第六十九話






ついこの間の出来事だが、もうすでに過去のように思えるのは何故だろうか。まさか、こんなに早く待ちぼうけのデジャブを感じる事になろうとは思っていなかったからだろうか。
場所が変わっただけで、透はまたアイスコーヒーを啜りながら、一人で待っていた。
突然相手から場所と時間を告げられたにも関わらず、10分前には約束のファミレスに来て待機しているのだが、まだ待ち人は来ない。
――また俺が先に来てるし!
家族連れや女の子の話し声で少し騒がしい店内で、一人ぽつんと静かに座っているのは、寂しい気分だ。
頬杖をついて窓の外を見る。また今度も違う人の席に座って、一人独壇場を繰り広げたらどうなるだろうかと、ストローを噛んでいると、やっと菫の姿が見えた。遅刻しているのに急いでいる様子ではない。
目を眇めて菫が店内に入るまでジッと見た。だが、その冷たい視線も徐々に氷が解けるように解けた。目に見えて、菫が疲弊しているのが分かったからだ。
こちらに近づくにつれ、別の席に座るのではという不安よりも、その場で倒れないかという不安に変わっていく。
菫は透の前に座った。一言くらい文句を言ってやろうかと思ったのだが、そんな気も削がれた。
机に肘をついて髪の毛をかき上げて見えた顔は、少しやつれているように見えた。目の下にも隈が出来ている。
「ごめんなさいね、遅れちゃって……」
「どうしたんですか。なんか、疲れてるみたいですけど……」
「ええ、ちょっと……ね。ごたごたがあって……その事についても話したくって呼んだの」
ふぅー、と息を吐いた後、店員に透と同じアイスコーヒーを注文した後、机の上に菓子折りを置いて頭を下げた。
「まずは、さくらの事、助けてくれてありがとう」
「え!? あ、いや、いいですよそんな……」
「本当ならいくらかお金を払おうかと思っていたんだけれどね。さすがに気が引けるかなって思って」
「そりゃそうですよ。俺、何もしてないし……」
あの日の記憶と言えば、くしゃみをした後、気を失って目が覚めたら家にいた。光に聞いたところ、地下室から出た時にもさくらの姿は何処にもなく、もう一度探しに行くべきか悩んでいると、菫からの連絡でさくらが無事に家に戻ったことを知ったのだ。
一体、さくらがどうやって脱出したのか透は知らない。
「だとしても、私がお願いして行ってくれたんだから……というのは建前で、実はまたお願いがあるの」
「えっ」
困ったように笑って小首をかしげる菫に、透は嫌な予感がした。
「あ、もしかして、さくらちゃんにまた何かあるとか? まさかまた誘拐……!?」
「あー、ううん、さくらは、もう、大丈夫。平気よ。ちゃんと普通に生活してる」
「怪我とかしてないですよね?」
「ええ、至って普通よ」
これでまたさくらに何かあったら、北斗からも何を言われるかと危ぶんでいた透だが、菫の様子が少しおかしい事に気が付いた。
言葉もとぎれとぎれで、気持ちがここにないような受け答えだ。
目も少し淀んでいるように見えたが、すぐに瞬きをして透に笑いかけ、菓子折りの箱をぐいっ、と押して透に渡す。
「まあ、話だけでも聞いてちょうだい」
話があると聞いてここに来たのだから、聞こうとは思うのだが、話す前のこの丁寧な菓子折り。もう手に負えないとでも言いたげな疲れた菫。嫌な予感のゲージがぐんぐんと上がる。
「私たちがさくらを探せなかったのは、他に用事があったからなの。ここ最近、鉛君殺し屋に狙われてるのよ」
「うわ、それは大変ですね」
透の脳裏には千歳とエンブリオの姿が思い浮かんだ。不敵な笑みを浮かべ、鋭利な刃物を投げつけて来る千歳。大きな武器を使って殺そうとして来るエンブリオ。殺し屋に狙われる恐ろしさは知っている。
「……あら、反応薄いのね」
「え?」
心の底から同情をしたのだが、菫にはそうは見えなかったようだ。
「それが、一人や二人じゃなくって。何度も何度も、違う殺し屋が鉛君を狙ってくるの。その問題解決に色々していたのよ……そんな時、この間のさくらの件があって……はぁ、知らないけれど、私厄年なのかしら」
「俺も毎年厄年な気がします」
「それで、この間知ったんだけど、また殺し屋が来てるみたいで」
「はあ」
徐々に雲行きが怪しくなっていく。こんな家族連れの多いファミレスで、殺し屋が来ているから……というような会話は、何処か浮世離れしている。このまま何も聞かずに帰ってしまった方がいいのかもしれない。
「人手が足りなくて……だから、光ちゃんにもお願いしようと思ったんだけど、今いないんでしょう?」
「な、なんで知ってるんスか……」
「だって、私よ? 知ってるに決まってるじゃない」
にっこりと笑顔でそう言われたら、深く追求するのはやめる。
無遠慮につついて蛇が出てきても厄介だ。苦笑いで誤魔化す。
「だから、透君に頼もうと思って。ねっ、ちょっと手伝ってよ、お願い!」
「いやいやいや! そんな掃除当番変わって! みたいな雰囲気で頼まれても、無理無理無理!」
「あ、そっか。殺し屋じゃなくて、不良の喧嘩だって嘘つけばよかったのね?」
「それもそれで印象最悪ですね」
「あら、慣れないの? あれだけ喧嘩に囲まれた生活してるのに」
「俺じゃなくて光ですからね」
だから巻き込むなと、強めに言うが、菫は頬杖をついて外を向いてしまっている。
わざと聞いてないなと、目を眇めてじっと見ていたが、どうやら違うらしい。
ぼんやりと今にも瞼が下りてしまいそうになっている。
「……眠いんですか?」
「……ううん。違うわ。鉛君と一緒ねって思っただけ」
「え?」
店員が菫のアイスコーヒーを持ってきた。ストローでかき回す。ただかきまぜているだけだった。
「でも、次期組長だって」
「周りと私が言ってるだけ。鉛君はそんな気ないの。鉛君はインストラクターになりたいの」
「……それは……」
「どう思う?」
「え?」
「私の事、どう思う? そういう風に言う私って、鉛君から見たらどう見えてるのかしら」
こめかみを指でとん、と叩いて、菫はのっそりとした視線で透を見据えた。コップの底で沈殿した砂糖のような、どろりとした空気が流れる。
いつも明るく、元気な様子の菫は枯れかかっている花のようだった。
――多分、普通の状態ならこんな事聞いたりしない……
疲れているから、普段と違う言動をする。
皿とフォークがぶつかる音、氷がぶつかる音。家族連れ、友人、仕事仲間で来ている人たちのざっくばらんな話し声の中の一つは自分達だ。
だが、今その音が消えた。一つのテーブルの沈黙が、こんなにも他のテーブルとかけ離れている事に気が付く事になるなんて。
まるで孤島のような静けさの中、透は菫の目の下の隈や、目の奥にある何かを汲み取ろうと言葉を探し続けた。
――二人の事なんて知らないしな……
どういう関係なのか、どう思っているのか、それほど仲がいいわけではない。
一度鉛の家にお邪魔をしたことがあるが、いい家だったと、しっかりした母親がいて、二人は幼馴染で仲が良くて、同じ学校に通っていて、右腕で。
鉛はインストラクターになりたいのに、それを叩き落として組長に据えようとする菫には、多かれ少なかれ嫌な思いをしているはずだ。自分がそうなのだから。
光が勝手気ままに透のふりをして喧嘩をして、不良の余波がたくさん来ている。被害は被っている。
鉛もおそらく透と同じような心境なのではないか。
だが、透は心の底から光を憎んだりはしていない。
――でも、家族だしなー……
絶対に嫌いになれない。どれほど嫌な目に合わされても、嫌な事をされても、言われても、決して嫌いになる事はない。
休日、お互いに予定が合えば時々出かける事もあるし、暇なときには話をしたりもする。本当に時々だが、だが、それが憎しみに絶対に繋がらない鎖のようなものだと透は思っている。
でも、この二人はどうだろう。
赤の他人だが、幼馴染。透の立場から見ると、忍との関係に近いのかもしれない。
小さいころから一緒に居て、あの髪フェチが光の味方をして『透のふりをして何が悪いんだ、光が正しい!』と、言って来たら少し嫌だ。
だが、それも忍がちゃんと透の事も考えてくれている事を知っているから許せるのだ。
長年の付き合いだ。光よりも劣るが、透にも好意を向けてくれていることは理解している。
だからきっと、鉛も菫の好意を感じ取っているはずだ。
あれよあれよと流されているのも、菫の事が好きだからだ。
心の底から憎んではいないが、きっと困っている。
まったくしょうがないなと、そんな風に思っているのではないだろうか。
――……あれ、もしかして……そっちの事?
家族から幼馴染に発展した考えがまとまり、菫に答えようとした透だが、もしかすると、その好意が恋愛感情があるのではないか、と気が付いた。
――まさか、この人、俺に恋愛相談してるのか……?
この新橋徹に、目の下に隈を作って、ずっとストローでアイスコーヒーをかきまぜている菫は相当にまずい状況だ。
「……きっと、大事に思ってますよ」
この疲弊した菫には、深く考えず、欲しい言葉を投げかけるのが一番の薬だ。
そう判断した透の言葉に、菫は視線を上げた。
「大事、ね……」
だが、その顔は晴れやかにはならなかった。疲れを癒すような言葉ではなかった。
米神を抑えたまま、菫は店内の方へ視線を向ける。
険呑なその視線に、もっと考えて発言すればよかったと後悔する透が、誤魔化すようにアイスコーヒーを飲んだ。
菫はちらりと、斜め前にあるテーブルを見た。
家族連れだった。小さな女の子が、笑顔でお子様ランチを頬張っている。
父親と母親がそれを笑顔で眺め、その隣ではハンバーグを食べている兄。小学校低学年の兄と妹の笑顔が見えた。幸せそうな家族の光景が広がっていた。
「きっと、そうに違いないわ」












20161125



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