第三話





ぞわりと寒気がしたが、あれはクリスマスの熱気に反するように冷え込んだ冬の本気のせいだった。小学三年生の私は腕をさすりながら、マンションの扉が並んでいる廊下を歩いていた。私の部屋はマンションの最上階で、小学校から戻るときは家に着いたと思ったら、上に行くまでの時間が長すぎて毎日焦れていた。建物の中に入ったとはいえ、エレベーターも廊下も心安らぐ場所ではなかった。
母はいつも家にいて「おかえり」と言ってくれるけれど、私は時々しか戻らないお父さんに「おかえり」でも「ただいま」でも言いたいし、言われたかった。ずっと仕事に出ているというのはなんとも誇らしい事だ。私の憧れる職業で世界を飛び回っている父は羨ましいし尊敬していたが、一人の子供としては複雑な心境だった。
急いで帰宅しても父は戻ってこなかった。母はこの日は帰ってきてくれるわよと言っていたけれど、また嘘だと落胆した。天気予報のように当たる事もあれば外れるときもあった。普通の冬の日だったらまだよかった、けれどその日はクリスマス。聖なる夜でプレゼントと蝋燭の火を噴き消し、幸せな空間がどの家庭でも生まれる日だ。
私は腕をさすりながら、ずっと玄関の前で待っていた。私の視界には閉ざされたドアが映し出されていたけれど、はっきりと次の瞬間が見える。ドアノブが動き、ドアから父の顔がのぞく様子が。けれどそんな映像はいつになっても再生されることはなく、一時停止を押したままのようにドアはぴくりとも動きを見せない。お父さんの足音とドアノブを引っ張る音、そしてスーツ姿のお父さんが見えたら「おかえり!」と叫んで飛びつくのだと決めて、かれこれ一時間も経っていた。
「千歳、そろそろこっちに来なさい。お父さんはもう少ししたら……」
「もうすこしならもうすこし待ってる!」
「風邪ひいちゃうわよ?」
「いいもん!」
「千歳……」
お母さんの心配もその時の私には氷山に石を投げるようなものだった。
「ちゃんと約束したもん! クリスマスに帰ってくるって……! 標的のドタマぶち抜いてすぐ帰るって言ったもん!」
「でも、お父さん外国にいるのよ? 仕事が終わっても、そんなにすぐには帰れないわ」
「無賃乗車してでも帰るっていってくれたもん!」
母がケーキを用意したと言っても、私は頑なに玄関から動かなかった。マットの上に腰を下ろして、ガタガタと震えながら腕を組んで父を待っていた。
一時間が過ぎ、日も暮れ、夕飯の時間になった。その後にお風呂の時間になり、歯磨きをして寝る時間にまでなった。うとうとと寒い玄関で見かねた母が持ってきてくれた毛布に包まってうたた寝をしていると、せわしない音が廊下に響く音で目が覚めた。
このよく響く音、ハイヒールよりも低いこの音はお父さんの革靴の奏でる音だ。
「お父さん!」
「ただいま。千歳すまない、SPが思った以上に強くてね」
「ううん! さ、早く早く! パーティーだよ!」
血濡れのスーツ姿でも、片手に鞄とかわいらしい紙袋を持っているのを確認して、私は兎のように飛び跳ねて父をリビングへ連れて行った。
「おかえりなさい、あなた」
「ただいま、防弾スーツは役に立たなかったよ」
「じゃあライフルを?」
「ああ」
「お疲れ様でした。千歳、お父さんはお風呂に入らなくちゃ。綺麗にしてご飯を食べた方が楽しいでしょう?」
「いいよ! 赤いスーツもかっこいい!」
「あはは、口達者になったなあ千歳は」
クラッカーを鳴らして、ケーキが机の真ん中に置かれて、目の前には鳥の丸焼きが置いてあって、そばにはプレゼントがある。
これ以上クリスマスに何を望むのかと思うくらいに幸せな日だった。母は微笑み、父は笑い、サンタクロースのような真っ赤なスーツはクリスマスに調和していた。
手を叩いて喜ぶ私は、さっそく父からのプレゼントは何かとあけた。
それは手の中にずっしりと重みを残して、私の手のひらからなくなった。父が私のプレゼントをひょい、と取り上げたのだ。
「私のじゃないの?」
「千歳のだよ」
「じゃあなんでとるの?」
「これ、なんだかわかるかい?」
「ずっと欲しかったものだよ! わかるに決まってる!」
銀色に光る長い銃口のコルト・パイソン。見た目がかっこいいとずっと言っていたもので、父の持っている別の拳銃を触っては、目に見えない私の愛銃を思い浮かべて悦に浸っていた。子供の想像力は象並に逞しいものだ。
「千歳、これはお前へプレゼントしよう。だが、それは今じゃない」
「えー」
「いつかお前が持っている夢を実現させたら、これをあげよう」
「本当? 嘘じゃない?」
「ああ、もちろんだ。途中で夢を変える事も可能だからね」
「ううん、私、絶対殺し屋になる! お父さんみたいに世界中をとびまわって、綺麗に人をころしてみたい!」
父は私に殺し屋の夢を持ち続けることが怪しいと思っているらしいが、私はきらきらと瞳を輝かせて、潰えることの無い夢を父に叫んだ。子供は盲目だがこの夢に関しては盲ではなかった。私はそれからずっと抱き続けて膨らませていく。
聖夜の朗らかな家族の団欒の中で、父は私に言った。
「千歳、お前に最初に殺しの依頼をするのはお前自身だ。お前が殺せるかどうか怪しい相手を、自分に依頼をして完遂するんだ」
「自分に?」
「それができたらこれをあげよう」
私にはいつもあのコルト・パイソンがいる。父の何度も折れて太くなった指と、手のひらにナイフを突き刺されて貫通した傷痕の上に横たわる銀色の重心。固そうなフィンガーチャンネル、腕が折れてでもいいから一発撃ってその刺激に恍惚としたい。私はずっとその衝撃を受け止めたくて仕方がなかった。だけど、私の相手になる相手がいなかった。
クリスマスの翌日、私はクラスの中で一番強い柔道部の武村君に勝負を挑んだ。そこで負ければターゲットとして私が私に依頼することができると思った。
だが、私は喧嘩に勝利した。皆に強い強いともてはやされていた武村君は、ただ体重が重いだけの子供だった。
得意分野で挑もうと柔道でも対決した。ルールもよく分からなかったけれど、あっさりと投げ飛ばしてまた勝ってしまった。
このクラスにはいないと、今度は学校全てに目を向けた。上級生で先生に目をつけられている不良の西中君に勝負を挑んだ。彼の家はボクシングジムで、彼もボクシングを習っていて年上でも容赦なく痛めつけるという札付きの悪だった。
彼ならいいだろうと私は挑んだ。
小学六年生が小学三年生に歯を折られて負けてしまった。
その屈辱の情報は学校中を駆け巡り、復讐に駆られた西中君はまた私に挑んできたが今度は奥歯を飛ばした。
どうやら虫歯だったらしく、嬉しいやら悲しいやら複雑な顔をして西中君は病院へ行ってしまった。
さっそく躓いた私は私に拮抗する相手を見つけ、殺すまで髪を伸ばし続けると決めた。短い私の髪が長くなる前にけりをつけようという決意の表れだった。私は視野を広げた。別の学校に目を付けた。
だが、そこでも私のターゲットに相応しい人間はいなかった。私は私に依頼する前にその相手を倒してしまった。殺し屋の卵はいつになっても孵化する事は無く時は流れ、髪の毛は肩を越して肩甲骨まで伸びていき、母の遊び相手になった。
長い時間だった。すぐ近くにはコルトが眠っているのに、私は触れる事すら敵わない。
父は殆ど家には戻らず仕事ばかりで、母も買い物に出かけたりして家にいないと気があった。そんな時欲望に駆られて、父の私室へそっと足を運ぶが、足の先ぎりぎりにナイフが落ちてきてくれるのが私の自制心となってくれた。
父はおそらく私の為にトラップを仕掛けてくれていたのだと思う。現に母が父の部屋に入ってもトラップは発動していなかった。
もしかして母はトラップを解除して入っているのか? と思うけれど、まさかあの母がそんな事できるはずがない。普通の主婦だ。普通の夫を持つ普通の主婦が、サバイバルナイフを指で挟んでベッドの上になげつけるなど、できるはずもない。けど、時々父不在のベッドにサバイバルナイフが沢山置かれていたことがあったけれど、あれは何の意味があったんだろう。
そんなこんなで高校生になっても私が倒せない相手は見つからなかった。
むしろ一目見ただけで相手の力量を知ることができる目を持ってしまい、挑戦するまでもなく、書類審査ですべてが分かってしまうようになってしまった。最後に面接をしたのは中一の時のヤグザの息子の木村君だった。部下が三人ほど私の所へやってきたけれど、彼らもダメだった。私はその時にすでに諦めていた。もっと大人にならないと私に張り合える人間は出てこない。
父の私室のサバイバルナイフを受け止めることができ、コルトのある引き出しまでたどり着くことができるようになっていた高校生の入学式、ある噂が飛び交っていた。
「新橋透はヤバい」
ヤバいと称される人間の顔はチェックしてあり、顔を腫れさせてきたが新橋透は無事だった。
中学校も隣の地区で、そんな噂がある人間をチェックしていないはずがない。おそらく書類審査で落ちたのだろうと思い、入学式で緊張している様子の新橋透の姿を見た。やはり面接する必要もなかった。
この学校にはそれなりに面白い気配の人間がいるなと物色し始めていた時だった。
学校帰りの裏路地で、私は見た。
ぞわぞわと背中に鳥肌が立ち、指先に力が入らず指が震えた。
――あのスピード……あの威力……私が戦ったらどうなるだろう……
無意識に不良十人をなぎ倒した新橋透の姿に思わずそう考えを巡らせた。
戦術を考えたのは初めてだった。帽子を被り、顔を僅かに隠している新橋透を見た。帽子の唾でよく顔が見えなかったが、はっきりとわかった。
――報酬は、コルト・パイソン。
マンションへ戻る足取りはとても軽やかだった。エレベーターもドアが並ぶ冷たい廊下も全てが輝いて見えた。長年縛られていた縄が朽ちてボロボロと羽化するように剥がれ落ちていく。
――櫃本千歳、頼んだわよ。
「やってやるわ!」
やっと引き出しから出してあげることができそう!
明日初めて受け持つ殺しの依頼に胸を躍らせながら、私は数年ぶりにマンションの廊下を子供のように走った。










20140203



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