狐の嫁入り






コホン、コホンと咳をした。手を叩いてボーイを呼ぶように、その女は男を呼んだ。親戚の集いの中、騒めく中で鈴の音を聞いたように男はすぐに立ち上がり、彼女の傍に座った。
私が見たその瞬間こそ、女と男が結びついた瞬間であった。
年末の親戚の集いというのは何とも狭苦しく、煩く、酒臭く、どうしようもなかった。
学校が終わった後、すぐに新幹線に乗り父方の実家に戻ったせわしなさに、年越しの落ち着きなどどこへやら。着替えや勉強道具をそれなりに用意しているが、あまり意味はないかもしれない。
年末は今日のように大騒ぎし、年が明けて数日も大人たちは一年に一度の馬鹿に戻り、そして冬休みが終わる直前、冷や水をかけられたかのように酔いが冷め、それぞれ日常に戻っていく。私は年末があまり好きではなかった。大人の、しかも親の酔った姿なんて見ていられない。小さい頃は恐怖を感じていたが、高校になればその中でジュースを飲んで耐えられるくらいには成長した。
セーラー服に身を包み、ちびちびとオレンジジュースを飲む。これがお酒になっても許される時まで、これは続き、私は参加しなければならないのだろうか。
集まったのは平屋の広い宴会部屋で、細長く低い机に、寿司からステーキまで、絢爛豪華な料理がずらりと並んでいた。大人たちが騒いでも平気なのは、祖父は大地主で、広い土地を所有しており、田舎というのも相まって、お隣さんからとても距離が離れていた。
背後にそびえる大きな山も、その騒ぎにずん、とそびえたったまま微動だにしていない。何でも昔土砂災害があったとかで警戒されている山だが、そんな事はないと、寡黙な親父のように何を言われてもここ数十年動じていない。
 すぐ前のこの煩い家に苦情一つ言わず健気なものだ。
 土地が悪いと言われているようだが、そこに住む人間もいかがなものだろう。頭の悪そうな大人のだらしない声に、私は辟易している。
ぎゃん泣きする子供はすでに別の部屋で大量に子犬のように眠っている。大人数の兄弟の家族で十数名、そして祖父の近所の人間が十数人程、もはや誰が血縁関係があるのか分かりにくい中、女がコホン、と咳をしたのだ。
ノイズのような異国後の中、美しい耳慣れた音を拾った時のような感情が胸に広がった。
私はオレンジジュースの後を引く苦味やら、大好きないくらを大口を開けて馬鹿騒ぎする叔父を見て笑っている叔母にとられた事にご立腹だったのだが、その瞬間だけはきっちり、透明な気持ちで見ていた。
その女は長く艶やかな黒髪を肩に垂らしていた。垢抜けてもいないが、どこか惹かれる人だった。同性の私ですら感じるところがあった。だから目を引いたのだ。
けれど、その時まで彼女がそこにいるなどと誰も知らなかったのではないだろうか。
若い女の子が大好きな男の人たちも、馬鹿騒ぎを重視してしまう程なのだから。
両隣のおじさん軍団も、立ち上がり、腹踊りをする人に夢中で、か細く華奢な女の人など気にしていないようだった。
両手におじさん、されど彼女は花だった。
あの人は誰だろう。ふと、純粋な疑問がぽんっ、と花開いた瞬間、彼女の横に一人の青年が心配げに座った。
二人の視線がぶつかった時、私は驚いた。
この二人は結婚する。
おそらく当人同士も思ったのだろう。そして、すぐに不安に駆られた。男は親戚の三つ上のお兄ちゃんで、とてもいい人だった。心配などありはしない。なのにどうしてこんなにも不安に思うのだろう。胸が締め付けられる。暫くすると除夜の鐘が鳴り響いた。乾燥した空気に響き、私のからからと転がる心が振動した。



大学を卒業したお兄ちゃんは結婚すると言っていた。相手はあの女の人だった。あれから気になってお兄ちゃんと連絡を取り合って、あの女の人とどうなるのか気になって、野次馬としての接触なのだが、いやはや、まさかこうなるとはと、セーラー服を脱ぎ捨てた春に携帯片手に、桜を見上げながら感慨深く聞き入った。
彼女は祖父の近くに住んでおり、お兄ちゃんは私と同じように都会に住んでいた為、遠距離恋愛をしていたらしい。そして携帯やテレビなど、機械に弱いようでこの時代に文通で愛を育みあっていたそうな。
それを聞いて皆はとっても笑顔だ。彼女も素朴で控えめでかわいらしい人で、相手の両親も静かだがいい人そうで、誰もがお祝いムードになった。私もその中の一人だった。大人たちは結婚に浮かれ、そしてまたもや宴会出来ると浮き足立ち、また大人数で飲んだり騒いだりと煩い夜が続いた。
一升瓶が転がり、子供が涎を垂らして転がり、おじさんがパンツ一丁で転がり、おばさんが笑い転がり、私は煩く、酒の臭いから逃げたくて外に出ようとしたが、連日の雨が続いており、傘をさしてまで出たくはなかった。
お兄ちゃんと彼女は主役だというのに、もてはやされたのは最初だけで、後は大宴会の渦にのまれていた。ぐでんぐでんに酔ったお兄ちゃんは部屋の隅でぐーすか眠り、その彼女はお兄ちゃんの傍でぽつんと座って皆を見ていた。
出て行ってもいいのになあ、と、思っていると、彼女はコホン、コホン、と咳をした。
私はすぐに部屋に戻り、彼女の傍に腰を下ろした。
そう言えば、この咳が気になっていたのだ。もしかして何か病気を患っているのだろうか。ならばこんな場所にいるのは辛いだろう。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」
「煩くないですか?」
「賑やかで、とっても大好き」
 ジーンズに白いシャツ姿のラフな格好で、にっこりと微笑んだ。
「……あの、咳されていましたが、大丈夫ですか?」
「ふふ、いいえ、大丈夫です。私、とっても元気で、今まで風邪なんて引いたこと無いの」
「へえ……羨ましいなあ」
「そんな事ないわ、私の両親ったら心配性で、私が咳をし始めた時なんか、療養しなければいけないって引っ越しちゃうんですもの」
「それは凄いですね……」
小さい女の子には伝えられない重病でも患っていたのでは、と、一瞬思ったが、自分よりも年上の妙齢の女性にその事実を今でも隠している必要はない。
「……やっぱり、何かの病気だったんですか?」
「いいえ? そんな事はないわ……コホンッ」
「どれくらい転校したんですか?」
「うーん……分からない、数えきれないくらい……ゴホッ、ケホッ」
「えっ」
「最短で一週間で引っ越したこともあったわ。夜逃げみたいに」
ニコニコと言っている彼女は、それが当たり前みたいに、ほんの少し変みたいに思っているようだが、私の心臓はバクバクと鳴り続けていた。
何か嫌な予感がする。いつの間にか騒ぎが耳から抜け落ちていたが、ハッと我に返った瞬間、ボリュームが一気に上がったように周りの音が入って来た。
そちらをすぐに見た。裸踊りに興じる父を見てドン引きする暇はなく、彼女の両親を探した。
「あの、お父さんとお母さんは?」
「確か家に忘れ物をしたって言って、二人で取りに行きましたよ。皆に言うと空気を壊しちゃうかもって」
「お家ってどこでしたっけ?」
「すぐ近くの……山を下って右に行ったところです。結構距離があるんですけど……」
私は散歩がてら、その家に行ってみた。傘をさして、少し強い雨に打たれながら彼女の家に向かった。
ぱしゃぱしゃとそこには軽トラックの荷台に荷物を乗せている彼女の両親の姿があった。慌てて駆け寄り、傘もささずに作業しているお母さんの肩を掴んだ。
「何してるんですか?」
私を見てビクッと反応した。だが、すぐに無理矢理取り繕ったであろう笑顔を私に向けてきた、ざああああ、と、雨が強く傘を叩いた。
「いえ、その」
「結婚前の準備だよ」
彼女のお父さんが運転席からおりて言った。
「嫁入り道具が必要だろう? だから……」
「結婚して住む家はすぐそこですよ。こんな大荷物、一人分じゃないでしょう」
何故、レインコートも着ずにこんな事をしているのか。ざあざあと雨が強まっていく。
ゴロゴロとお腹が鳴るように雷も鳴り始めた。
早く家に戻らないとと思っていると、彼女の両親の顔色は空と同じようにどんどん黒く陰っていく。
「ね、もういいでしょう? これを運ばないと……」
「待ってください、なんか……なんか変です……」
「いいから、もういいから、おい、早く乗れ」
「はい」
「まさか、あの人を置いていくんですか!?」
お母さんの腕を掴みながらそう叫ぶと、私の手のひらにぽたりと一滴落ちた。雨とは違う液体が頬を伝っている事に気が付いた。雨とは違い、熱かった。
「違うの、違うのよ……もう、どうにもできないの……」
泣きだしたお母さんに、私はどうしていいかわからなかった。かといって、ここで行かしてしまうのも駄目だと思った。
「どうしたんですか? 一体何がしたいんです?」
優しく顔を覗き込みながら尋ねると、お母さんは私の目を見た。うるうると潤んでいて、人の心がある瞳が見えた。
「もう駄目なの……もう手におえないの、どうにかしようと思って、色んな事をしたわ……教会にも、寺にも、霊能者にも、数えきれないほどどうにかしてくれって言ったわ。でも、もう無理……」
ガタガタと震えるお母さんの肩を掴んだ。傘が足元で落ちて、叩きつける雨粒が私の身体に降り注いだ。
身体の中の毒を吐き出すように、吐血しているように、雨音に?き消えぬ声で言った。
「あの子が咳をすると、厄災がやってくる。小さい頃からそうだった。近くの家が火事になったり、川が氾濫したり、殺人が起きたり……数えきれないほど起きているのよ……!」
ざあああああ、と、雨の音が聞こえる。
ドクンドクン、と、何故か心臓が高鳴る。
なのに、血流は熱を帯びるどころか冷えていく。
「あの子……ここを離れるのが嫌だから、今までずっと隠していたって言った! 結婚したい相手だから、私達に咳をしている所を見られない様にしていたの! ここずっと!」
 さっきあの子が咳をしているから、問い詰めたら……!」
「早く!」
急かすようにお父さんが車の中から叫び、お母さんは私の腕から逃げて助手席に乗った。
「ごめんなさい、ごめんなさい……もう、婚姻届けは出してるの……」
足元の傘も拾い上げる事も出来ず、ゴロゴロと嘶く雷にも怯える事なく軽トラックの後ろ姿を見送った。闇夜の中で嫌に光って見えて、それがどんどん遠くに行く。進むたび、雨に霞む光りが弱まり、最後は人魂のように夜に飲まれて消えた。
人のいなくなった家というのは、どうしてこんなに閑散としてしまうのだろう。数時間前までここで生活していたのに、中の家具や生活必需品を取り除いただけで、こんなおどろおどろしくなるのだろう。
内臓を抜かれた人間のように、家はそこにあるだけだった。
中を抜かれた家は何も吐き出すことはない。先ほどのお母さんのように、胃袋がすっきりしている。
車が消えた方角の方にある、祖父の家を見た。その背後に山がそびえている。
煌々と輝く祖父の家。その後ろには、黒々とした山がそびえたっている。
コホン、コホンと咳をするあの人がいる家がある。黒々とした山がある。
中身のない家は軽いが、なら、雨を吸った山はどれほど重いのだろう。
何も物言わぬのは、我慢しているからではないだろうか。
咳を、病を、吐き気を。
あの寡黙な山は今まで沈黙を破っている。だが、空からこれほどまでに暴言のように雨を降り注がれ、げんこつのように雷を落とされても、耐えられるのだろうか。
ドクン、ドクンと空を見上げた。雨粒が目に入った。

ゲロリ、
吐瀉物のように寡黙な山が土砂を吐き出した。

私の目の前を滑り落ち、祖父の家を飲み込だ。
私はそこで棒立ちになって全てを見届けていた。
山は、まるで私がいるのが見ていたかのように、咳をする際、顔を別の方向に向けてするように、私の反対側に向かって吐き出していた。
顎を引き、私は車が消えた方角をぼんやりと見た。人魂の光は見えなかった。
ざあああああ、と、鼓膜を叩く雨音に思わず膝が笑った。












20150112





Top