第七話
是非椅子があるのならそこに腰掛けさせてくれないかと懇願するほどには透は着席したかった。だがその真っ暗闇の中には椅子どころか腰掛ける場所、透以外に突起したものは何もない平坦な場所だった。
暗闇なのか、ただ周りが黒いだけなのか。透は自分の手を見下ろす。そこには自分の手がくっきりと浮かび上がっていた。
つまりこれは暗闇ではなく、周りがただ黒いだけなのだ。
だからと言って暗闇じゃないわけではない。
透は膝が疲弊しているのを感じた。立っているのもやっとな状況だ。まるで何キロか走った後のように足には力が入りにくい。
どれくらいその場所にいるのか分からないが、透はぞわっと肌寒さを感じた。
まだ燐灰高校に入学して一か月もたっていない、ぽかぽかようきの春の季節にこれほど寒さを感じるのは珍しい。
つい最近、本物の殺気を向けられた時以来の悪寒に腕をさする。
『ねぇ……』
蜘蛛の糸のように細い声が暗闇から聞こえた。透は振り返り、寒さに身体を震わせながらそちらを見る。
『お願い……』
女の声だった。冬の冷気に痛めたような声に透は一歩後ずさる。
『お願いだから、もっと……』
ぞわぞわと、暗闇から突如白い手が浮かび上がってきた。こちらに手のひらを見せつけるように伸びて来る手はやはり女の物のようだ。だが、それ以上に透の鳥肌がぶわぶわと浮かび上がる原因は、その人間とは思えない肌の白さのせいだった。
まるでマネキンのような手が、ぴくぴくと痙攣しながら透に伸びてくる。
透は逃げようと思った。この暗闇も何なのか分からず、目の前には不気味な白い手がすがるように伸びている。
だが、足に釘を打ち付けられたかのように足は動かなくなった。そして首を絞められているかのように呼吸もしづらくなり、声も出ない。
「ハッ、ハッ」
一歩も動けないのに呼吸が乱れる音が響く。女の白い手が透に伸びる。そっと、氷のような手が頬に触れた。悲鳴も上げられない透は凍らされたように呼吸も押さえて固まるしかなかった。
暫く女の手が頬に触れたまま、死んだように動かなかった。
『……なんで……』
少し怒りも感じさせる失望した声が聞こえた。勝手に透に縋り付き、頬に触れて勝手に失望された。透はこの理不尽さをよく知っていた。妹だ。だが妹はこんな冷たい手でも死人のような手もしていない。
何なんだとおしおきされるように冷たい氷の手で頬をつねられた透は、ハッと意識を身体に取り戻す。
頭上ではけたたましく目覚まし時計が震えながら鳴っている。それを腕を出して止めた瞬間、部屋の扉がノックもなしに開かれた。
「……あと一秒止めるの遅かったら殴り起こすところだった」
すでに制服に着替え、髪の毛のセットも終えた光が春の陽気が差し込む透の部屋の中で、冬のつららのような言葉と視線を落として立ち去った。
もそもそといつも通りの朝を迎えた透は今起きたばかりだというのに、バクバクと鳴りやまない心臓をパジャマ越しに抑え、バッと枕元を見た。
「……まさかな……はは」
先日の忍の話を思い出し、首をさすりながら笑った。いい夢ではなかったし、いい目覚めでもなかったが、まさか櫃本の怨霊が夢に出て来るなんて事、ありえない。
だが昨日の今日でこんな事が起こりうるのかとも思う。出来過ぎたタイミングだ。
「まさかな……」
空元気も弱々しくなり、透はゆっくりと立ち上がり制服に着替え始めた。
とは言っても、髪の毛を切った切られたという間柄は中々確執が生まれるものだ。もしかしたら枕元に立ってその恨みを晴らそうとしているのかもしれない。
透は1−Aの教室に行く前に、隣のB組の教室をこっそりと覗いておこうとドアの影からこっそりと中の様子を伺った。
がやがやと隣のクラスも変わらない教室の喧騒の中に、後ろの席に座っている櫃本が鞄から教科書を取り出し、机の中に閉まっている姿を発見した。
別段おかしいところはなく、昨日整えてもらった髪の毛はとても似合っていてかわいらしい。
――まあ、それがフォローになるとは思わないけど。
とりあえず昨日の後遺症が無いようで透はほっと胸を撫で下ろしてA組の教室に行こうとした。
「うわ?」
B組の中から一際大きな男の声が聞こえ、慌てて足を止めて覗き込んだ。
そこには大人しく座っていた櫃本が、いつの間にかサバイバルナイフを握りしめ背後で談笑していた男子生徒の喉元に切っ先を突きつけている姿があった。
「ひ、櫃本……」
「私の背後に立たないでくれる」
目を眇め殺気を滲ませる櫃本に、ただ笑いあっていただけの男子生徒は両手をあげ、涙を滲ませ首を縦に振った。
櫃本はナイフを素早くしまい込み、自分の席へ何事もなかったかのように座った。
唖然とする透の傍でこそこそと話し声が聞こえた。
「櫃本さん、一番後ろの席がいいって言ってたけど、あれ背後に人に立たれたくないんだって」
「何それー、って思っちゃったけど、本当なんだね」
――いやいやいや、何その認識!
のほほんと受け入れている女子生徒に声を出して突っ込みたかったが、口を押えてそれを止めた。
それにしてもこんなにもあからさまにしているとは、光とは大違いだ。櫃本の背後からは生徒は消え失せ、その一帯だけ虫よけをしているように人がいない。
――……確かに、光もこれが嫌だったのかもしれないな……。
俺も大変なんだけどさ。と、思いながらも、女子が一人ぽつんと休み時間を過ごしている姿というのは痛々しいものだ。
友達が出来にくくなる辛さは、透が一番知っている。
――櫃本……
真顔で本を読み始めた櫃本の姿に同情を誘われる透は、ぐず、と鼻を啜った。そんな風にしていたら、これから辛くなるんだぞと助言してやりたい。長年培ってきた光の弊害に対処してきた先輩として、何か一言と思っていると、櫃本に近づく女子生徒が慇懃無礼に櫃本の机を叩き身を乗り出した。
「昨日の朝の! 見たよ櫃本さん!」
「あれマジヤベーんですけどー!」
「あの不良の新橋君とあそこまで戦えるなんて! すっごい! あ、今日から姉御って呼んでもいい?」
「マジヤベー!」
「姉御! 今日ご飯一緒に食べましょう!」
「は、え……」
鼻息荒く話しかける二人に、櫃本は目に見えて狼狽している。
――近づくの早っ!
友達が出来ないだろうと心配した次の瞬間、喧嘩っ早そうな少女と、マジヤベーな舎弟が出来ていた。
透はまたこみ上げる物が増えるのを感じた。
――アイツ……本当に俺とそっくりじゃん……?
目元を押さえ、友達としてではなく舎弟として向き合っている煉瓦を思い出した。友達と舎弟は全く違う。上下関係が出来上がり、対等な関係は結べないのだ。
だがそれでも一人よりはマシだ。しかも二人いるし、あとは櫃本がどう頑張るかだなと専門家気取りで腕を組んで頷いている透の後ろでは、教室に入ろうとしている生徒が透を見てこそこそと話しながら通り過ぎていく。それに気が付き、顔を赤らめすごすごと自分の教室へ入っていった。
「何それマジやばー」
ものすごいデジャブを感じながら透は思わずそちらへ耳を向けた。その会話の中には光も混ざっており談笑していた。
「嘘じゃないって! 昨日音楽室に行ったら聞こえたの! なんていうか……こう……言葉では言い表せない音がして……」
目を閉じて指をタコのように動かす女子生徒は表現できないもどかしさに首を振って叫んだ。
「あー! もう! とにかく忘れ物を取りに行った時よ、確実に七不思議の呪いのヴァイオリンだよ、あれは!」
「じゃあ昨日はどうやって帰ったの?」
「あたりが真っ暗になる前に先生に発見されたの。そこでやっと意識を取り戻して……あぁ! 昨日ドラマの再放送あったのにー! 見れなかったの!」
「そういえば、七不思議ってなんだっけ?」
光が顎に指を当てて小首を傾げる、あからさまなぶりっ子を目の当たりにした透は軽い吐き気を覚えながら席に着いた。
否が応でもその会話はざわめきの中でも透の耳にしっかりと入ってくる。
――七不思議か……
そういえばこの学校にもそんなものがあるとかないとか言っていたような言わなかったようなと、あやふやな情報を持っていたのだが、今朝は興味津々にその話に集中する。
「光ちゃん知らないの? 理科室の人体模型、図書室にある謎の本、ある時段差が急に変わる階段、呪われたヴァイオリン、プールの底にいる女子生徒、真夜中にボールのつく音のする体育館、保健室の亡霊。これが燐灰高校に伝わる七不思議だよ」
「その呪われたヴァイオリンを、私は昨日見たの!」
「えっ、見たって見たって事? どんな感じ?」
「男? 女?」
「どこに座ってたの?」
「あ、いや、見たっていうか感じたっていうか、聞いたっていうか……」
もじもじと呪いのヴァイオリンの被害者の女の子がたじろぐ。
「音楽室に行こうとしたら、ヴァイオリンの音が聞こえて……それから急に意識をなくしちゃったから見てないっていうか……」
「なーんだ」
「でも怖くない? 呪いのヴァイオリンとか……」
「他のは知らないけど、私プールの奴なら先輩が見たことあるって」
「えっ?」
一人の女子生徒が軽く手を上げて話し始めた。
「去年のプール開きの時、泳ぎの下手な先輩が排水溝に女の長い髪の毛が巻き付いてるの見ちゃって溺れたんだって」
「えー」
髪の毛という単語にぞわぞわと恐怖を噛みしめながら、透は耳を傾けて聞き続けた。
「けどね、助けるときに排水溝を見た人がいるんだけど、そこには髪の毛なんてなかったんだって」
「えー」
「えー」
「えー、嘘くさいって思ってるの?」
「そうじゃないよー、半信半疑で怖がってるんだよー」
「何よそれー! ねぇ、光ちゃんはどう思う? 信じてくれる?」
わきあいあいと学校の不気味な噂を肴にして楽しんでいる女子生徒の中にいる光が、透に分かる愛想笑いを浮かべて小首を傾げた。
「もちろん信じるよー! でも、なんか不思議すぎてぴんとこないっていう感じかな。本当に幽霊なんていないと思うけど……うーん。でもいたら楽しそうだよね」
「確かにー」
「守護霊とかいたらいいよねー!」
お気楽に幽霊を適当に肯定する光に皆が頷く。本気で信じているものも否定するものもいない。透も同じように受け流すように笑いたいが、いかんせん朝の夢が鮮明に思い出せてしまうのが躓き、片方に沼に足を取られたようにどんどん傾いていく。
――櫃本に何か奢ろう……
借金してでも奢ってやると決意を固めたところでチャイムが鳴り、幽霊話は途絶えた。
いくら噂が闊歩しているとはいえ、担任の先生はお構いなく新橋透を一人の生徒として扱う。それを嬉しく思ったり悲しく思ったりするが、クラス中のノート二冊ずつを職員室に持っていくのは中々骨の折れる仕事だ。
だが、これを煉瓦に手伝ってもらうと「俺が全部持っていきますよ!」と言うに決まっている。日直の透が持っていかず、何も関係のない煉瓦が全て持って行ったら担任から白い目で見られてしまう。
だが女の子や他の男子生徒に頼むことも出来ず、透はタワーのようになっているノートを運びながら溜息を吐いた。
「前、見えにくいなぁ」
思わず独り呟く透だが、職員室はすぐそこだ。ここまで誰にもぶつからずに通れたのは、人が勝手に道を開けさせる透の名前の威力の為だろう。
曲がり角を曲がれば職員室だ。透はラストスパートを切ろうと曲がると、障害物があったようでぶつかり、あっけなくバベルの塔は崩壊した。
「あ痛ッ!」
「きゃっ」
尻餅をついた瞬間、鈴のようなかわいい声がノートの雨の隙間から伝わってくる。ぶつかったのは女子生徒らしい。透は慌ててそちらを見ると、腰をさすりながら涙を浮かべている小柄なショートカットの女の子だった。
小動物のような姿と声音に、罪悪感を膨らませる。
「ご、ごめん! 前見えなくて……怪我は?」
「あ、ううん、大丈夫だよー! 気にしないで?」
ノートの海の中で花のように微笑む女の子は、透を見てハッと、目に見えて驚いた顔をする。
「あっ、君もしかして新橋透君?」
「は、はい……」
またか、と透はがっくりと肩を落とした。どうせまた怯えられるか軽蔑されるんだろうと思っていると、女の子は神妙な顔をしてぽつりと呟いた。
「光ちゃん……って、妹、だよね……?」
「そう、だけど……」
妹の友人だろうかと、接する態度を変えるべきか悩んでいる透に彼女は言った。
「気を付けてあげてね……悩みとかあったら聞いてあげた方がいいよ」
「え……?」
思わず顔を上げると心配そうな顔をしている女子生徒が立ち上がり、ノートを踏みつけてまた転んでいる姿だった。
どこか抜けているその様子に、まさか光の正体に気が付いているのだろうかと疑問に思う。
「あの、君は……」
透は名前を聞こうと口を開きかけた時、職員室のドアが開き担任の先生が透を見つけて大声を出した。
「新橋! どうした?」
「え、あ、すみません。ノート落としてしまって」
「おー、マジか。手伝うからさっさと持っていこう」
「はい」
先生に意識を向けていた為、先ほどぶつかった女子生徒が立ち去っていくのに透は気が付かなかった。あたりを見渡してもどこにも人影はない。
がらんとした廊下に広がる寂寞の他に、透から発せられる困惑が積み重なってノートの上に埃となって落ちていく。
20140210