの入らない部屋のように真っ暗な場所で聞いた声だった。
光の声が潰れたような、光が太った時のような、そのままの声のように思えたが実際に声帯を震わせているのはもっと違うものではないのか。
小雪がバッと取り出したものは瓶に入った白い粉だった。
「今すぐ成仏しなさい! さもないと、この塩かけちゃうよ!」
「砂糖ぉお」
「君、この間私に話しかけてきた子ね! 駄目だよこんな事! 早くしないとエクソシストに手酷く成仏させられちゃうよ!」
小雪は2年の教室で居眠りしていた時、夢に現れた幽霊を思い出し叫んだ。
涎を垂らし、授業中こっくりこっくりと舟をこいでいると、真っ黒な空間が広がる夢を見た。
ぼんやりと闇の中から白い手が伸びて来る、透と全く同じ夢を見ていたのだ。
「お菓子ぃいい」
「成仏って何ですか!?」
「この子、光ちゃんに取りついてるの。これは光ちゃんの意思じゃないよ! 夢でも言ってたね、お菓子をもっと食べたいって。でもそれを他の人に押し付けちゃだめだよ」
「うぎゃあああああ!」
小雪の言葉に頭を押さえ暴れはじめる光は、もはや光ではなかった。
透が見た夢はこの光に取りついた幽霊のものだったのだ。おそらく双子の透を光と間違えて枕元に立ったが、男だと気が付き光の元へ向かったのだろう。
目は白目を剥き、お菓子を求めてさまよう腕は小雪と透を薙ぎ払うように振り払われた。
「うわっ!」
がちゃんっ! と、窓ガラスが割れた。カーテン越しだったため光の腕に深い傷は負わなかったが血がしたたり落ちている。
「あれも光じゃなくて幽霊が?」
「うん」
「よかったな光! ボンレスハムみたいな腕だから致命傷にならなかったぞ!」
「うがああああ!!」
「ぶへっ」
意識があるのかわからない光に、安心するように声をかけるとボンレスハムのような腕が見事に透の頬にあたり、部屋の外へ吹き飛ばされた。
壁にめり込まれた透は、ぷるぷると震えながら小雪に言った。
「あ、あれ幽霊なんじゃ……」
「幽霊と光ちゃんだね!」
「それ、早く言ってくださ……ぐふっ」
 意識があるのならあると最初に言ってくれれば、家の中で交通事故にあったようなダメージを受けずに済んだというのにと、透がぷるぷると震えていると、説得モードに入ったのか静かになった小雪が神妙な顔で犯人に語り掛ける警察官のように話しかけた。










20140212



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