第四話





「これ、返しに行った方がいいのかな、やっぱり」
弁当を食べ終わり、ベンチに腰掛けた透がトイレに行って不在の煉瓦を待ちながら、ハンカチからサバイバルナイフを取り出し唾を飲みこみ呟いた。
ギラギラと魚のように光るナイフの刃に、透はキョロキョロとあたりを見渡し、近くの木の枝に刃を添えてみた。
まるでスポンジを切るようにあっさりと枝が地面に落ちたのを見て、無言でハンカチにしっかりと巻き、ベルトに戻した。
「いやー、お待たせしました透さん! ……あれ、どうしたんスか? 腹下したみたいな顔して」
「な、なんでもないよ、何でも」
顔面蒼白の透はロボットのように立ち上がり、ギクシャクと関節が軋むような歩みを見せた。あんな切れ味のいいものは見たことが無かった。家の包丁もいい切れ味だと母がうっとりとしていたが、それは野菜や肉を切るためであって、まさかその切っ先が喉仏に向けられるなんて思いもしていなかった。
――やばいやばいやばい。光の弊害がさっそく俺に!
「針入高校の番長の話知ってます?」
「知らないけど」
「喧嘩じゃないんスけど、身体が筋肉ありまくりすぎて制服破っちゃったって言ってましたよ! それ俺の友達が見てたんスけど、その二日後に彼女ができたんスよ! もし番長と会えたらまた破れねーかなーって」
あはは、と、番長の話で身構えていた透だったが何とも気の抜ける内容で、肩の力を抜いた。
「へえ、それは見てみたいね。願い事唱えるといいのかな」
「落ちるのは星じゃなくて布ッスけどね」
あはは、と、笑い返しながら教室のドアを開けると、太郎の力の抜けた笑みの前を何かが落下した。
笑いあっていた為、開けた瞬間に入らなかった。もしいつも通りのスピードで入っていたら、その落下物に鼻が削り取られていただろう。
ガチャン、と鎖が括り付けられている。まるでサメの歯のようなギザギザとした見事な刃は、教室の床を噛みつくように貫いている。
「な、ギ、ギロチン……!?」
ぞわ、と背筋を指先で撫でられるような気配にバッと振り返る。隣の教室のドアからひょっこりとつくしのようにかわいらしげに顔を出してこちらを見ている女子生徒。櫃本千歳が無垢な目で透の無事を確認した後、眉を顰めて「チッ」と舌打ちをしたのを聞いた。
煉瓦が落ちたギロチンに目が釘付けで、すぐに引っ込んだ千歳のそのような表情にまったく気が付かなかったようだ。舌打ちすら聞こえないようで、
「ま、まさか他校生のトラップ? こんなところまで侵入してくるなんて手練れ……! 忍者ッスかね!?」
一人で透の周りの不穏因子をこれまたきらきらとした瞳で透に同意を求めるように見つめる。遠足前の子供のようなはしゃぎっぷりに、激しい温度差を感じつつ、透は力なく
「ソウダネ」
と、笑った。
それから午後の授業はどこから狙っているのか、同じようなサバイバルナイフが透の歩く先だったり、歩いていた場所だったり、つい先ほどまで頭があった所に見事に刺さっていた。
それを見て透は、このナイフは使い捨てなのだなと理解し一々拾って持つことはなくなった。
最初の一本はすでに拾ってしまった為、これは改めて返しておこうと思っているのだが、昼の一時間目の授業、体育はサッカーだった。
チーム分けで煉瓦と透は同じチームになり、今は他の二チームの試合を腰を下ろして見学していた。
「これ、教科書いらないんじゃないッスかね」
「そうだよねー、また勘違いかな。でもまあ暑いからいい団扇になるよ」
「仰ぎにくいッスけどね。前回も身体検査だって言ってたのに、がっつりマラソンさせられたッスからねー。女子は悲惨だったらしいッスよ、前日にメシ抜いて体重減らそうとしていたみたいッスから」
「ああ、ゾンビがすごかったね」
教科書で汗の滲む顔を仰ぎながら透は頷いた。朝飯抜きの長距離マラソンを終えた女子は死屍累々と、腕をだらりと垂らして廊下を徘徊する姿はゾンビが墓から蘇ったようだったと噂になった。
まさかクラス全員の女子が早弁する姿を見ることになろうとは思いもしなかった。
先生も男子も見て見ぬふりをして、教科書を立ててカカカカッと黒板にチョークをぶつけるような音を立てて口にご飯を放り込む姿がまわりにあったため、男子は全員よそ見をせずに真剣に黒板に向き合って授業をしたという、稀有な事が起きた。
「まあ、今日はサッカーとバレーボールだって言ってたからよかったよ」
「まーた身体検査だのなんだのだったら死んでましたね!」
あははは、と、また笑いあっていると頭上からサバイバルナイフが飛んできて団扇にするには分厚い体育の教科書にドドッと突き刺さった。
「うわ!?」
「うお! またッスか?」
飛んできた方向を見てみると、1−Bの教室から投げたフォームでこちらを見ている千歳の姿が小さく見えた。おそらくまた舌打ちをしているのだろう。さっと窓を閉めてしまった。
「ヤベェ、体育の授業でも命狙われるなんて渋っ! ハードボイルド! カッケェ!」
煉瓦がきらきらと瞳を輝かせ、命の危険という男のロマンに震えているのを見て、ならこのナイフの切っ先向けられてみろよと、透は教科書からナイフを抜きながら思う。
それから一週間毎日何回もサバイバルナイフが校内を飛び交う事件が発生した。
「おいなんだこりゃ!」
「あっぶねーな、誰だ投げてんのは!」
「もしかして新橋君?」
「また新橋か!」
「何を引き連れてきたんだよ」
「殺し屋にでも付きまとわれてるんじゃねーのか」
被害者がなぜか加害者になっているのは、千歳の巧妙な動きの為だろう。透にだけはナイフを投げる動作、射抜く視線、舌打ちなどという見事な証拠があるのだが、誰一人としてその行動を見聞きしたものはおらず、千歳は野次馬に紛れナイフの失敗を確認してまた教室へ戻っていく。
透はアートになったように壁に背を預け、手足を曲げてナイフを奇跡的に避けた姿のまま固まっていた。
――いつになったら終わるんだろう、これ。
これだけ避けているのだからそろそろ諦めてくれてもいいのになと、透は過去光の強さを目の当たりにしても挑んできた強者たちを思い返していた。
普通に喧嘩をすれば透は負けるが、光と戦ってから透の前に現れる連中は、怯えているか数を増やしてやってくるかの二通りだった。
――ここまで無事なのは、めちゃくちゃ運が良かったからだよなぁ……。
人より入院する回数が多いと透は感じておらず、額に手をあてて大きなため息を吐いた。
透は人一倍運が強い方だった。じゃんけんは負けより勝ちが多いし、トランプも負けたことも片手で足りるくらいだ。光は透とカードゲームや賭けをするのをあまり好まないが、それでも勝とうと時々挑んでは負けてカードをばらまき、怒りをばらまき自室へ戻り、次の日には新たな火種を透の顔でぶちまいて憂さを晴らすという見事な悪循環が生まれている。
「透さん、またいいポーズ決めて避けましたね!」
「そういえば煉瓦は無事なんだな」
「そうッスね! 俺なんか眼中にないんでしょう!」
そういう事じゃなくてね。と突っ込む気力もない。どうやらあの櫃本千歳は本当にコントロールが抜群で、周りに迷惑をばらまいてはいるが、透以外に被害はない。
初日の挨拶以来、千歳が透に接触することはなかった。野次馬の中から殺傷能力のあるものを投げつけてはその結果を見てまた消える。
光に手を出さないようなので、できれば穏便に示談に持ち込みたいと透は思っている。
――光が介入したら血なまぐさい事になりそうだしなー……。
数えきれないナイフを投げられている時点で血なまぐさいかと改めなおしたその日、櫃本千歳の父親が久しく家に戻ってきた。母と父と娘の三人の団欒が設けられたのは、その日の夜だった。
いつも以上に機嫌のいい娘が、そわそわと何か言いたげにしているのを父は分かっていた。
いつ切り出そうかと、母の近況報告に頷き、父もそれに返すように仕事の内容をあっさりと報告した。失敗はない。心配もない。
それを済ませた頃に千歳が爛々と瞳を輝かせて父に言った。
「お父さん、お父さん! ついに見つけたの! 私の殺しのターゲットが!」
「おお、それはめでたいね。どんな相手だ?」
「私の攻撃を簡単に避けるの。どれだけ攻撃しても当たらない」
「ほぉ、そんな子がいるのか。興味深いね」
千歳の母は父と娘の会話をにこやかに聞いていた。夫にお酒を注ぎながら千歳の空っぽの茶碗にご飯を無言で継ぎ足していた。
「うん。どれだけトラップを仕掛けても無傷なの!」
「……トラップかい?」
「ギロチンにナイフに縄に網……明日からは爆弾も持っていこうかなって思ってるの!」
「千歳が殺している事は周囲の人間は知っているのかい?」
千歳は更に瞳を輝かせた。それがまったく気づいていないのだ。透の普段の行いの悪さのせいか、注目されるべきは投擲者ではなくその的にあった。
今の見事なまでの流れは殺すに最適だった。千歳はどんどん熱くなって手振りを交えて父に自慢する。
「ううん、まったく! 私もうまいものだと思ってる! この感じならきっとすぐにでも殺せ、」
「千歳」
はた、と、千歳は動きを止めた。
今まで聞いていてくれた父の声音が殺し屋の喉となった。顔を見ると薄らとした微笑みの化粧が剥がされ、鋭い刃のような瞳がギラリと光り、千歳を見据えていた。
一瞬二人の会話が止まり、食卓は沈黙が落ちた。だが母は同じ雰囲気で黙ったまま、ご飯を食べている。
「それは殺しではない、暗殺だ。実力が拮抗した相手に暗殺を企てるなど、自ら力が劣っていると宣言しているようなものだ。正々堂々と真正面から殺しに行きなさい」
「は、はい」
「私は暗殺が大嫌いなんだ。特にする人間がな」
娘の目を見てはっきりと大嫌いと言い切った父は、少し唇をもごもごと動かした後、父とも殺し屋とも取れない目で千歳を見ながら過去を反芻するように手の甲に手の平を置いてさすった。
「邪道な考えだと仲間にもよく笑われるが、私にはある殺し屋を目標にしている。彼は『死の影』と呼ばれていて、いつ仕事をしているのか誰から受けているのか分からない。謎の殺し屋だ。だが、ある日彼の仕事現場に出くわしたことがある。残念ながら仕事を終えた後だったようだが……見事だった。相手は無抵抗ではなく抵抗していた形跡があった。たくさんの血、銃痕、暴れた形跡の中に『死の影』の実力が垣間見れた。実はその殺された相手は知らない人間ではなくてね、有名な暗殺者だった……私も手ひどくやられた相手だ。その後の血液採取では殺された人間以外のDNAはなかった。つまり無傷だ」
言葉を切り酒を一口飲んだ。
「半端な殺し屋は殺される。向こうもこちらも向き合った時の純然たる実力差があってこそ、生き延びることができる」
コップを机に置いてまた千歳に目を向けた。
「今のままでは死ぬぞ千歳。あの暗殺者のように」
「分かりました、お父さん……なら、明日けりをつけて来ます」
いつの間にか千歳の手の平は汗で滲んでいた。それを悟らせないように握りしめ、膝の上に押し付けた。
「私はお父さんみたいな殺し屋になりたいから」
静かに咀嚼していた母が「ふふ」と、吐息のような笑いを零した。父はゆっくりと頷いて微笑んだ。
「ああ、お前を待ってる。私の引き出しの中でな」



「ねえ、ここ最近透の周り煩いんだけど、何かあったの?」
驚愕の透は何も知らない光に項垂れつつも、今までの事を全て話した。夕食終わりで母はお風呂に、父はテレビを見て笑っている。
ソファーに腰掛けた二人は少し声を潜めて櫃本千歳の名前を出しあった。
「ああ、あの私とキャラかぶってる子ね」
「え、何が?」
「ほら、ヘアースタイルも似てるし、雰囲気も似てる」
「そうかな?」
透から見たら光は妹の皮を被った悪魔なのだが、第三者の視線から見れば違うのだろう。
「優等生で、清楚で、明るくてって事。ま、友達の数は私が勝ってるけどね」
「俺から見たらどっちも清楚じゃないよ」
「更にかぶってるところが増えちゃったわね。あーあ、どうしようかな、髪の毛切っちゃおうかな。どうせ忍の所も閑古鳥だろうし」
指で長い髪を絡めながらいろんな髪型を考えているであろう光に透は詰め寄った。
「それより、これからどうすればいいと思う?」
「どうもこうも、だって相手はアンタ狙いなんでしょ?」
「お前の喧嘩を見てこうなってるんだよ、責任の一端はお前にある」
「ふうん、そういう事言うのね。大体透のせいで発生したストレスを発散しているんだから、やっぱり透のせいよ」
「んな……! よくもまあ間違えても言えないような事を言えるなお前は!」
「だって間違えてないもーん」
小生意気な妹を前に、透はぎりぎりと歯ぎしりをして言葉を探すが、口では勝てないと理解してがっくりと頭を項垂れた。
暫く光を説得する言葉を色々と探し、組み合わせるが自信が無く口から零すことはなかった。
そんな兄の様子を見て、光はわざとらしい溜息を吐いた。
「あーあー、もうしょうがないんだからー。わかった、明日私がケリつけてあげる。一発殴れば大人しくなるでしょ」
「そんな物騒な」
「ナイフ投げつけといてそれはないわよ。ま、道具に頼る馬鹿は大抵弱いって相場は決まってるけどね。もっと強い奴と戦いたいわ」
髪をはらいながら言ってのける光に透は安心したような不安なような顔をする。透の鼻を摘みながら光はニヤリと笑った。
「明日は優等生で清楚で明るい私のイメージ壊さないでね?」
「は?」
「アリバイ工作よ、するに決まってるでしょ」









20140203



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