第六話









二つの影が揺れている。黒いコンクリートも赤々と刺々しく照らされる地面に張り付いているのは、ばっさりと髪の毛の影を亡くした櫃本千歳と、申し訳なさそうにしている新橋透だった。
千歳は目元を擦りながら、下唇を噛みしめ透の隣を歩いている。そんな透は居心地悪そうに、だが義務を果たさなければならないというように千歳の隣を歩いている。
しおしおと少し俯いた千歳と、どこか落ち着かない様子の透は遠くから見たらカップルにでも見えるのだろう。
距離感を掴めない甘酸っぱい男女のように映る二人は、殺伐とした空気の残滓を引っ掻けながら住宅街の中を歩いていた。
その間に会話は一つもなく、千歳はただ黙って透の歩む先へただついて行った。
薄紫に赤が混じった空の下、商店街を抜けて住宅街の中にその店はあった。人よりも野良猫や鼠が好みそうな曲がり角の一角。行き止まりのその奥に突如としてコンクリートでできた洋風な美容院が現れる。
家と家の間に挟まった低いその建物は、夕暮れ時と言ってもあまりにも暗すぎる。
両隣の家よりも低い為日差しが届かないというのもあるが、何よりその店の雰囲気が陰気なのだ。
インカローズと書かれたおしゃれな筆記体の真新しい看板が掲げられていたが、それもどこかどんよりとしている。
ガラス貼りの重たそうなドアの向こうには長身の男が立っていた。
美容師らしいその男は腕を組み、顎に指をかけ鏡を見つめていた。その中の己を見つめているのか、ただ純粋に鏡を見つめているのか分からない。
不審な建物に不審な人物、千歳は足を止め、疑うように透を見た。
「……ここ?」
「うん、知り合いだから大丈夫だよ」
「そっちは知り合いだろうけど私は初対面なんだけど……」
「まあまあ」
正論を言う千歳の背を押しながらドアを開けた。思案していた様子の男が二人を見て微笑んだ。だが、その微笑みも打ち消す胡散臭さがあった。
おしゃれな内装は外から見たあの陰気な雰囲気とはちぐはぐで不思議な感覚にさせる。その中に一人立っている男は180はありそうな長躯で、その高い身体の半分以上の長さを持つ髪の毛を一束に括っている。髪を切り落とされる前の千歳よりもはるかに長いその髪は、おしゃれというよりもただずっと伸ばし続けているというような重さを感じさせる。
そして美容師だというのに動きづらそうなスーツ、よく見ると喪服姿で立っていて、この店の内装が美容室だとしてもこの男のせいでその印象が薄れ、噛み合わせを悪くさせているのだ。
「いらっしゃい。珍しいな、透が女の子を連れて来るなんて……」
「うん、ちょっと色々あってね。それよりさっきから何してんの?」
「ああ……いや、俺の髪が何か言いたげだったから何かなって思って……うーん、一体何が言いたいんだろう? 口ごもっちゃって」
「はあ。じゃあ会話は後でもいい? この子お願いしたいんだけど」
「もちろん大歓迎だ。さ、こっちに座ってくれますか?」
紳士的なエスコートで促す美容師、藤納戸忍はカットケープをつけて千歳の肩に手を置いて鏡ごしに視線を合わせる。
「今日はどんな髪型に致しましょう?」
「見られるような髪型に」
「何かこだわりは?」
「無いです」
「……? 君の髪は深いこだわり、決意を持っているように見えるけど……根本からもそんな適当さは見当たらないな。ついさっき何か心境の変化でもあったのかな?」
さらり、と千歳の髪の毛を触る忍は首を傾げて問い掛ける。千歳は鏡に映った忍の世間話をするような顔を見てビクッと肩を跳ねさせた。
「な、何なの貴方……」
「忍は昔からこうなんだよ。人の髪を見て判断するっていうか」
「髪の声が聞こえるんだ。特に女の子の髪は強い意思表示を見せるよ。長くても短くても、痛んでいても艶やかでも、彼らは持ち主の意識を反映している……君は、そうだね、とても負けん気が強いみたいだ。けどどこか抜けてるね、あ、毛根は無事だよ。強い目的意識がある……それは何かは分からないけど」
ビシバシと言い当てられる言葉に嫌悪感を滲ませる。
「あはは、こういう風に当てられるとすんなりと好意的に受け入れられるか、君みたいにそうやって拒否されるかのどちらかなんだけど……あからさまだね」
「だって気持ち悪いんだもん」
ばっさりとオブラートに包まない言い方に、忍は傷ついた様子も見せず陽気に笑った。
「あはは、そうか、ならもう言わないよ。けど聞いてもいいかな? 君の髪はつい最近までこの先があった様子なんだけど、なんでこれほどまでに切ろうと? 凄い切り方だな、ファッションだっていうのもちょっと苦しいよ、これ」
毛先を指で挟んで動かしながら疑問を口にする忍に千歳は目を眇め淡々と事実を述べた。
「サバイバルナイフでばっさりといったの。だからそんな感じに……」
「なぜそんな事を!?」
がっ、と骨を折る勢いで千歳の肩を掴み、鏡に向かって唾を飛ばしながら叫んだ。ぱちりと驚いて目を見開く千歳が声をなくしていると、鏡の中の忍はバッと真横をむいた。血走った目を剥いて、もう一人いる人物にまた唾を飛ばしながら叫んだ。
「透! 何故この子はそんな事を!」
「あ、っと……その……実は、俺が切っちゃって……」
物腰の柔らかそうな雰囲気が、一気に喪服と黒い長髪を巻き込んで怪しさ全開になっていく様を見て、自分の髪を預けても大丈夫だろうかと千歳は不安になった。
「お前が? 切ったのか! 無理矢理!」
「事故だよ事故! ナイフ振り上げたらそこに髪の毛があって……」
「手元を注意しないとダメだろう! 相手は女の子だぞ! ナイフなんてそんなよく切れるものを……!」
鼻先まで迫った般若のような顔をした忍に両手を上げて後ずさる。
ぎちぎちと女の子の肩の骨を砕く力で握りしめている忍に、千歳は少し眉を顰める。女の子扱いされて悪い気はしない。照れを隠すようにそっぽを向いてぼそぼそと呟く。
「別に髪の毛なんてどうでも……」
「普通鈍器だろう! 骨は砕けてもくっつく! 腫れても治る! 死んでも生き返る! だが髪は……髪だけは……!? あぁ無情!」
顔を両手で覆って天を見上げ叫ぶ忍に置いてけぼりを食らっている千歳は、透を黙って見つめる。目だけではっきりと『コイツ入院患者なんじゃないの?』という問い掛けだった。
確かに頭がおかしいように見えるが、それは髪に対してだけでその他はいたって普通だ。
近所にいたよく遊んでくれるお兄ちゃんで、喧嘩が強くて、光の髪を弄って美容師への道を歩きやすくしていたというとてもノーマルな関係だ。
――でもまあ、光に喧嘩の仕方を教えたのは忍なんだけどね……
そこは色々と思うところがある。タンスの角に足をぶつけた時、こんな所に何故タンスがあるのかと思うのと同じように、何故光に喧嘩を教えたのだ。という根本的な恨みだ。
だがそれは包丁で殺人を犯した人間が『だって包丁だから』と、すべての原因を押し付けるようなものだ。とても無意味で不毛な事だと透も理解している。
「忍、櫃本が困ってるよ。早く髪を綺麗にしてあげてくれない?」
「あぁ……そうだな……いやはや、まさかこんな悲劇が起こるとは……可哀想に……今すぐに綺麗にしてあげるからね」
髪を愛しげに撫でながら忍は言った。千歳は頭を撫でられ少し萎縮しているがなんとなくわかっていた。
この男は千歳の頭を撫でているのではなく、千歳の髪の毛を撫でている。
その手触り、そして話しかけているのも千歳ではなく髪の毛の一本一本に話しかけているのだ。
まるで恋人に話しかけるような甘い声で、千歳はぞわぞわと鳥肌が波立つ。
ぷつぷつと鳥肌が頬に浮かんでいるのを見て、透は苦笑いをする。相手が異性ならまだいいのだが、男でもお構いなしにあの様子で髪の毛に話しかける為、中々顧客が定着しない原因だ。
――やっぱり女の子でも気持ち悪いんだな。
「じゃあ俺は雑誌読んで待ってるね」
「ま、待って! もうちょっと傍にいて!」
「ああ、美しい……君を綺麗にしてあげるからね」
変質者のように恍惚としている長髪の喪服の男に怯える千歳が手を伸ばすが、透は雑誌を取り出しソファーに腰掛け寛ぐ体制を取った。
鋏が千歳の髪に入りだし、細かい髪が地面に落ちていく。リズミカルな鋏の音が耳元で聞こえる。
最初は警戒していたがシャンプーもドライヤーも思ったよりも心地よく、殺し屋を目指している千歳だが、少し眠たげな顔をしてなすがままにしていた。特別リクエストもしていなかったので忍の好きなように切らせていた。
「さ、終わったよ」
ぽん、と肩を叩かれた千歳はハッと意識を取り戻し、鏡の中の自分と対面した。
長かった髪の毛はばっさりと切られ、かわいらしいボブカットに変身していた。この湿った井戸にでも出そうな男が下とは思えない程、今風で軽やかな髪型に顔の角度を変えて何度も確認した。
「な、何か……髪が輝いてるような……」
「そう、つまりそれが髪の喜ぶ顔だ。とは言っても毛先を整えたくらいで、あとは髪のポテンシャルに助けられたようなものだよ」
化粧を施しても、君の素顔は綺麗だよ。などと言いそうな忍の愛しげな視線に千歳は立ち上がり、鳥肌を押さえながらドアを開けて外に出た。
「ちょ、櫃本?」
くるりと振り返り、雑誌片手に立ち上がった透に人差し指を突きつける。
「約束は守るわ。今度はもっと強くなって貴方を殺してやる! 首を消毒して待ってなさい! 新橋透!」
ふわりと整えられた短い髪を揺らしながら、物騒なナイフを投げつける事もなく櫃本千歳はインカローズを後にした。
残された透は雑誌を戻し、一仕事を終えて満足げな顔をしている忍に財布を取り出しながら尋ねた。
「俺が払うよ、いくら?」
「透の友達だろう? いいよタダで。それよりもあの子に何か奢ってあげろよ、切っちゃったんだろう? ……あぁ……まったく信じられないことにな……」
 髪を切って落ち着いた様子だったが、徐々に透が無残にも髪の毛を切り落としたことを思い出したようで、ふつふつと怒りが沸騰していくように語尾がどんどん低い声になっていく。
「あはは……あ、一応髪は拾ってきたんだけど、いる?」
「! それを早く言いなさい!」
ナイフを包んでいたハンカチを取り出し、そこに包まれている千歳の長い髪の毛を忍に渡す。
インカローズの店内は二人分の席しかないがとても広々と開放的な空間になっている。だが店内の奥にはもう一つ部屋があり、忍は千歳の髪を持ってそこへ引っ込んだ。
透も後ろからついて行くと、そこには祭壇があった。お供え物には林檎が皿に乗っておかれており、僅かに香る線香の香りは染みついて離れない。
忍は畳のその部屋に靴を脱いで上がり、一つしかない座布団に正座して、祭壇に髪を飾り両手を合わせる。
「女の子の髪の毛には執念が宿っているからね。表面上はああいっても、無意識に髪の毛に魂は入り込んでいる。もしかしたら透の寝ている隙に首を締めにやってくることもあるかもしれないから、気を付けておいた方がいいよ」
「あはは」
髪の毛以上に恐ろしいのが本体だと苦笑いする。あの光とまともに喧嘩をしている人間を見るのは初めてかもしれない。
光に喧嘩を教え、強さを教えた忍に透がそれを教えようと口を開いたが、それより早く忍が目を閉じたまま切り出した。
「針入高校の不良たちが透の事を話しているのが聞こえたよ。また暴れたみたいだね」
「本当? 最近多いな……一つにピンポイントに絞る事なんてめったになかったのに」
針入高校と言えば不良の巣窟。いくら光が強いとはいえ、一点を長期にわたって集中攻撃することは今までなかった。
売られた喧嘩を買い、むしゃくしゃしたら歩いている不良に喧嘩を売る。
『もっと強い奴と戦いたいわ』
光の何気ない言葉を思い出す。
「まさかアイツ……」
透が嫌な予感を感じ、顔色を悪くして考え込む傍で、儀式のために線香に火をつけながら忍は困った様に笑った。
「まったく、お転婆だ」





20140205



Back/Top/Next